第六話 王国軍五万人、魔術師三千人から逃げ始める
王国軍の一角で、一人の歩兵が盾を置いた。
隣の兵は彼が負傷者を助けようとしているのだと気づかず、敵に突破されたと思い込んだ。
二人目が走り、三人目が後を追う。
後方の兵には誰が何を見たのか分からない。
前線が崩れたという噂だけが伝わった。
アルゴスは予備隊に停止を命じ、混乱の原因を確かめようとした。
しかし命令が届くより早く、別の報告が本陣へ飛び込んできた。
敗走を広げたのは、後方の荷車が動いたことだった。
負傷者のために街道を空けようとしただけなのに、遠くから見た兵には補給隊の撤退に映った。
「水がなくなる!」噂が列の先へ走る。
御者は荷車を止め、樽の栓を抜いて水を配った。
「逃げていない。水を届けに来たんだ」声を聞いた兵は立ち止まったが、前方で押し合う何千人には届かない。
御者は伝令に真相を託した。
伝令が本陣へ向かうと、道を塞いでいたのは敵ではなく、自軍の敗走兵だった。
アルゴスは予備隊を街道へ送った。
槍を揃えた隊列は、逃げてくる味方の前で止まる。
副官が叫ぶ。
「押し返しますか!」アルゴスは前列の兵が抱えた子供ほどの年の旗手を見た。
顔面を血で濡らし、片足を引きずっている。
「槍を伏せろ。道を半分空け、負傷者を後ろへ」予備隊は敵に向かうのではなく、味方を通すために左右へ割れた。
戦線を立て直す最後の兵力は、その瞬間、救護隊に変わった。
アルゴスは予備隊を街道へ送り込む。
「止まれ! 前線を支えろ!」しかし行く手には武器を捨てた兵士と負傷者が溢れ、予備隊の槍は味方を傷つけかねなかった。
副官は声を枯らす。
「軍旗を上げてください。まだ総司令官の旗があれば……」次の瞬間、雷鳴隊が旗竿の金具だけを弾き飛ばした。
布は泥へ落ちた。
ネクロアは敵の混乱を見ても攻撃を強めなかった。
「追撃禁止。逃げる者の背中に魔法を向けないで」リュカが食い下がる。
「再編されたら、また攻めてきます」ネクロアは谷の出口を示した。
「あそこで押し合えば、武器を捨てた兵まで死ぬ。私たちが欲しいのは死体の数じゃない。戦いをやめるという決断よ」リュカは唇を噛み、火炎隊へ停止の合図を送った。
炎の壁が消えると、王国兵の足音がしばらく続き、やがて白旗が上がった。
ネクロアは退路に立つ治癒術師へ護衛を付けた。
逃げる兵士が恐怖から暴れる可能性があるためだ。
リュシアは反対した。
「敵を助けるために味方を危険にさらすのですか」ネクロアは迷わず答えた。
「だから護衛を付ける。善意だけで人は守れない」負傷者の収容所では、王国兵と魔術師が同じ水桶を使った。
最初は互いに目を逸らしていたが、一人の兵士が治癒術師に「ありがとう」と言ったのをきっかけに、短い会話が生まれた。
戦場で交わされた最初の穏やかな言葉だった。
前線へ入ったミリナは、負傷した王国兵が石を握っているのを見た。
護衛が盾を上げる。
ミリナは近づかず、水袋を地面へ置いた。
「治療したい。でも、あなたが怖いのも分かる」兵は水袋を見つめ、やがて石を落とした。
ミリナは護衛に頷き、武器の確認が済んでから一歩進んだ。
助ける側の善意だけで、相手の恐怖を消すことはできない。
結界の外で降伏を申し出た兵の一人が、隠していた短剣を抜いた。
治療係の見習いが腕を切られ、護衛の杖が一斉に向けられる。
ネクロアは兵の足元を固め、剣を落とさせた。
「護衛の位置が近すぎた。私の指示が悪かった」リュシアは驚いた。
ネクロアは見習いを救護班へ運びながら続けた。
「次から降伏の確認と治療を別の場所で行う。助けたいという気持ちだけで、味方を危険にさらしてはいけない」
負傷した術師は腕を押さえて笑った。
「助ける相手を間違えたのかと思いました」ネクロアは包帯を結び直す。
「助けることが間違いになるなら、間違いを正す方法を考える。助けること自体をやめる理由にはしない」
白旗を掲げる決断の直前、軍務卿から最後の命令が届いた。
『退く者は反逆者として処断せよ』。
副官は紙を見て顔を青くした。
「これを兵に伝えますか」アルゴスはしばらく命令書を見つめ、火鉢に落とした。
「伝えない」副官は目を見開いた。
「陛下の命令に背くことになります」「私の部下は王国の民だ。陛下の怒りのために殺すことはできん」彼は白い布を探したが、指揮所にはなかった。
副官が自分の包帯を外して差し出す。
「これなら」アルゴスはその布を槍に結び、泥の道へ歩き出した。
アルゴスの副官は燃え残った命令書の角を拾った。
処罰の文言は読めない。
彼はそれを懐へしまい、白旗の下へ歩いた。
いつか誰かに問われたら、命令を破ったのは総司令官一人ではないと証言するためだった。
命令書を燃やしたアルゴスは、ついに残存兵の前へ出た。
彼の鎧は泥に汚れ、剣の先は震えていた。
「総司令官の命令だ。これ以上の戦闘をやめる」部下が叫ぶ。
「陛下が許しません!」「陛下はここにいない。ここにいる兵を死なせる責任は私にある」
白旗が上がったとき、王国軍の兵士たちは勝者の顔を見ようとした。
ネクロアは馬に乗らず、歩いて近づいた。
「武器を置いて。食事と治療を用意する」誰かが嗚咽した。
五万人を率いた軍が敗れたのは、そのときだった。
ネクロアは武装解除の場所を三つに分け、負傷者の列と健常者の列を混ぜないよう指示した。
混乱の中で一人でも踏みつぶされれば、勝利の意味が変わってしまうからだった。
敗走する王国軍の列から、白い布を振る一団が現れた。
降伏の合図かと思われたが、布の下には武装した弓兵が潜んでいた。
リュシアは即座に隊を伏せさせ、矢が地面へ刺さる。
怒った術師たちが炎を構えたとき、ネクロアは布を持つ少年が震えているのに気づいた。
「撃つのは弓を持つ者だけ。白布の下を全部焼かないで」
狙いを絞った土壁が弓兵の足を止めた。
捕えられた少年は、布を振らなければ後ろの兵に斬られると命じられていたと証言した。
降伏の知らせが届いた王国軍の野営地では、最初に安堵した者と怒った者がいた。
まだ戦えると叫ぶ若い隊長もいたが、彼の隣には包帯を巻いた兵が何十人も座っていた。
アルゴスはその列の前に立った。
「私が責任を取る。お前たちは家へ帰れ」隊長は何か言いかけ、やがて剣を鞘へ戻した。
王国軍の旗は降ろされたが、兵士たちが歩いて帰るための道は残された。
敗北は終わりではない。
そのことを認めるのが、何より難しかった。
武器を置いた旗手は、まだ少年の顔をしていた。
アルゴスは彼の肩から泥のついた旗を受け取り、自分で折り畳んだ。
「お前の仕事は終わりだ」旗手は震えながら問うた。
「負けたのに帰っていいんですか」総司令官はすぐには答えられなかった。
自分が国王の命令を破った以上、帰還を保証できない。
それでも「帰るために生きろ」と告げた。
副官の腕から外された包帯には、乾いた血が残っていた。
アルゴスはそれを旗竿に結び直し、兵たちに見える高さまで上げた。
勝利の旗より重いものを掲げたのは、初めてだった。
敗走する兵の列に、アルゴスの副官は自分の弟を見つけた。
弟は盾を捨て、負傷した仲間を背負っていた。
副官は「持ち場に戻れ」と叫びかけて口を閉じた。
今その命令を出せば、弟は仲間を地面へ下ろすしかない。
彼は代わりに担架を呼んだ。
夜、リュシアは救護所の前に二本の線を引いた。
降伏者が武器を預ける線と、治療を受ける線。
間には護衛と記録係を置く。
昼の襲撃で負傷した見習いは、その図を見て頷いた。
「次は、怖がらずに手を伸ばせそうです」ネクロアは安堵したが、謝罪を取り消さなかった。
敵を救う方針は変えない。
そのための責任を、初めて形にした夜だった。
王国軍の敗走を追う若い術師に、ネクロアは追撃停止の合図を送った。
逃げる背中を討てば戦果は増える。
だが翌朝、同じ道を避難民が歩く。
その道を戦場にしないことも、勝利の条件だった。
伝令の少女は停止命令の写しを二枚作り、別々の道から送った。
一人が戻らなくても、もう一人が届く。
ネクロアはそれを見て、命令を出すことと届かせることは違うと痛感した。
逃走する王国兵を追うよう求める声が上がったとき、ネクロアは救護隊の人数を尋ねた。
負傷者を運ぶ手が足りない。
「追撃すれば勝ちを大きくできる」とリュカが言う。
「その勝ちを運ぶ人が残らないなら、何のための勝利?」ネクロアは追撃隊の半数を担架運びに回した。
退却する王国軍を追うべきだと声が上がった。
リュシアは追撃の予想経路に青い石を置き、その先にある村の井戸を指した。
「ここで戦えば、村の水がなくなる」
勝てる戦いをやめる理由としては弱い、と若い術師は思った。
だがネクロアはその石を地図から外さなかった。
「追わないことで守れる場所も、勝利に数えなさい」
最後尾の旗が伏せられたとき、少年旗手は初めて立ち止まった。
振り返った先にあったのは追撃する炎ではなく、負傷兵を運ぶために開けられた道だった。
少年は旗を折り畳み、泥の中へ座り込んだ。
敵の魔術師が勝ったのだと、ようやく理解した。
だが自分が生きている理由だけは、まだ分からなかった。




