第三十九話 ネクロア、本気を出す
銀環が回転を始めると、地下祭壇の灯火が一つずつ消えた。
ミラの結界がほどけ、ナディアの水の術が途切れる。
ネクロアは杖を握り直した。
大神官は笑った。
「魔法を失えば、ただの人間だ」
イザークは銀環の外枠を叩き、音の違いを確かめた。
魔力は消えていない。
中央の結晶へ押し込められている。
「止めるな、逃がせ!」彼は地下水路の図面を広げ、無人の岩山へ続く古い空洞を指した。
だが空洞の途中には住宅街の井戸がつながっている。
そのまま流せば水が汚れる。
ナディアは残った力を集め、水路の分岐を凍らせた。
指先の感覚が失われていく。
「長くは持たない」
イザークはさらに図面の端を押さえ、地下水路の出口を指した。
『ここが開けば圧力を逃がせる。
ただし住宅街へ水を戻してはいけない』。
ナディアは支流を一つずつ塞ぎ、ミラは木の支柱を増やした。
ダリオは狭い通路の奥で、術が使えない兵を先に退かせる。
ネクロアの細い術式はその間だけ保てばいい。
四人の作業が一つでも遅れれば、結晶は割れる。
誰も彼女の力だけに勝敗を預けていなかった。
ミラは結界の代わりに木の支柱を組み、崩れかけた天井を支えた。
ダリオは炎を撃たず、術の残り火で暗い通路に目印を作る。
セオンは住民を地上へ誘導した。
誰もが、魔法が使えない時にできる仕事を選んでいた。
地下の壁が震え、セオンが通路の奥で倒れた支柱を押さえた。
『ここは私が支える。
先へ行け』。
ミラは首を振った。
『一人で支える必要はない』。
二人で木材を組み替え、荷重を石の床へ逃がす。
魔術が消えても、力を合わせれば壁を支えられる。
ネクロアが結晶の流路へ手を伸ばせたのは、そのわずかな時間を仲間が稼いだからだった。
祭壇の奥で、銀環の固定具が弾けた。
破片が石壁へ突き刺さり、通路にいた工兵が倒れる。
ダリオが駆け寄ったが、男の胸当てはひしゃげ、息は浅かった。
治癒魔法は吸い取られたままだ。
「先へ行ってください」
男は血の混じった息で言った。
「俺の娘は、あの町にいる」
ダリオは彼を一人にしなかった。
手持ちの布で傷口を押さえ、避難してきた兵に担架を頼んだ。
だが運び出す前に男の手から力が抜けた。
ダリオはその名を覚えた。
助けられなかった者の名を、勝利の歓声で消したくなかった。
祭壇へ戻ったダリオの顔を見て、ネクロアは何も尋ねなかった。
答えは分かった。
禁術を止めるのが一刻遅れれば、同じ知らせが町のあちこちから届く。
ネクロアは銀環の流路へ、針のように細い術式を通した。
大きな魔法は吸われる。
だからこそ小さく、結晶の継ぎ目だけを狙う。
指先が裂け、血が石床へ落ちた。
彼女は術式を緩めなかった。
ネクロアの指先には細い傷が増えた。
複雑な術式を維持する負荷が皮膚へ現れていた。
彼女は息を整え、一つの流路を開き、次の流路へ力を渡した。
大きな力を一気に押し出すのではない。
暴れる魔力に、逃げ道を教えていく。
大神官は叫んだ。
「なぜ力を取り戻さぬ。お前なら結晶を奪えるはずだ」ネクロアは答えた。
「奪えば、あなたと同じになる」彼女は結晶に蓄えられた力を自分へ戻さず、岩山へ向かう空洞へ少しずつ流した。
銀環が唸り、井戸の水面に黒い波が走った。
ネクロアは巨大な魔力を一度に流す案を捨てた。
細い水路へ力を分ければ時間はかかるが、井戸を守れる。
彼女の指が焼けるように痛んでも、ミラは観測を止めなかった。
「まだ一つ、村へ向かう流れが残っています」
銀環の振動が限界へ達したとき、ネクロアは地下水路の出口に立つ作業員の灯を見た。
最後の門を閉じれば、出口の者が戻れない。
彼女は魔力の流れを数秒だけ支え、ナディアに叫んだ。
「全員の合図を確認して!」遠くで白い布が振られた。
ネクロアは作業員の退避を確認し、術式を維持したまま最後の弁へ向かった。
最後の分岐弁が動かなくなった。
イザークが歯車の間から、折れた制御棒を引き抜く。
誰かが最初から弁を閉じたままにするよう細工していた。
「このままでは結晶が割れる。地下も、地上の井戸も吹き飛ぶ」
ネクロアは大神官を見た。
ヴァレリウスは祭壇の陰で笑っていた。
「ならば、魔法の罪を町ごと知ればよい」
セオンが彼へ駆け寄ろうとしたが、ネクロアは止めた。
怒りに任せて祭壇を壊せば、敵の望み通りになる。
イザークは自分の工具を差し出した。
「手で弁を押さえる。開くまで離せない」
「戻れなくなる」
「それでも、町の井戸を爆ぜさせるよりはいい」
ネクロアは工具を受け取り、弁の隙間へ細い魔力を通した。
金属が焼け、イザークの手袋が焦げる。
ナディアが冷気で歯車を縮ませ、ミラが支柱を支え直した。
三人の力が合わさって、ようやく弁が一寸動く。
「今!」
ネクロアが叫ぶ。
結晶から放たれた白い奔流は、井戸の方角を避け、無人の岩山へ続く空洞へ流れ込んだ。
遠くの岩山に、夜明けのような光が走った。
銀環はひび割れ、回転を止めた。
祭壇に静けさが戻る。
ネクロアは大神官の杖を折り、足元へ置いた。
「あなたの禁術は終わった。でも、奪われた命は戻らない」
装置が止まると、地下祭壇には水滴の音だけが戻った。
大神官はなおも「魔法は災厄だ」と呟いた。
ネクロアは答えた。
「だから使い方を選ぶのよ。力があるから正しいわけでも、恐ろしいから悪いわけでもない」
セオンは拘束された大神官の前に立った。
憎しみの言葉はいくらでもあったが、彼が尋ねたのは一つだけだった。
「井戸の子供たちが死んでも、あなたは正しいと言えたのですか」大神官は答えなかった。
夜、診療所の魔術灯が戻った。
だが、禁術が止まる前に亡くなった老人の寝台だけは空のままだった。
ミリナは孫に、何度も胸を押して救命を試みたことと、助けられなかったことを伝えた。
少女はうなずいたが、涙を拭こうとはしなかった。
ネクロアは大神官の裁きを急ぐより先に、遺族へ事実を知らせる責任を引き受けた。
イザークは銀環の図面から、再起動に使える接続部分を切り離した。
仕組みを解明するための図面は封印し、工兵の遺族に渡すべき補償金の額だけを別紙に書いた。
ダリオは、倒れた仲間の工具を静かに箱へ収めた。
地下から戻ったミラは、手のひらに残った木屑を見つめた。
結界を張れない時間、彼女を支えたのは仲間が運んだ一本の梁だった。
次に誰かが魔法を失っても、守る方法は残る。
その確信が、痛む腕を少しだけ軽くした。
地上へ戻ったセオンは、井戸の前で水を待つ人々を見た。
誰も銀環の仕組みなど知らない。
ただ水が飲めることを確かめ、桶を次の人へ渡している。
セオンは検査を終えた桶を受け取り、水面を見つめた。
そのとき、地下から運び出された銀環の破片が水面に映った。
セオンは桶を置き、破片を布で覆わせた。
「誰も触れるな。禁術が終わったと決めつけるには早い」
井戸を守るための戦いは終わった。
だが、その水が安全だと証明する仕事はこれからだった。




