第三十八話 大神官の禁術
降伏の報告を聞いた大神官ヴァレリウスは、祈祷書を閉じた。
「盾で守れぬなら、魔力そのものを枯らすまでだ」彼は地下の封印扉を開く鍵を取り出した。
地下祭壇には巨大な銀環が眠っていた。
古い碑文には、周囲の魔力を吸い上げ、中心の結晶へ集める装置と記されている。
起動すれば聖騎士も魔術師も術を使えなくなる。
大聖堂の地下で、ヴァレリウスは銀環を覆う布を剥がした。
刻まれた警告には、治療に使う術まで奪うと記されている。
側近は読み上げたが、大神官はその部分を聞かなかったことにした。
彼は起動の印に手を置いたが、側近の制止を無視して詠唱の準備を進めた。
セオンは捕虜交換の席でこの計画を知り、ネクロアへ警告した。
「大神官は街ごと魔力を奪うつもりです。治療術に頼る病人も危ない」
地下水路を調べたイザークは、祭壇の真下に古い排水槽があると突き止めた。
石組みは脆く、衝撃で崩れる恐れがある。
「壊すなら簡単だ。しかし水が町へ逆流する」彼は破壊ではなく弁の操作を提案した。
ネクロアは四組の役割を確かめた。
ナディアが水路、ミラが支柱、ダリオが退路、イザークが流路の計測。
セオンは狭い入口の案内役だ。
誰かが失敗すれば全員が退く。
英雄が一人で解決する作戦ではない。
そう伝えると、ダリオは短く頷いた。
「敵の禁術を止めるために、私たちまで禁じ手を選ぶ必要はないわ」ネクロアはそう言い、軍団を二手に分けた。
正面で時間を稼ぐ者と、装置の仕組みを調べる者。
勝負は火力ではなく時間になった。
ネクロアは地下へ入る前、リュシアに撤退の判断を託した。
「私が戻らなくても、住民を優先して」リュシアは頷いたが、別れの言葉は口にしなかった。
戻ってきた時に言うことが、まだ山ほどあったからだ。
鎧を脱いだセオンが地下の穴へ入る。
壁に触れる指は震えていたが、道は覚えている。
幼いころ、友人と隠れんぼをした階段だ。
あの友人は魔法が使えるというだけで追放された。
セオンは暗闇へ向かって小さく言った。
「今度は見捨てない」
地下の狭い通路で、セオンは壁に残る古い修繕印を見つけた。
かつてこの町の職人が洪水を防ぐために付けたものだ。
図面にはない分岐があり、イザークは流路を描き直した。
街を守るための知恵が、今度は街を脅かす禁術を止める鍵になる。
セオンは印に手を触れ、名前も知らない職人へ小さく礼を言った。
側近は大神官の命令書を握りつぶした。
逆らえば罰せられる。
それでも地上の治療所にいる妹を思えば、黙ってはいられない。
彼は密かな伝令を走らせ、井戸の異変を告げた。
禁術の内部から、初めて反対の声が上がった。
地下の禁術は、祭壇の魔力だけでなく近隣の井戸の浄化魔法まで吸い始めた。
市場の水売りが異変を報告し、リュシアは避難の範囲を広げた。
診療所では、水を煮沸するための薪が足りなくなった。
魔術で浄化できないなら、昔の方法へ戻るしかない。
看護師が戸惑うと、リュシアは村の炭焼き職人を呼んだ。
職人は大鍋の火加減を教え、患者の家族が薪を運んだ。
禁術が奪ったのは便利さだったが、互いに手を貸す力まで奪うことはできなかった。
大神官が起動の詠唱を始めると、聖堂の鐘がひとつずつ鳴らなくなった。
ノインは結界を張ろうとしたが、鐘の沈黙と同時に魔力が抜けていく。
ミリナは魔法でなく、人の声を使った。
「北の通路は空いています!」
声が次々に引き継がれ、暗い回廊の奥まで届く。
大神官は魔法を封じたつもりだった。
だが魔法を失った人間が互いに知らせ合うことまでは止められなかった。
地上へ伝える最後の伝令は、銀環の音が大きくなる前に出された。
『水路の門を開ける。
低地の家には近づかないで』。
リュシアは避難所の掲示板へ指示を貼り、井戸ごとに見張りを置いた。
禁術を止める作戦が成功しても、排水が街へ逆流すれば住民は傷つく。
イザークは地下の地図に赤い線を引き、危険な支流をセオンに一つずつ指さした。
セオンは道順を復唱してから暗い穴へ入った。
診療所では、母親が熱を出した子を抱えていた。
治癒術を試したミラの弟子は、指先の光が消えるのを見て青ざめた。
リュシアはその手を下ろさせ、水を煮沸する鍋と体を冷やす布を用意させた。
『魔法が戻るまで、私たちの仕事がなくなるわけじゃない』。
母親はうなずいたが、震えは止まらなかった。
銀環が止まるかどうか分からない夜を、誰も確かな約束で埋めることはできなかった。
銀環の起動音は地下で聞くより地上で大きく響いた。
市場の露店が揺れ、瓶が落ちて割れる。
人々は魔術師が攻撃したと勘違いして逃げ始めた。
リュシアは鐘楼の見張りへ、避難路を示す布を掲げるよう命じた。
説明する時間はない。
白い布が東の広場を示し、赤い布が井戸への立入禁止を知らせる。
昨夜まで魔術師を恐れていた商人が、店の戸を外して担架を作った。
『誰の魔法かは後で聞く。
今は子供を運べ』。
その声で足を止めた人々が、初めて同じ方向へ動き出した。
地下でイザークが支柱の一本を叩くと、乾いた音が返った。
水が流れれば耐えられない。
セオンは昔、石工の父に教わった補強の形を思い出し、廃材を三角に組むよう提案した。
イザークはすぐに採用した。
聖騎士としてではなく、この町で育った一人の人間として、セオンの知識が役に立った。
地下水路の入口で、セオンは古い鍵を取り出した。
神殿に仕えた証として持ち続けたものだ。
「これを使えば、私は戻れません」ネクロアは鍵を受け取らず、彼自身に扉を開けさせた。
戻れない道を選ぶ責任も、取り戻す自由も、セオンのものだった。
市場の老人は魔術師に助けられたことを認めようとしなかった。
それでも孫が熱を出すと、診療所へ連れていった。
リュシアは名前を尋ねず、順番に診察させた。
いま必要なのは謝罪を求めることではなく、朝まで命をつなぎ、避難所へ運ぶ道を確保することだった。
兵たちは松明を掲げて道を照らした。
銀環の音が強まると、診療所の灯が一斉に消えた。
看護師が患者を数え、ひとり足りないと報告した。
水差しだけが残る寝台の持ち主は、地下の水路を調べに出た少年だった。
リュシアはその名と服装を伝令へ託し、地下隊への帰還命令に捜索を加えた。
そのとき、隣の寝台で治癒術によって心臓の働きを支えていた老人が、急に息を止めた。
ミリナが駆け寄り、手で胸を押した。
術式は戻らない。
彼女は額に汗を浮かべながら何度も呼びかけたが、老人は目を開けなかった。
廊下で待っていた孫が「おじいちゃんは」と尋ねた。
ミリナは何も隠さず、膝を折って答えた。
魔法が消えたとき、人は本当に死ぬ。
地下の銀環は、すでにその代償を取り立てていた。
リュシアは震える手で時刻を書き留めた。
起動から十分。
銀環が完全に回り切るまで、残された猶予はさらに短い。
大神官の側近が地上からの報告を差し出した。
「診療所で死者が出ました。停止を」
ヴァレリウスは書状を読み、火にくべた。
「一人の死で千年の教えを曲げるのか」
側近は床に落ちた灰を見つめた。
そこには患者の名前があった。
彼は祭壇の外へ走り、扉の内側から閂を外した。
信仰を捨てたのではない。
目の前で人を殺す命令に、もう従えなくなったのだ。
銀環がさらに回転を速めたとき、聖堂の床下から小さな鐘が鳴った。
儀式の合図ではない。
地下に残された子供たちが、互いの居場所を知らせるために鳴らしていた。
ネクロアは詠唱の続きを聞くより先に、鐘の間隔を数えた。
「三人。少なくとも三人いる」
敵の術式を止めるための一刻が、その瞬間から救出の一刻にもなった。
地下へ向かった伝令は、階段の途中で消えた灯を見つけた。
戻るべきか、進むべきか。
彼は予備灯を壁に置き、地上へ戻る者にも道が分かるようにした。
それから欠けた名前をもう一度確かめ、暗い階段を降りていった。




