第二十八話 騎士王は自らネクロアに挑んだ
決闘の前、レオナルドは古い手紙を読み返した。
幼い息子が初めて馬に乗った日の報告だった。
息子はまだ王都で待っている。
父が勝つと信じているだろう。
だが今の自分が守るべきものは、勝利の名誉だけではない。
彼は手紙を畳み、オルフェンへ渡した。
「もし私が戻らなければ、息子には剣より先に民の声を聞けと伝えてくれ」
一方、ネクロアは決闘場の周囲に結界を張らせた。
観衆が巻き込まれないようにするためだ。
「相手は王です」とミラが言う。
「ええ。だからこそ、誰も見ていないところで勝敗を決めるわけにはいかない」二人の決闘は、軍隊に戦いを終える理由を与える儀式でもあった。
盆地の朝は冷たかった。
レオナルドは鎧を着け、剣を腰に差した。
幕舎の外では、降伏を申し出た騎士たちが南の道へ向かっている。
「陛下、これ以上の戦いは無意味です」とオルフェンが言った。
「分かっている。だから、私が終わらせる」
騎士王は一騎だけで魔導軍の陣地へ向かった。
白旗ではない。
銀の獅子の軍旗を掲げていた。
リュシアは迎撃を提案したが、ネクロアは首を振った。
「話を聞きましょう」
二人は兵士たちの見守る平原で向かい合った。
「ネクロア。私と決闘しろ」
「勝ったらどうするの?」
騎士王は決闘の前に兜を脱ぎ、観戦する兵たちへ向けた。
「私が敗れたら、私の名を口実に戦いを続けるな」副官が抗議しかけたが、騎士王は剣を握り直した。
王としての命令を、自分が勝てると信じている間に出しておく必要があった。
「我が軍を解放し、ヴァルディアの領土から退いてもらう」
「負けたら?」
「私が剣を捨てる。全軍にも降伏を命じる」
ネクロアはしばらく考えた。
「一つ条件を加えるわ。決闘の勝敗にかかわらず、負傷者の治療と捕虜の安全は保障する」
レオナルドは頷いた。
決闘は正午に始まった。
騎士王の剣は速かった。
馬上で鍛えた体幹から放たれる斬撃は、鋼の鎧をも断つと言われる。
だがネクロアは一歩も退かなかった。
最初の一撃を薄い結界で受け、二撃目を地面から伸びた石柱で止める。
「その程度か!」
レオナルドは踏み込みを強めた。
剣の刃に刻まれた術式が光り、結界を一瞬だけ裂いた。
観衆がどよめく。
「なるほど。魔法を断つ剣ね」
剣が結界の継ぎ目を裂いた。
ネクロアの肩へ銀光が迫り、ミラが思わず名を叫ぶ。
だがネクロアは反撃せず、刃を受け流して半歩だけ横へ移った。
レオナルドの足元には、先ほどの踏み込みでできた浅い轍がある。
彼女が杖で地面を押すと轍の縁が持ち上がり、王の重心が崩れた。
剣先が石畳を擦り、レオナルドの握力が緩む。
ネクロアは倒れかけた王の頭を結界で支えた。
「これで終わりよ」レオナルドは空になった手を見つめた。
遠くで騎士たちがざわめく。
誰も歓声を上げなかった。
彼らは王の敗北を見ているのではない。
十万騎の戦争が終わる瞬間を見ていた。
「約束を守る」とレオナルドは言った。
「全軍に降伏を命じる。今すぐ伝令を」
ネクロアは杖を下ろした。
「ありがとう。あなたの兵士を生かして帰せるわ」
オルフェンが近づき、王を支えた。
決闘後、レオナルドの近衛がネクロアのもとへ来た。
「なぜ最後の一撃を加えなかった」ネクロアは答えた。
「勝負はついていたから」近衛は言葉を失った。
彼が学んだ戦いでは、敵の王を討つことが最高の栄誉だった。
だが王を生かして降伏させれば、十万騎に戦争をやめる命令を届けられる。
ネクロアにとって勝利とは、相手を倒す瞬間ではなく、これ以上倒す必要がなくなる瞬間だった。
その日の午後、ネクロアはレオナルドを天幕へ招いた。
二人の前に置かれたのは豪華な料理ではなく、兵士と同じスープとパンだった。
「勝った者の食卓にしては質素だな」と王が言う。
「まだ帰れない兵がいるもの」とネクロアは答えた。
レオナルドは黙ってスープを飲んだ。
敗れた王としてではなく、一人の人間として食事をしたのは、何日ぶりだろう。
彼は初めて肩の力を抜いた。
「陛下、立ってください。まだ国へ帰って、するべきことがあります」レオナルドは泥のついた手で剣を拾いかけ、止めた。
「敗れた王に何ができる」ネクロアは南の道を示した。
降伏した騎士たちが馬を引き、故郷へ帰る準備をしている。
「負けた戦争を、次の世代へ残さないことです」王は息子の手紙を思い出した。
父が帰ると信じる子に、どんな王であったかを語れるだろうか。
彼は剣を鞘へ納めた。
「ならば、まず全軍に武器を置かせよう」
だが命令書を持って走り出した伝令は、陣の外れで立ち止まった。
遠方の予備騎兵が、まだ王の敗北を知らずに槍を構えている。
伝令の少年は、敵前で白旗を振れば自軍に射られるかもしれないと怯えていた。
レオナルドはその背に声をかけた。
「怖いか」
「はい。王命に従っても、あの隊には裏切り者だと思われます」
「ならば私も行く。命令を下したのが誰か、私の顔を見せよう」
ネクロアは王を止めなかった。
ただ、ミラに命じて、二人の進む道の上だけに薄い結界を張らせた。
決闘の勝者が敗者を守る。
周囲の騎士たちは、その光景を理解するまで時間がかかった。
予備隊の隊長は王を見つけても、すぐに槍を下ろさなかった。
「陛下、我々はまだ戦えます。敵の魔術師が疲れた今なら」
「戦えることと、戦わせてよいことは違う」
レオナルドは自分の鎧の傷を見せた。
「私は剣で敗れた。だが、お前たちの命まで賭けて、負けを取り消すつもりはない」
隊長の背後で、馬が一頭倒れた。
飼葉を十分に与えられず、長い行軍に耐えた馬だった。
若い騎手が手綱を引き、泣きそうな顔で王を見た。
レオナルドは膝をつき、馬の鼻先に手を添えた。
温かい息がまだある。
彼は隊長へ命じた。
「槍を置け。まず馬に水をやれ。負傷者を先に通せ」
騎兵たちは一人ずつ穂先を下げた。
誰も勝利を叫ばなかった。
代わりに水桶が運ばれ、馬のそばへ人が集まった。
レオナルドはその光景を見ながら、戦いを止める命令が届くまでが、王として最後の戦いなのだと思った。
伝令の少年は命令書を抱え直した。
今度は震えを隠さずに走り出した。
レオナルドは降伏命令書に署名し、従騎士はその紙を震える手で受け取った。
「この命令で、私たちは生きて帰れますか」
騎士王は答えた。
「必ずとは言えん。だが、私の誇りのために死なせはしない」




