第四十一話 五十万の軍靴が国境を揺らす
帝国皇帝レグナスは、三つの王国と聖騎士軍団を退けたネクロアを、もはや地方の反逆者とは呼ばなかった。
帝都の大広間には、北方、東方、中央の三方面軍を示す旗が並んでいた。
五十万。
数字が読み上げられると、貴族たちの間から歓声が上がった。
国境の村で避難を告げる鐘が鳴った。
村長は「畑を捨てろというのか」と怒鳴ったが、警備兵が帝国軍の先遣旗を見せると声を失った。
魔術師たちは荷車を押し、動けない老人を担架に乗せた。
炎を操るリュカが、小さな家の竈の火を消して回る。
戦場では一瞬で大火を起こせる男が、ここでは火種ひとつに慎重だった。
帝国軍総司令官ゲイルは、歓声の輪に加わらなかった。
彼は聖騎士軍団が敗れた報告書を開き、銀の盾の横に赤い印をつけた。
「魔法を無効にしても、地面までは止められなかった。ならば今回、地面を含めて戦場を選ばせない」彼の計画は、三方面からの同時侵攻と、街道沿いに築く巨大な移動砦だった。
評議室で最も声を荒らげたのは、意外にも財務官だった。
「三千人の時とは違います。今は守る町が十七、倉庫が四十六。避難させるだけで銀貨が消えます」ネクロアは費用を聞き、命令書に署名した。
「数字はあとで取り戻せる。人は取り戻せない」財務官は返事をせず、黙って必要な荷車の数を書き足した。
魔導王国の会議では、兵数の比較が何度も持ち出された。
敵は五十万、こちらの魔術師は一万二千。
若い将校は「一人が四十人倒せば」と言った。
ネクロアはその計算を消した。
「敵は一人ずつ順番に来てくれない。私たちも一人ずつ戦わない」そして隊長たちに、地形、季節、補給を分担して調べるよう命じた。
帝国の進軍路にある石橋では、避難民の最後の荷車が車軸を折った。
結界隊長ノインは橋を壊せば敵の進軍を一日遅らせられると知っていたが、橋の中央に取り残された老夫婦を見て、爆破命令を取り消した。
代わりに四十人の術者が荷車を持ち上げ、対岸へ移した。
背後には帝国の騎兵が迫る。
ノインは防御結界を三層に重ねた。
第一層が矢を弾き、第二層が馬の突進を止め、第三層が味方の撤退を隠した。
全員が渡り終えると、橋の中央だけを沈めた。
敵の兵が追撃を止めたとき、最後尾の少女が振り返り、魔術師たちに手を振っていた。
戦場で守ったのは橋ではない。
渡るべき人間だった。
帝国軍の先頭では、徴募された農夫が家族の手紙を懐に入れていた。
彼は魔導王国の民を怪物だと教えられていたが、国境を越えて最初に見たのは整然と避難する荷車だった。
逃げ遅れた犬を魔術師が抱き上げ、飼い主へ渡している。
兵は槍を握りながら、敵が自分と同じ人間だと知ってしまった。
国境警備の若い魔術師は、初めて見る帝国軍の旗の多さに圧倒された。
隣の古参兵は彼の手から杖を取り、握り直させた。
「敵が多いときほど、目の前の一人を見るな。隊長の声を聞け」その教えは後に、五十万との決戦を支えることになる。
夜半、ネクロアは偵察の魔法を遠くへ飛ばした。
地平線の向こうに、途切れない篝火が続く。
彼女は恐れよりも、そこまでの軍を集めた帝国の執念を感じた。
「侮らないわ」背後でノインが静かに頭を下げる。
明日からの戦いは、これまでの勝利をなぞるだけでは済まない。
最初の命令は出撃ではなかった。
穀物倉を各地に分散し、街道の橋を避難民優先に切り替え、国境の村から老人と子供を退かせる。
魔術師は戦闘要員である前に、守るべき土地を持つ者になっていた。
夜、ネクロアは塔の窓から荷車の列を見下ろす。
「勝つだけでは足りない。勝った後に帰る場所が残らなければ」翌朝、帝国の先遣軍が国境標を越えた。
帝都では五十万という数が勝利の証拠として語られた。
だがゲイルの執務室には、軍馬の飼葉と兵の食糧を記した帳簿が山積みになっていた。
毎日消える小麦の量は、一つの町の月間消費量に匹敵する。
副官は「この軍を止めておくだけで帝国が痩せます」と言った。
ゲイルは地図の三本の進軍路を指でなぞった。
「だから止まらない。だが、急ぎすぎても負ける」一方、国境村では避難の最後尾を結界隊が守っていた。
幼い兄弟が荷車に乗り遅れ、術者が引き返す。
遠くの丘に帝国軍の旗が現れた。
結界の表面に最初の矢が刺さる。
ネクロアは前線から届いた救助完了の知らせを読み、「ここからは私たちの時間ね」と呟いた。
橋の向こうから、避難の責任者が戻ってきた。
名簿には最後の一人として、歩けない老女の名前が残っている。
荷車に乗せたはずの老女が、孫を探して途中で降りたのだ。
ノインは橋を沈める合図を取り消し、結界の残存時間を数え直した。
残り四十呼吸。
捜索に出たリュシアが二人を連れ戻したとき、第一層の結界が砕けた。
ノインは膝をつきながら最後の術式を維持し、二人が渡ったのを確かめてから石橋の中央を落とした。
救われた老女は、息を整えるとノインの手を取った。
「家は燃えても建て直せる。でも、あの子を置いて行けと言われたら、私は生きて帰れなかった」ノインは答えられなかった。
背後で石橋が崩れ、敵の先遣騎兵が止まる。
遅滞はわずか半日。
それでも半日あれば、隣の村の百台の荷車が峠を越えられる。
ネクロアに届いた報告には、橋の損失と避難完了の二行が並んでいた。
彼女は「成功」と記した後、橋を修復するための石工を手配する欄も加えた。
ゲイルが欲しがるのは首都への道。
彼女が守るのは、そこへ帰る人々の道だった。
国境で最後に渡った少女は、荷車の中から橋の方角を見つめていた。
誰かが「魔術師は怖い」と言うと、少女は首を振った。
「私の手を離さなかったよ」その小さな証言は、戦争の噂より遅く、しかし確かに避難先の町へ届いていった。
五十万の帝国軍が動いた夜、国境の見張りは地面の震えを報告した。
リュシアは敵兵の数を計算しかけ、途中で筆を止める。
五十万人が同じ道を歩けば、橋が先に壊れる。
ダリオは古い橋の図面を広げた。
「攻めてくる前に、彼ら自身の道が悲鳴を上げる」
ネクロアは橋を落とす案を退け、周囲の村へ避難を知らせた。
敵の弱点を知ったからこそ、橋の上で戦わないことを選んだ。
ノインが橋を渡り終えたとき、対岸の見張りが青い発煙筒を上げた。
帝国の先遣騎兵が河岸に現れたのだ。
橋の中央にはまだ二台の荷車が残っている。
彼は橋を落とすために準備した術式を止め、結界を足場に変えた。
敵の矢が結界を叩くたび、手首に鈍い痛みが走る。
「先に人を渡せ。橋は最後だ」命令は震えていたが、誰も聞き間違えなかった。
帝国の斥候長は、その橋を無傷で奪うよう命じられていた。
ところが対岸で敵兵が老人を背負って走っている。
弓手が狙いを定めると、斥候長は腕を下げさせた。
「今撃てば橋ごと落とされる」合理的な判断だった。
しかし彼は後で、なぜその老人の顔を忘れられないのか、自分でも説明できなかった。
最後の荷車が着岸すると、ノインは橋脚の根元だけを切り離した。
石橋は川へ崩れず、中央の床板がゆっくり沈んで通行不能になった。
修復可能な形を残すため、術式は複雑になった。
若い術者が「もっと簡単に壊せたのに」と言うと、ノインは答えた。
「戦争が終わった日に、最初に渡るのは兵士じゃない。あの子たちだ」
ネクロアは五十万という報告を聞いても、兵の数を声高に繰り返さなかった。
「何日分の食料を運んでいる?」答えられる者はいない。
彼女は斥候を補給路へ向かわせた。
五十万の軍勢を前に、若い伝令は敵の篝火を数えるのを諦めた。
ネクロアは彼に地図を渡した。
「数えきれないものを数えようとしなくていい。明日の朝、どの道を守るかを数えて」少年は震える指で避難路に印をつけた。
ネクロアは前線から戻った斥候の靴を見た。
泥の色が二種類ある。
北の街道の赤土と、南の湿地の黒土だった。
「橋を失っても、敵は南へ回れる」その夜のうちに南の農家へ避難の知らせが届いた。
五十万の軍を前に、守りたい場所を一つ選ぶことは、別の場所を捨てることでもあった。
彼女は地図から目をそらさなかった。
リュシアは五十万という数字の横に、馬車の通過数と橋の耐荷重を書き加えた。
敵の大軍を恐れる気持ちは消えない。
しかし軍は数字だけで動かない。
彼女は補給の流れから戦場を読み直した。
種麦の配給列で、二つの村が同じ袋を自分たちのものだと言い争った。
帳簿を調べると荷札が雨で読めなくなっていた。
ネクロアは袋を奪い合う前に秤を運ばせた。
種麦の配給表を見た農夫が、「兵に渡さなくていいのか」と尋ねた。
ネクロアは袋を一つ持ち上げた。
「これを食べれば一日。蒔けば次の冬を越せる」
農夫は受け取った袋を胸に抱え、戦場から離れた畑へ戻った。
国境の小学校では、教師が子供たちに避難路を教えていた。
地図の端にある橋は、五十万の帝国軍が狙う補給路でもある。
ネクロアが教室を訪れると、一人の少女が尋ねた。
「橋を壊したら、私たちは帰れないの?」
ネクロアは地図の橋に赤い線を引く手を止めた。
戦略上の一本の線が、誰かにとっては家への一本道だった。
国境の農家では、軍の到着を聞いた人々が種麦を抱えて家へ戻った。
倉庫の前で兵が不満を漏らす。
「前線の俺たちが先だろう」
ネクロアは袋の口を開き、一握りの種を掌に乗せた。
「これは今日の食事ではない。来年、ここで生きる人たちの食事よ」
兵は言い返しかけ、荒れた畑を見て黙った。
遠くでは帝国軍の軍鼓が止まずに響いていた。




