第四十八話 一万二千の魔術師、複合魔法を起動する
前夜、複合魔法の最後の試験は成功しなかった。
雷鳴隊の放電が結界の端を焦がし、若い術者が腕を負傷した。
ネクロアはその場で全隊を止め、危険な連鎖が起きた場合は各隊長の判断で術式を解除してよいと命じた。
「完成した魔法より、帰れる術者が大事」リュカは反論しかけたが、包帯を巻く仲間を見て口を閉じた。
夜明けとともに、帝国軍の太鼓が鳴った。
五十万の全軍が一度に動いたわけではない。
前衛だけでも地面が揺れるほどの兵数だった。
城壁の上でリュカは紅蓮隊に杖を上げさせたが、ネクロアはまだ撃たせなかった。
「今は炎を見せるだけ」赤い光が空に並び、帝国兵は反射的に散開する。
その散開先には、氷晶隊が夜のうちに水脈を集めた浅い溝があった。
地面は凍らず、むしろ泥になって足を奪う。
進路を変えた兵は結界隊の見えない壁にぶつかり、密集した場所へ戻される。
そこで雷鳴隊が攻城塔の連結金具だけを撃ち抜いた。
巨塔は倒れず、前進を止めた。
後続の兵が詰まり、帝国軍の巨大な陣形が歪む。
術式の起動には厳密な順番があった。
氷晶隊が水を動かし、結界隊が進路を制限し、雷鳴隊が金具を切り、紅蓮隊が蒸気を生む。
ひとつでも早すぎれば敵は逃げる。
ひとつでも遅れれば味方が危険にさらされる。
ネクロアは魔法陣の光ではなく、各隊長の呼吸を数えていた。
「今だ」とネクロアが告げた。
紅蓮隊の火球は兵ではなく、帝国軍が用意した無人の防護壁へ向けて放たれた。
熱で水槽が破裂し、蒸気が濃い白幕を作る。
敵の信号旗は見えなくなり、伝令の声も届かない。
ネクロア軍の魔法はそれぞれ単独では決定打にならない。
だが五つが重なると、敵軍の目、足、道、命令が同時に奪われた。
帝国軍の前衛指揮官は、地面に描かれた淡い線に気づいた。
何かの目印だと思い、兵に踏み消させた。
しかし線は消えず、靴底の下で別の模様へつながった。
彼は後退を命じたが、背後から続く兵の列がそれを許さなかった。
リュカは炎を撃つ直前、いつものように敵兵の顔を思い浮かべた。
だが今回狙うのは人ではない。
空の防護壁だ。
「これで勝てるのか」疑いは残った。
それでも彼は命令を信じた。
火球が放たれ、白い蒸気が戦場を覆った瞬間、彼はようやくネクロアの意図を知った。
ネクロアは大魔法の中心で、各隊から送られる合図を待った。
紅、青、紫、白、黒。
五つの光が順番に点く。
最後の光がともった瞬間、彼女は杖を地面へ突き立てた。
「これで終わらせる」その声は大きくなかったが、術式の全域へ伝わった。
中央の空白にネクロアが立つ。
彼女は五色の術式を結び、巨大な輪を完成させた。
魔法陣は敵の頭上ではなく、戦場全体の地面に広がった。
「これは敵を焼く魔法ではない。戦う場所を、私たちの望む形に変える魔法」帝国軍の前衛が足を止めたとき、彼らは初めて自分たちが巨大な術式の内側にいると知った。
決戦前夜の訓練を思い返したエルナは、氷の術式に一拍の遅れを加えた。
水が早く動けば、炎が届く前に敵に見破られる。
遅すぎれば味方の結界が押し返される。
彼女はリュカに向かって拳を一度だけ握った。
それが二人で決めた合図だった。
帝国の前衛が散開すると、まず泥の浅い溝が足を止めた。
次に結界が退避方向を限定し、雷鳴隊が攻城塔の信号線だけを断つ。
最後に紅蓮隊の炎が無人の防護壁を熱し、蒸気が旗を隠した。
殺傷を目的としない術式は、どれか一つが失敗すれば、逃げ場のない混乱を生む危険もあった。
複合魔法の陣で一人の見習いが膝をついた。
隣の術師は自分の持ち場を離れず、代わりに伝令旗を振る。
後列から交代要員が駆け込んだ。
十二千の魔術師が一人の天才を真似るのではない。
一人が倒れても続けられる仕組みこそ、彼らの力だった。
「南の線が途切れた!」とノインが叫んだ。
魔力を使い切った若い術者が倒れ、結界に隙間ができたのだ。
敵兵がそこへ殺到しかける。
エルナは泥の溝をいったん解き、退く方向を一つ増やした。
ネクロアは計画を変更した彼女を咎めない。
「その判断でいい。生きて通れる道を塞いではいけない」
術式の中心で、ネクロアは魔力をさらに注げば敵の列を一気に崩せると知っていた。
だがそうすれば白い道も消える。
彼女は力を増やす代わりに、五隊へ「維持」の合図を送った。
勝利は強さだけでなく、止める力を必要とした。
結界の南端が裂けたとき、ノインは術式を強引につなぎ直そうとした。
だが負傷した術者がまだその内側にいる。
「結界を閉じれば、彼が挟まれる!」エルナは水脈を横へ逃がし、ぬかるみの圧力を弱めた。
ノインは術式を張り直す代わりに、二人が通れる穴を残した。
敵兵もそこへ走り込む。
計画より危険な隙間だったが、仲間は生きて戻った。
帝国の防護壁から白い蒸気が上がった。
リュカは壁の温度が上がりすぎたのを感じ、すぐに熱を止めた。
炎を続ければ壁は破れる。
しかし中の兵は逃げられない。
彼は一瞬、勝利を遠ざける判断をした。
蒸気は壁を覆い、旗の合図を隠した。
兵を焼かずに指揮を奪うという狙いは、初めて形になった。
ゲイルは前線の報告が途切れたことに気づいた。
旗は見えず、太鼓は地面の振動に紛れた。
散開していれば魔法を避けられるはずだった。
しかし散開した部隊は、互いの位置を確かめられない。
彼は予備の伝令を走らせたが、馬は浅い溝に足を取られた。
過去の敗戦を研究して作った対策が、今度は別の弱点になっていた。
ネクロアの額に汗が流れた。
五色の術式は巨大だが、魔力の源は無限ではない。
敵を閉じ込め続ければ味方が先に倒れる。
「何刻も保たせるつもりはない」と彼女は言った。
「ゲイルに、今なら止められると見せる」戦いを終わらせるには、敵の総司令官が命令を届けられるだけの道を残さなければならなかった。
一万二千の術者が魔力を合わせる直前、観測塔の灯が一つ消えた。
通信線が切れたのだ。
ネクロアは詠唱を止めた。
「一つ欠けたままでは始めない」代わりに伝令の少女が手旗を持って塔へ走った。
巨大な術式を支えた最後の部品は、誰にでも見える小さな布だった。
複合魔法の起動直前、一つの観測塔から合図が来なかった。
誰もが待つべきか迷う。
ネクロアは全軍の術式を止め、予備の伝令を走らせた。
塔では見習いが倒れた術者を介抱していた。
合図が戻るまでの短い時間が、最後の攻撃を成功させた。
前衛の一角で、帝国兵が槍を投げ捨てて白い道へ走った。
別の兵が脱走だと叫び、弓を向ける。
魔導軍の結界が矢を受け止めた。
ノインは顔を上げた。
「あの道は敵だけを逃がすんじゃない。敵同士が殺し合うのも止めるんだ」白い道の両脇には、まだ武器を握る兵が立ち尽くしていた。
複合術式の円陣では、一人の見習いが合図を一拍遅らせた。
全員の魔力が揃わなければ、力は逆流する。
ネクロアは発動を急がず、再び呼吸を合わせるよう命じた。
一万二千人の力は、一人の遅れを切り捨てて完成するものではなかった。
五色の光の下で、エルナは一度だけ術式の出力を落とした。
救護所の結界まで揺れていたからだ。
ネクロアはその合図を受け、攻撃の完成より味方の安全を優先した。
複合魔法の輪が広がると、伝令隊の少女は合図の間隔を数えた。
どれほど大きな術でも、現場の部隊へ伝わらなければ味方を巻き込む。
「三つ目の旗が見えません!」
彼女の声で詠唱は一拍止まり、最後の旗が上がってから再開された。
五色の光が中央へ集まり、ネクロアの杖の先で静かに輪を描いた。
大地が震えたが、炎の柱は上がらなかった。
帝国の先頭に立つ兵士は、これまでの魔法より恐ろしいと感じた。
足元が変わり、旗が見えず、命令も届かない。
先頭の兵がその白布へ走り出した。
後列の指揮官は敵前逃亡だと叫んだが、声は届かない。
ゲイルは望遠鏡を下ろした。
魔導軍が狙っているのは兵の命ではなく、五十万を一つの軍として動かす仕組みそのものだった。




