第三十四話 初めての敗走
退却は敗北と同じではない。
しかし、負傷した仲間を乗せた荷車がぬかるみに沈むと、兵士たちの顔から余裕が消えた。
荷車の車輪が壊れると、イザークは槍の柄を削って仮の軸を作った。
魔法で直せないのかと問われ、「今は木のほうが確かだ」と答える。
荷車が動き出すと、負傷兵たちは小さく拍手した。
誰も大魔法を使っていないのに、皆の顔に希望が戻った。
ベルクはヴァルディアから合流した騎兵だった。
かつて氷晶隊に進路を封じられた男が、今は魔術師の退路を守っている。
「馬を先に行かせろ。荷車は俺たちが押す」
聖騎士の追撃隊が山道に現れる。
ミラの結界は断続的にしか張れない。
代わりにイザークが岩場へ杭を打ち、荷車を一台ずつ滑車で引き上げた。
ネクロアは撤退の最後尾で、地面に落ちた白い羽根飾りを拾った。
敵の聖騎士のものだ。
彼女はそれを敵の負傷者へ返した。
若い騎士は困惑し、「なぜ殺さない」と尋ねる。
「あなたがここで死んでも、戦争の理由は消えないもの」
負傷者の治療所で、ネクロアは一人の術者に謝った。
「あなたたちの魔法が通じないことを、私はもっと早く見抜くべきだった」術者は首を振った。
「次に通じるようにしてくれれば、それでいいです」
「魔法がなくてもできる仕事がある」とイザークは泥だらけの手を見せた。
リュシアは死傷者名簿を読み、名前が抜けていないか確かめる。
勝っていた頃には短かった夜が、果てしなく長く感じられた。
山道の脇で、村の少年が荷車の轍を見つめていた。
魔導軍が通ったあと、橋板が割れ、村人の荷が渡れなくなっていた。
ベルクは自分の部隊に残った板を渡し、修理のため二人を置いた。
「追撃が来ます」と部下が言う。
「だから急げ。俺たちが去ったあとも、この村はここにある」少年は手伝おうとしたが、ベルクは安全な場所で見ているよう頼んだ。
後衛のベルクは、退却路を塞ぐ倒木を見つけた。
馬を捨てて切り開くには時間が足りない。
彼はかつて敵だった騎兵に声をかけ、手綱をつないで木を引かせた。
誰も昔の軍旗を気にしなかった。
今は同じ荷車を通すことだけが重要だった。
仮の車軸がきしむ。
イザークは荷車の下へ肩を入れ、ベルクは馬を下げて荷重を逃がした。
三人の負傷者を乗せたまま動かせば、また壊れる。
リュシアは一人を担架へ移し、歩ける兵に交代で担ぐよう頼んだ。
荷車はようやく泥から抜けた。
誰かの技術だけでは足りなかった。
ネクロアは最後尾を離れなかった。
追撃隊の盾が崖下へ見えたとき、彼女は崖そのものを崩さず、道の端の砂礫だけを滑らせた。
騎士たちは立ち止まり、負傷者を載せた荷車は曲がり角を抜けた。
追う者を殺さず時間を稼ぐ。
そのわずかな差が、今夜の全員の命をつないだ。
ベルクが戻らない間、イザークは荷車の壊れた軸を布で包んで固定した。
次の揺れで折れると分かっている。
そこで負傷者を二組に分け、歩ける者に車を押してもらった。
「誰かを置いていくより、全員で遅く進もう」元敵軍の騎兵と魔術師が、掛け声を合わせて車輪を持ち上げた。
夜明け、ベルクは戻った二人を医療班へ預けた。
救出した術者は「命令を破ってすみません」と言った。
ベルクは叱った。
「仲間を助けたことじゃない。誰にも行き先を告げなかったことだ」彼は新しい捜索手順を紙に書き、見張り台へ貼った。
イザークは荷車の車輪に自分の帯を巻きつけた。
泥を噛んだ軸が一度だけ回る。
担架の上の兵が小さく息を吐いた。
撤退の地図に記されない数歩を、彼らは必死でつないでいた。
夜営地では火を使わず、毛布を寄せ合って眠った。
敵の偵察を避けるためだ。
ナディアは手を温めようとして術式を描きかけ、途中でやめた。
自分の得意な力を封じられる怖さが初めて分かった。
彼女は代わりに仲間へ温かい水筒を渡した。
夜の寒さが厳しくなると、敵味方を問わず負傷者の震えが止まらなくなった。
リュシアは毛布を数え、足りない分を荷車の幌から切り出した。
ベルクは自分の外套を脱いだ。
「騎兵の装備だぞ」と副官が言うと、彼は「馬はもう歩ける。あの子は歩けない」と答えた。
翌朝、外套の持ち主を知らない若い術者が、礼を伝えるために隊列を探し回った。
ダリオは撤退の報告書を読み、魔力の残量より荷車の数を先に尋ねた。
兵站官は驚いたが、ネクロアは頷いた。
敵の盾を破れなかった日の敗北から、指揮官たちはようやく、守るべき順番を学び始めていた。
初めての敗走で、ネクロアは最後尾に残ろうとした。
リュシアは彼女の杖を掴む。
「あなたがここで倒れたら、誰が次の撤退を命じるんです」
ネクロアは反論できない。
二人は最後尾の指揮をノインに任せ、先に負傷者の集まる丘へ向かった。
丘に着くと、撤退した兵が指揮官を見て立ち上がった。
彼女が逃げたのではない。
次の命令を出す場所を選んだのだと、ようやく理解した。
撤退路の途中で、敵の追撃を恐れた村人が門を閉ざした。
ベルクは門を叩かなかった。
代わりに、村の外へ水桶を置き、負傷者だけでも飲めるようにした。
夜明け前、門が少し開き、老婆が乾いた布を差し出した。
「泊めることはできない。でも傷は縛れる」ベルクは頭を下げた。
敗走の中にも、拒絶だけではない選択があった。
戦況報告の最後に、ネクロアは「敗走」と記した。
参謀は「戦略的撤退」に直すべきだと主張したが、彼女は消さなかった。
「兵が恐怖の中で走った。それを隠せば次も同じことが起きる」その文字を見たダリオは、初めて机の上に負傷者名簿を置いた。
敗走の記録を読み返したネクロアは、撤退の指示を出す時刻が遅かったことに気づいた。
彼女は余白へ赤い線を引き、次の作戦では術の成功率だけでなく退路の距離を先に確認する、と書いた。
誰かの失敗にすれば楽だった。
だが指揮官の名を消してしまえば、同じ過ちを繰り返す。
明け方、救出された若い術者は、ベルクが馬の手綱を手放さなかった理由を尋ねた。
『馬は逃げられたのに』。
ベルクは傷だらけの手を見せた。
『お前を乗せる場所を空けていた』。
術者は礼を言いかけ、言葉を飲み込んだ。
夜の点呼で呼ばれなかった名前が、まだ一つある。
ネクロアは捜索を打ち切る時刻を決め、帰還した兵にもう一度名簿を確かめさせた。
希望だけで部隊を危険に戻すことも、確認せず諦めることもできなかった。
泥に沈んだ荷車の車軸を、イザークは手で触った。
木が割れている。
「魔法で持ち上げれば」と言う兵に、彼は首を振る。
「ここでは効かない。板を二枚持ってきて」ベルクが自分の盾を差し出し、敵だった二人は無言で車輪を支えた。
泥に沈む荷車を前に、イザークは車輪を切り離す案を出した。
積んでいた予備の術具は失われる。
リュシアは一瞬ためらい、負傷者の数を見て頷いた。
「道具は作り直せる」荷車は軽くなり、担架を乗せて動き始めた。
敗走の記録に残ったのは、捨てた荷の重量だった。
その夜、ベルクは捜索へ出た兵の帰還時刻を記録した。
焦るほど捜索範囲は広がる。
救うための行動が新たな遭難者を出さないよう、二人一組と戻る時刻を決めた。
ネクロアはその地味な決定に、自分の敗走命令よりも多くの命がかかっていると感じた。
敗走の列で、ダリオは壊れた車軸を捨てずに荷台へ載せた。
重さを嫌がる兵に「次の補給路を直す手本になる」と答える。
負けた理由を持ち帰らなければ、撤退はただの逃走で終わる。
予備車軸を載せる場所を空けるため、ダリオは荷台の飾り金具を外した。
兵は笑ったが、翌日の悪路で車軸が折れたとき、その空き場所が補給を止めずに済ませた。
ダリオは予備車軸の木目を確かめ、壊れたものと並べた。
「壊れた理由を知らずに予備だけ積めば、また同じ場所で折れる」
イザークは地図の坂道に印を付けた。
敗走の記録が、次の補給路を変えた。
敗走の列の最後尾で、リュカは自分の火球が一度も敵に届かなかったことを数えていた。
そこへ伝令が走る。
「あなたの煙幕で、救護隊が渡れました」
勝てなかった事実は変わらない。
だが何もできなかったわけでもない。
リュカは燃え残った杖を見つめ、次に使う魔法の名を、初めて攻撃以外の言葉で考えた。
イザークが壊れた車軸を持ち上げると、金具の奥から白銀の粉が落ちた。
普通の破損ではない。
ダリオは指先で粉をすくい、光へかざす。
「盾の破片と同じ色だ」
敗走した隊の補給車まで、敵の仕掛けが届いていた可能性がある。
二人は車軸を捨てず、分解台へ運んだ。
次の戦いは、火力ではなくこの小さな粉から始まる。




