第三話 千人の魔術師が同時に火炎魔法を放った
戦いの直前、リュカは千人の火炎術師を見渡した。
全員が同じ強さの炎を出せるわけではない。
魔力の弱い者は風を起こし、視界の悪い者は合図を伝え、術式の速い者が火球を作る。
千人が同じ火球を撃つのではなく、千人で一つの火の流れを作る。
ネクロアはその違いを何度も説明した。
「千の火球を競うな。敵が動く道を千人で決めるの」リュカは命令を復唱し、最後尾の見習いにまで声が届いたことを確認した。
前線で震える少年がいた。
彼女はその肩を叩いた。
「怖いなら、火を撃たなくてもいい。合図だけ見ていて」少年は小さく頷き、白旗の位置を見張る役を引き受けた。
紅蓮隊の最前列に立ったリュカは、風を読むために乾いた草を空へ放った。
草は左へ流れた。
「火線を三度右へ。味方の斥候がまだ谷底にいる」千人の術者が杖を上げても、すぐには撃たない。
後列の術者が前列の肩に触れ、魔力の準備が整ったことを知らせる。
敵軍では盾兵が膝をつき、火球なら盾で防げると信じていた。
ネクロアの白旗が上がる。
最初の火球は敵兵の頭上を越え、盾の後方にある乾いた草地へ落ちた。
続く火球は左右の退路を炎で塞ぐ。
正面からの爆発を待っていた盾兵は、背後の熱に驚いて隊列を乱した。
リュカは最後の一斉射を中止した。
「降伏旗だ」灰の向こうで槍が次々と地面に置かれていた。
王国軍の前衛一万二千が、いよいよ動き始めた。
盾の縁が朝日に光り、槍の穂先が一斉に揺れた。
アルゴスは魔術師の詠唱を妨げるため、弩兵を前へ押し出す。
「三列に分かれて射て。魔法が届く前に射程へ入れ」命令は理にかなっていた。
彼が知る魔術師なら、それで十分だった。
しかしネクロアの軍では千人の紅蓮隊が三つの群に分かれ、最初の群が火を放つ間に二群目が詠唱し、三群目が魔力を整えていた。
リュカは喉の渇きをこらえて杖を掲げる。
「第一群、右の乾草地へ!」火球は兵の頭上ではなく、街道脇の草を焼いた。
炎が横に走り、前衛は思わず中央へ寄った。
続く射撃の熱が地面を這ったとき、王国の弩兵は火球を避けようとして盾兵の背へぶつかった。
百人隊長は弩を上げ直すよう怒鳴ったが、弦は熱で緩み、矢羽根には火の粉が落ちていた。
アルゴスは後方からその様子を見ていた。
「敵は人を狙っていない。通路を狙っている」彼が命令を変えるころには、先頭の兵たちは細い道へ追い込まれていた。
狭い道で盾を構えれば、隣の兵の肩にぶつかる。
盾を下げれば、飛んでくる矢が怖い。
誰も大きな傷を負っていないのに、前衛は歩くことさえ難しくなった。
「敵を焼け!」王国の百人隊長が叫ぶ。
だが魔法は兵を狙っていない。
道を狭めるために使われていた。
次の一斉射は後方の空き地へ落ち、熱風が伝令馬を暴れさせた。
三群目が白い火柱を上げた瞬間、前衛は前進も後退も難しくなった。
王国軍の弩兵隊長は、盾を構え直すたびに部下の位置がずれていることに気づいた。
火炎は盾の正面を狙わず、部隊の間の乾いた草を焼いている。
炎を避ければ隣の隊と衝突し、止まれば後続の兵が押してくる。
隊長は一度だけ弩を上げたが、狙うべき術者は遠く、熱で照準も定まらない。
彼は矢を放たず、負傷者を後方へ運ぶよう命じた。
その判断が数十人を救った一方、前線にはまた一つ空白ができた。
アルゴスは遠眼鏡を握りしめた。
「火が切れないのか」副官が答える。
「同じ術者が続けているのではありません。交代しています」初めて総司令官の顔色が変わった。
魔法を強い個人の技として見ていた王国軍は、魔法を軍隊の運用として使う敵を知らなかった。
炎の幕が薄くなると、戦場には焦げた草の匂いが残った。
リュカは自分の指先を見た。
魔法を放つたびに皮膚がひりつき、千人のうち何人かは膝をついている。
ネクロアは交代の鐘を鳴らさせた。
「次の波は短く。無理に同じ火力を出さなくていい」リュカは頷いた。
敵を圧倒するための魔法でも、使う者は生身の人間だ。
彼女は休む術者に水を配り、最後の一人が後列へ下がるまで自分も杖を置かなかった。
炎が引いた草地に、焦げた靴だけが残っていた。
リュカはそれを拾い上げ、戦果報告の『敵損害不明』を二重線で消した。
「知らないなら、知らないと書く」火線をずらして救った兵がいる一方、逃げ遅れた者もいたはずだ。
彼女は次の射撃計画に、煙の中で人影を見分ける観測役を増やした。
火勢が弱まった一瞬を狙い、王国軍の精鋭二百人が前へ出た。
火炎隊の交代時刻を見抜いたのだ。
リュカは一瞬だけ動揺したが、後列に待機させていた霧術師へ合図を送る。
熱い空気に薄い霧が混ざり、突撃兵の視界を奪った。
そこへ結界隊が透明な壁を立てる。
敵兵の剣は壁に当たって弾かれ、先頭の隊長が膝をついた。
「これが千人の火炎魔法なのか」リュカは首を振った。
「違う。千人を守るための魔法よ」彼女は負傷者を収容する通路を開け、敵味方の担架を同じ列に並べた。
戦場の向こうで、アルゴスは火のない場所を探し始めていた。
一人の若い術者が、逃げ遅れた兵へ杖を向けた。
リュカがその腕を押さえる。
「そこは撃つな。旗が倒れている」兵士は槍を捨て、両手を上げていた。
若い術者は歯を食いしばった。
「あいつらは昨日、仲間を……」「分かる。でも、今は降伏している」
ネクロアは火勢を見て命じた。
「西側を一筋開けて。負傷者が逃げられる幅だけ」結界隊が炎の通路を作ると、リュカは火炎隊へ伝令を走らせた。
「担架が通るまで次の射撃は待機」熱風の向こうから、武器を捨てた兵が一人、よろめき出た。
治療係が駆け寄る前に、結界隊の二人が武器の有無を確かめた。
助けるための通路を、味方を傷つける抜け道にはしない。
その両立が試されていた。
一斉詠唱の直前、伝令の青旗が風に巻きついて見えなくなった。
前列の術師は合図を待ち、後列だけが火球を生み始める。
千の炎が互いを焼く危険に、リュカは杖を地面へ突き立てた。
「全員、息を合わせろ!」彼女が一人で火球を消すと、隣の術師も消し、その隣も続いた。
攻撃を止めるという合図が千人に伝わるまで、わずか十数呼吸。
リュシアは予備の合図を鐘に変えた。
再び鳴った鐘の下、千の炎は今度こそ同じ高さに揃った。
救護通路を抜けた担架の後ろから、武器を捨てた王国兵が二人続いた。
結界隊が停止を命じると、一人は両手を上げ、もう一人は負傷者を支えるためだと説明した。
リュカは結界の内側からそのやり取りを見守った。
無条件に通せば敵兵が紛れ込む。
閉ざせば助かる命が失われる。
彼女は「負傷者を先に、武器の確認は後ろで」と命じた。
細い通路は、攻撃のための千人が協力して守る、たった数歩の安全地帯になった。
担架が消えたあと、リュカは交代表を見直した。
魔力の弱い見習いが「次は私が撃ちます」と申し出る。
彼女は杖ではなく伝令旗を渡した。
「あなたは煙の向こうを見て。担架が戻ったら、誰より先に知らせて」見習いは不満げだったが、次の瞬間、倒れた王国兵の位置を見つけた。
旗が上がり、火線が数歩ずれた。
リュカはその判断に頷いた。
千人が同じ炎を放つ強さより、千人が一人の合図で止まれる強さを、彼女は信じ始めていた。
煙の中で白旗を見た見習いは、声が出なかった。
隣の術師の袖を引くと、旗は三人の手を渡って隊長まで届いた。
リュカが火線を止めたとき、少年は初めて自分の役割を理解した。
火線の間に、王国兵の小さな白布が見えた。
風にあおられ、すぐ煙へ消える。
見習いは「見間違いかもしれません」と言った。
リュカは次の射撃を止めた。
「見間違いなら一呼吸失うだけ。見間違いでなければ、人を救える」止まった炎の向こうから、負傷者を担いだ二人が現れた。
リュカは火の残る平原を振り返った。
風向きは朝と違っていた。
彼女は伝令に新しい合図を渡し、次の射撃を待機させた。
勝利を急ぐほど、仲間の位置を確かめなければならなかった。
火を放った術師の一人が、煙の向こうに倒れた敵兵を見つけて杖を下げた。
隊列に穴が開く。
リュカは叱りかけたが、救護班が駆け抜けるのを見て口を閉じた。
次の斉射までの数十秒を、彼らは初めて自分たちで稼いだ。
救護係が敵兵の腕章を外そうとすると、ミリナは止めた。
「誰を治したか分からなくなる。名札を残して」
敵味方の記録を分けずに残すことが、戦いの後の行方不明者を減らす最初の仕事になった。
火線が消えたあと、リュカは焼けた地面に靴を置いた。
敵を止めた幅と、救護員が渡れる幅は違う。
彼は次の射撃線を一歩後ろへ引き、エルナに目印の杭を頼んだ。
「威力を上げれば勝てると思っていた」とリュカは漏らす。
「届く場所を選ぶ方が難しいわ」とエルナが返した。
炎の隊列が次の詠唱に入ろうとしたとき、リュカは手を上げて止めた。
前方の土煙の下に、倒れた馬を引こうとする少年兵が見えたのだ。
「射線を右へ三歩」
千人の魔術師が同時に足を動かす。
たった三歩の変更で、敵の前進を封じる炎の壁は途切れず、少年のいた場所だけが焼け残った。
ネクロアはその空白を見て頷いた。
「一斉魔法の強さは、全員が同じ場所を焼くことじゃない」
次の部隊の蹄音が、まだ煙の残る平原を震わせた。
リュカは炎を生み出しかけ、担架を担ぐ王国兵の背を見て手を下ろす。
「火力を上げるんじゃない。撃つ場所を変える」
彼が指さしたのは敵の正面ではなく、騎兵が進むために必ず通る乾いた川床だった。




