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大魔術師ネクロア ~魔導軍団を率いる最強の魔女が大陸を震撼させる~  作者: レモンティー


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第三十三話 紅蓮隊の炎が届かない

朝靄の中、聖騎士五千が盾を重ねて進んだ。

紅蓮隊の合図で火球が放たれる。

炎は幾重にも重なって前進したが、盾の手前で花火のように散った。

火球が消えたとき、敵軍の盾の表面には淡い波紋が走った。

ダリオはその光を覚えておくよう命じた。

何も起きていないように見えても、力はどこかへ移動しているはずだった。

「着弾しない!」若い術者が叫ぶ。

ダリオは第二射を止めた。

無理に魔力を注ぎ続ければ、消耗した魔術師から倒れる。

敵はその隙を狙っていた。

聖騎士の背後から弩兵が姿を現した。

魔法を無効化する前衛と、射程の長い弩兵。

組み合わせは単純だが恐ろしい。

結界隊の盾が薄れた地点へ矢が集中した。

イーヴは初めての実戦で火球を三度失敗した。

指が震え、術式の終わりを結べなかった。

ダリオは叱らず、火球を小さく作る練習をさせた。

「大きさは必要ない。合図を聞いて止められることが先だ」その言葉が少年の顔色を少し戻した。

ネクロアは敵の矢が届くぎりぎりの地点まで歩き、短い術式を一つだけ描いた。

火でも氷でもない、ただの光。

光は盾の手前で二つに割れ、両端へ流れた。

「正面で消えるのではない。横へ逃げる」彼女は確信を得た。

ダリオは部下のイーヴをかばって肩に矢を受けた。

負傷者を引きずって下がる間にも、敵の盾は規則正しく前へ出る。

魔導軍が初めて、撃っても止まらない敵に直面した。

イーヴは矢を受けたダリオの肩を支え、撤退の列に加わった。

「前を見ろ。味方の足を止めるな」ダリオは痛みをこらえて指示した。

少年は初めて、指揮官の背中ではなく敵の盾を見た。

盾の列が向きを変えると、左端だけが半拍遅れる。

彼はその違和感を口に出そうとして、今は負傷者を運ぶ方が先だと唇を噛んだ。

撤退する紅蓮隊の前で、イーヴは落ちた杖を拾いかけた。

後方から弩矢が飛び、杖の横へ突き立つ。

彼は杖よりも、足を負傷した仲間の腕をつかんだ。

敵の盾に炎が届かなくても、この手なら届く。

仲間の重さを肩に感じながら、イーヴは後衛の合図まで決して振り向かなかった。

ガレスの参謀は追撃を求めた。

だがガレスは魔導軍の退路に並ぶ荷車を見ていた。

負傷者を運ぶ車だ。

「追えば治療所へ踏み込むことになる」参謀は勝機を逃すと言ったが、ガレスは命令を変えなかった。

追撃を止めたガレスのもとへ、負傷した弩兵の母から預かった護符が届いた。

兵は生きているが、指を二本失ったという。

勝利の旗を掲げようとしていた参謀は、護符を見て黙り込んだ。

ガレスは戦果欄の下に負傷者の数を書き足し、追撃を止めた理由を自分の名で記録した。

撤退路の入口で、イーヴは担架の数を数えた。

名簿では八人。

戻ってきたのは七人。

「一人足りない!」

彼は火球を撃つ代わりに、結界隊へ白旗で合図した。

射線を遮る結界が一瞬だけ開き、負傷した旗手を担いだ二人が谷から走り出た。

最後の担架が通った直後、敵の弩矢が結界に突き刺さった。

救護所で、ダリオの肩から矢が抜かれた。

治療師は包帯を巻きながら言った。

「次は部下をかばう前に、射線を変えてください」

ダリオは目を閉じた。

「その通りだ。俺は火力で押せると思い込んだ」

イーヴは膝に置いた杖を見つめた。

三度失敗した火球。

届かなかった炎。

だが白旗は届いた。

「隊長。攻撃役を外してください」

「怖くなったのか」

「怖いです。だから、怖かった場所を次の人に教えたい。盾が光る角度も、矢が飛んでくる距離も、全部」

ダリオはしばらく黙り、観測帳を差し出した。

「なら、お前が最初の観測役だ。俺の失敗も書け」

イーヴは最初の行に『紅蓮隊、正面攻撃失敗』と記した。

次に、盾の重なりが変わる瞬間を描いた。

盾を掲げる者は無敵ではない。

向きを変えるには、一歩ずつ足を動かす必要がある。

夕食の鐘が鳴っても、イーヴは観測帳を閉じなかった。

火球が消えた地点を地図に落とすと、五枚の盾が重なる中央では光が強く、端ではわずかに弱いことが分かった。

けれど、そこへ火を撃てば敵も盾を寄せる。

突破口ではなく、敵の動きを知る手がかりにすぎない。

「これだけでは勝てません」とイーヴは言った。

ダリオは肩を押さえながら頷いた。

「だから価値がある。勝てると書いてあれば、誰かが無理に突っ込む」

二人は失敗した火球の数と、消えた時刻を一つずつ照らし合わせた。

途中で記録のない時間が見つかった。

旗手を救いに戻った間だ。

イーヴはそこに推測を書き込もうとして手を止めた。

「見ていないものは、見ていないと書け」

ダリオの声に、彼は『観測不能』と記した。

空白を埋めることより、空白があると伝えることのほうが重要な日もある。

救護所の外では、弩矢で穴の開いた旗を縫う者がいた。

イーヴが受け取ると、旗手は「お前が振ってくれた白旗、見えたぞ」と笑った。

「あのときは、もう置いていかれると思った」

イーヴは何も言えなかった。

自分が火球を撃てなかったことだけを数えていた朝には、誰かの目に自分の合図が届くなど想像もしなかった。


その晩、イーヴは観測帳の表紙に自分の名前を書いた。

失敗した者の名前を隠さない。

次に読む人が質問できるようにするためだった。

夜、リュシアがその観測帳を受け取った。

「敗北を隠さなかったのね」

イーヴは頷いた。

「次の隊には、同じ場所で倒れてほしくありません」

翌朝の軍議で、リュカはその帳面を見て眉をひそめた。

「炎が効かないなら、紅蓮隊は何をする?」

「効かないと分かった場所を知らせるんです」とイーヴが答えた。

声は震えていたが、席を立たなかった。

「盾の端で光が弱くなります。でも、それだけで攻めたら敵は盾を寄せます。今はまだ、勝ち筋ではありません」

一人の隊長が苛立った。

「なら、何の役に立つ」

「同じ場所に味方を送らずに済みます」

リュシアは卓上の赤い駒を下げた。

昨夜までの作戦では、その位置から再攻撃する予定だった。

「これで無駄な突撃を一つ消せた」と彼女は言った。

イーヴは初めて、帳面の数字が人を動かすのを見た。

炎で敵を倒すことはできなかった。

それでも、自分の失敗が明日の命令を変えた。

彼はまだ観測役の仕事を知らない。

だからこそ、今度は見落とさないように、夜明けの光の中で盾の角度を測り直そうと決めた。

ネクロアは帳面を閉じず、地図の中央に置いた。

「この記録を書いた者は、前へ出なさい」

イーヴは叱責を覚悟して立った。

「あなたが見た半拍の遅れを、もう一度教えて」

「でも、あそこへ攻めれば、また矢が……」

「攻めるためじゃない。味方が退く時間を作るためよ」

ネクロアは地図上の退路を一本、右へずらした。

聖騎士の盾が向きを変える間に、負傷者の列が通り抜けられる道だった。

イーヴはようやく理解した。

自分が見つけたのは敵を殺す隙ではなく、誰かを帰すための時間だった。


翌朝、彼は観測台に上がった。

火球の杖は持っていない。

それでも合図の鐘が鳴ったとき、昨日より確かな声で叫べた。

「左端、半拍遅れます。退路、開けます!」

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