第七話 王国最強の魔法騎士、ネクロアに挑む
アデルは王国軍の敗北を聞いても剣を収めなかった。
彼が守ると誓った村は王都の北にあり、そこには幼い娘が暮らしている。
王国が負ければ村が焼かれると教えられてきた。
だから彼にとって、ネクロアはまだ顔を知らない侵略者だった。
決闘を申し込む前、彼は副官に手紙を託した。
『私が帰らなければ、娘には父が逃げなかったと伝えてくれ』。
副官は手紙を受け取らなかった。
「逃げなかったと伝えるより、生きて帰って自分で話してください」アデルは返事をせず、剣を抜いた。
敗走する王国兵の列を割って、一人の騎士が進み出た。
白銀の鎧、紋章の刻まれた長剣。
魔法騎士アデルだった。
「大魔法使いネクロア! 王国の名誉を賭け、一騎討ちを申し込む」周囲の兵士が息を止めた。
敗れた軍にも、まだ頼れる英雄がいる。
その希望が騎士の背に集まっていた。
リュシアは即座に反対した。
「罠かもしれません」「だから周囲の術者を下げて。彼の部下にも武器を置かせて」ネクロアは杖を持って前へ出た。
「名誉のために戦うの?」「国を守るためだ」「ならば、ここにいる兵士の命も国の一部でしょう」
アデルの銀の剣が光った。
剣身には火炎を切り裂く古い術式が刻まれている。
彼の背後で部下たちが息を止めた。
ネクロアは戦場中央の広場に結界を張り、周囲の兵が巻き込まれないようにした。
アデルの第一撃は炎を二つに割った。
第二撃は雷を受け流した。
見物していた王国兵が歓声を上げる。
しかし第三撃の前に、彼の足元の影が伸びなくなった。
ネクロアは光の向きを変え、剣の術式が参照する方位を狂わせていた。
「剣が強いのは分かったわ。でも剣だけを信じすぎた」銀の剣が地面へ落ち、アデルは片膝をついた。
アデルは炎を斬り払った勢いで踏み込んだ。
剣が吸い取った熱は柄へ伝わり、掌を焼く。
彼は握り直す動作を袖で隠した。
ネクロアは剣を避け、足元の土埃に目をやった。
剣の刃が魔力を吸うなら、刃に触れないものを使えばいい。
ただし地面を大きく崩せば、結界の外の兵も巻き込む。
彼女は杖の先を数寸だけ下げた。
アデルの剣は再び炎を消した。
部下が歓声を上げる。
しかし彼の手首は一瞬だけ下がった。
ネクロアはその変化を見逃さなかった。
「その剣は無敵じゃない」アデルは笑おうとしたが、熱を帯びた柄が指に食い込む。
「無敵である必要はない。お前を倒すまで持てばいい」ネクロアは彼の言葉よりも、背後の騎士たちが一歩ずつ前へ出るのを見ていた。
決闘が長引けば、誰かが約束を破る。
ネクロアは三撃目を放たず、杖を地面へ向けた。
アデルは反射的に剣を上げたが、刃に触れる魔法は来ない。
土が踵の下でわずかに動き、踏み込みの力を奪った。
彼は膝をつきかけ、剣を支えに耐える。
「なぜ攻撃しない」「もう十分に戦ったでしょう」その答えが挑発に聞こえたのか、アデルは怒りに顔を歪めた。
アデルは一度だけ、結界の向こうを見た。
副官が負傷した騎士を支えている。
自分が勝てば彼らは戦い続け、負ければ王都で反逆者と呼ばれるかもしれない。
どちらを選んでも、娘に胸を張って説明できる未来は見えなかった。
「迷うな!」と自分を叱り、剣を振り上げる。
だが土の段差に足を取られ、刃は空を切った。
ネクロアは喉元へ杖を向けられる位置にいながら、手を止めた。
「殺せるだろう。なぜ殺さない」アデルの声は怒りよりも疲労に近かった。
「あなたが死ねば、あの人たちは報復のために戦う」ネクロアは結界の外を示した。
「あなたが生きて武器を置けば、帰る理由ができる」アデルは部下たちを見た。
自分が守ると誓ったものは、王国の名誉という言葉の中ではなく、彼ら一人ひとりの顔にあった。
ネクロアは剣を封じる結界を緩めた。
「自分で置けますか」アデルは驚いて顔を上げた。
力ずくで奪われれば、敗北を他人のせいにできる。
自分の意思で置けば、言い訳は残らない。
彼は部下の顔を一人ずつ見た。
若い騎士が泣くのを堪えていた。
アデルはゆっくりと剣先を下げた。
「……私の負けだ」
アデルが剣を地面へ置くと、結界の外の騎士たちが動揺した。
まだ戦える、と叫ぶ者もいる。
アデルは兜を脱いで立ち上がった。
「私のために死ぬな。武器を置け」命令を聞いた副官は、最初に槍を倒した。
続いて十本、二十本と石突きが地面を打つ。
ネクロアは勝利を宣言しなかった。
アデル自身の声が、ここでは何より必要だった。
そのとき、アデルの指が震えているのを副官だけが見た。
戦場では恐怖を隠すことを教えられてきた。
しかし副官は何も言わず、彼の手から重い籠手を外した。
「娘さんの手を握るには、こっちの方がいいでしょう」アデルは声を出さずにうなずいた。
アデルは部下の列を歩き、負傷した者の名前を尋ねた。
敗れた騎士たちは、彼が叱責すると思って身構えた。
「全員、帰れるように手配する」副官が顔を上げた。
「王国から処罰されるかもしれません」アデルは答えた。
「それは私が受ける。お前たちが背負うことではない」彼は初めて、王国の名誉より先に部下の帰還を命じた。
アデルの剣が結界を裂いた瞬間、リュカは炎を放とうとした。
しかしアデルの背後には、倒れた味方の騎士がいた。
炎なら勝てる。
だが騎士も巻き込む。
リュカが躊躇すると、アデルはその視線の先を振り返った。
「敵を守る余裕か」
彼は倒れた騎士を引きずり、結界の外へ押し出した。
剣を構え直したアデルに、ネクロアは言った。
「今の一手は、あなたの勝ちね」
アデルの表情が初めて揺れた。
部下を帰還させる命令を出したあと、アデルは娘への手紙を取り出した。
戦いの前に書いた『必ず勝って帰る』という一行が残っている。
彼は筆を持ったまま動けなかった。
敗北を告げれば、娘は失望するだろうか。
だが約束を守るために戦い続けていれば、帰ることさえできなかった。
副官は手紙を覗かず、ただ封筒を置いた。
アデルは手紙を封じる前に、副官へ尋ねた。
「今日、帰らなかった者は何人いる」副官は目を伏せ、名を一人ずつ読み上げた。
アデルはその名を別紙に書いた。
「家族に伝えるのは私だ。勝てなかった理由を言い訳にしてはいけない」副官は首を振った。
「一人で背負わないでください。私も同行します」アデルは初めて、部下に頼ることを恥と思わなかった。
アデルは剣を拾わず、戦場の端に立つ副官を呼んだ。
副官が差し出したのは、出陣前に書いた娘への手紙だった。
アデルは封を破り、最後の一行を書き直した。
『父は逃げなかった』を消し、『父は帰る道を選んだ』と記す。
剣で守ろうとした村へ、今度は手ぶらで戻らなければならない。
アデルは焼けた宝剣の柄を見つめた。
刃は無傷なのに、握っていた右手の皮膚が裂けている。
ダリオが短い試験術式を当てると、柄の内側から赤い熱がにじんだ。
「魔力を防ぐほど、持ち主に熱を返す仕組みです」
「そんな欠陥を、誰も教えなかった」アデルの声は怒りよりも低かった。
剣を授けた王宮の鍛冶師は、師の形見だと告げたこの武器を『決して敗れぬ剣』と呼んでいた。
アデルは今日まで、勝つために必要なのは自分の覚悟だけだと信じてきた。
負傷兵の列から副官が進み出た。
「将軍、帰還命令を」
アデルは自分の掌を見た。
娘と交わした、戦が終われば庭の木を直すという約束を思い出す。
剣を振る手が残っていても、同じ手で娘の小さな指を握れなくなるかもしれない。
アデルは部下の前で宝剣を鞘に収めた。
「退く。これは敗走ではない。お前たちを王都へ帰す命令だ」
ネクロアは追撃しなかった。
アデルが去り際に振り返る。
「この剣を作らせた者が、欠陥を知っていたとしたら?」彼女は答えず、ダリオと目を合わせた。
王国が最強と呼んだ武器には、敵を殺すより先に味方を壊す秘密があった。




