第四話 王国最強の一万騎、氷の大地に沈む
レオナードは出撃前に馬の脚を一頭ずつ見た。
長距離行軍で疲れた馬が多い。
副官は言った。
「休ませるべきです」しかし王国軍の前衛は火炎魔法に押されている。
今騎兵が動かなければ、歩兵の士気は戻らない。
レオナードは自分の愛馬の首を撫でた。
「帰ってきたら、必ず休ませる」それが叶う保証はなかった。
彼は騎士団を二列に分け、先頭が止まれば後続は左右へ避けるよう命じた。
命令は正しかったが、魔導軍が左右の地形まで変えることは想定していなかった。
「火は横へ回ればいい」騎士団長レオナードは兜をかぶり直した。
王国軍の両翼に総勢一万騎。
前衛が止まった今、機動力だけが残された切り札だった。
彼は湿地の浅い水を見て鼻で笑う。
「水を避ければ進路が狭まる。突破するならここだ」副官が言う。
「魔法使いです」「だからこそ詠唱の前に踏み潰す」
ダリオは湿地の土を掘り、掌に乗せてネクロアに見せた。
「水面を凍らせても、下の泥は流れます。深く凍らせれば馬の脚が折れます」ネクロアは水の量と地形の傾きを確かめた。
「凍らせる場所を線にして。面にはしない」氷晶隊の術師は十人ずつ組み、騎兵の進路を横切る薄い帯を幾重にも作った。
氷の帯と帯の間には泥が残る。
馬は氷で滑り、次の泥で速度を失う。
隊列は止まるが、馬が深い穴へ落ちる危険は減る。
見習いが言った。
「倒す魔法なのに、助けることを考えるんですね」ダリオは肩をすくめた。
「その方が、後で片づける仕事も少ない」
エルナは氷晶隊を三列に分けた。
第一列は水面を薄く凍らせて突撃の速度を奪う。
第二列は後続を乾いた高台へ誘導し、第三列は転倒した馬の周囲だけ氷を解く。
見習いは顔を曇らせた。
「一度にそんな細かい術式を使えば、合図が遅れます」エルナは三本の短い笛を渡した。
「だから音を分ける。長音で停止、短音二つで救助。私が倒れても動けるように」指揮官がいなくても救える命がある。
その準備は、突撃が始まる前に終えておかなければならなかった。
蹄音が湿地を震わせた。
ネクロアは最後の測量杭が揺れるのを待ち、腕を下ろした。
「第一列、今」水面に白い膜が走った。
先頭の馬は硬い道だと錯覚して踏み込み、薄氷を割って速度を失う。
脚は泥に取られたが、深く沈む前にガレムが手綱を引いた。
後続の騎士は止まれない。
エルナの短い笛が二度鳴り、第二列が高台へ通じる道だけを固めた。
騎士たちの突撃は、魔導軍の正面から少しずつ逸れていった。
先鋒隊長ガレムは馬の耳が一斉に後ろへ伏せるのを見た。
地面が変わった。
先頭の蹄が滑り、後続が迫る。
彼は旗手に突撃中止を命じたが、砂煙が旗を隠した。
ガレムは手綱を引き、先頭の騎士たちに馬を横へ向けさせた。
進路を変えるだけなら後続も気づくはずだ。
だが速度を失った騎馬が次々に押され、列は音を立てて崩れた。
彼はそこで初めて、魔導軍が人を焼くのではなく、進軍するという選択肢そのものを奪っていると悟った。
氷晶隊の見習いが術式を維持する手を震わせた。
「このままでは、後ろの馬が先頭を踏みます」エルナは凍結線を短くし、逃げ道の泥だけを固め直した。
敵を止める術を弱めれば、こちらへ突っ込む騎士が出るかもしれない。
それでも彼女は合図した。
「退路を一本、開けて」氷の上で馬が向きを変えた。
数騎が逃げると、後続もそれを追った。
騎士たちは初めて、剣ではなく出口を探していた。
ガレムは倒れた騎士の腕をつかみ、馬の群れから引きずり出した。
背後で槍が折れる音がした。
旗手が駆け寄る。
「団長への報告は?」ガレムは泥だらけの手で旗を受け取った。
「突撃失敗。負傷者多数。敵は退路を残している」それは敗北の報告だった。
だが虚勢を張って後続を死なせるより、いま伝えるべき事実だった。
旗手が走り去ると、ガレムは再び倒れた馬のそばへ戻った。
レオナードは降伏文書に署名する前、馬丁の少年を呼んだ。
少年は泥の中で二頭を救い、三頭目を救えなかった。
「団長、私が遅かったからです」レオナードは首を振った。
「突撃を命じたのは私だ」誇りを守るための突撃が、馬と部下を傷つけた。
その責任を少年に背負わせるわけにはいかなかった。
馬の救助路が確保されたのを見て、レオナードは剣を地面へ突き立てた。
長年磨いてきた突撃戦術が、敵を一人も斬れないまま止められた。
彼の部下が問う。
「団長、まだ戦えます」「戦える者はいる。だが勝てる者はいない」その言葉は騎士として最も苦しい判断だった。
彼は白布を槍に結び、ゆっくり掲げた。
降伏を認めたレオナードは、まず騎士たちに槍を伏せさせた。
ネクロアは氷の解除を急がせなかった。
泥が緩めば、動けない馬が沈む。
ダリオは杭を打ち、救護班は板を渡して一頭ずつ運び出した。
敵の鎧に触れるときは必ず声をかけるよう、リュシアが命じた。
剣を抜きかけた副官も、愛馬が板の上へ引き上げられるのを見ると、黙って鞘へ戻した。
凍った斜面で、王国の騎士が一頭の馬を引き戻そうとしていた。
鎧の重みで足が滑り、馬も人も崖へ寄っていく。
ナディアは追撃の氷槍を構えていたが、標的を変えた。
二人の足元に、滑らない粗い氷の段を三つだけ作る。
騎士は敵の魔法と気づき、戸惑いながら馬を引き上げた。
「今なら撃てます」と部下が言う。
ナディアは首を振った。
「あの馬が立てたなら、私たちの仕事は終わり」
一方、救われた騎士は王国軍の陣に戻り、氷を操る敵が追撃をやめた事実を上官に伝えた。
負傷した馬の前で、レオナードの副官は手綱を握りしめていた。
魔導軍の見習いが蹄の泥を落とし、別の術師が傷口を洗う。
副官は礼を言いかけて言葉を飲み込んだ。
レオナードが隣に立つ。
「礼を言うのに勝敗は関係ない」副官は頭を下げた。
見習いは戸惑いながらも「まだ痛がっています。もう少し待って」と答え、手当てを続けた。
レオナードは救護の順番を記録するよう命じた。
最初に運ばれたのが王国の将校ではなく、名もない従卒だったと知り、報告書にその事実を書き加えた。
次の戦いで同じ命令を出さないための、最初の一行だった。
泥から引き上げた馬が、敵の見習いの肩に鼻先を寄せた。
レオナードはその光景を見て、勝敗報告の最後に一行を足した。
「敵軍が退路を開いたため、負傷者の回収が可能となった」
氷の上に取り残された王国の旗手が、動けない馬を庇って立っていた。
レオナードは救出を命じたが、若い騎士たちは敵の魔術を恐れて踏み出せない。
そこへナディアが現れ、氷を一筋だけ溶かした。
「道は作れる。でも馬を引くのはあなたたちよ」
旗手は震える手で手綱を握った。
最初の一歩で馬の脚が折れかけ、レオナード自身が肩を貸した。
氷の向こうから魔導軍の見習いも走ってくる。
さっきまで剣を交えた相手が、同じ馬の重みを支えていた。
誰も勝利の声を上げなかった。
岸へ着いたとき、旗手はレオナードに告げた。
「殿下、あの氷は、私たちを殺すためならもっと深く張れたはずです」レオナードは振り返る。
凍った平原の中央だけに、まだ歩ける細い道が残っていた。
あれほどの魔法を操る敵が、逃げ道を意図して残したのだ。
「陛下へはどう報告を」と副官が尋ねる。
レオナードは答えなかった。
馬の脇腹に残った裂傷と、騎手のいない鞍を見ていた。
自分が命じた突撃の代償だった。
やがて彼は剣を鞘に収める。
「敗れたと伝える。それと、相手にはまだ我々を殺す力が残っていたとも」
その夜、王都へ向かう伝令の背中を見送りながら、レオナードは気づいた。
国王が最も怒るのは敗北ではない。
敵が勝ちながら兵を救ったという事実だろう。




