第二十三話 一万騎が三方向から突撃する
朝の鐘が三度鳴ったとき、ヴァルディア軍の先遣一万騎が動いた。
中央に五千、左右に二千五百ずつ。
赤、白、青の旗が草原を横切る。
ベルクは先頭で丘の陰を見た。
敵の魔術師は槍を持たず、結界を張って待っている。
だが昨日の偵察で見た測量杭が、今朝は見当たらなかった。
杭が消えたのではない。
霧の下に隠れている。
「速度を落とせ!」彼が叫んだとき、後方の騎兵にはまだ何も見えていなかった。
ミラが両手を上げた。
最前列の術者四百人が結界を段階的に後退させる。
壁は壊れたように見えたが、実際には次の位置へ張り直されていた。
ベルクはそれを突破口と判断した。
「中央突破! 続け!」
五千騎が狭まった道へ殺到する。
その先で、イザークが測量杭の一本を引き抜いた。
「予定線に入りました」
ネクロアが頷く。
「氷晶隊、第一段階」
薄い霧が地表を這った。
馬の鼻先にはまだ何も見えない。
だが蹄の下の草に霜が降り、土の表面が固く変わり始める。
ベルクは異変に気づいた。
「地面だ! 速度を落とせ!」
警告は前列にしか届かなかった。
先頭の馬が滑り、騎士が手綱を引く。
後ろの馬は止まりきれず、列が左右へ膨らんだ。
幸いネクロアは凍結範囲の端に退避路を残していたため、全軍が転倒する惨事にはならない。
それでも突撃の勢いは完全に消えた。
「隊長、前が詰まります!」
ベルクは旗を振って停止を命じた。
だが、後列の騎兵は土煙で旗が見えない。
前の馬が急に速度を落とし、次の馬が横へ逃げる。
隊列が乱れた。
ネクロアは丘からその様子を見ていた。
「まだ撃たないのですか」とダリオが尋ねる。
「敵が自分の速さを捨てるまで待つ」
「ですが、距離が」
「結界隊を信じなさい」
「紅蓮隊、上空へ威嚇射撃」
ダリオの号令で火球が放たれ、騎兵の前方に炎の幕が生まれる。
直接馬を焼くのではなく、これ以上進めないことを示す壁だった。
ベルクは歯を食いしばった。
進めば炎、戻れば後列と衝突する。
「左右の退避路へ! 負傷者を拾え!」
撤退命令を出した瞬間、敵が自分たちを殺し尽くすつもりではないことに気づいた。
逃げる道だけが、不自然なほど明確に残されている。
丘の上でリュシアが息を吐いた。
「第一波、後退します」
「追わない。彼らには王へ報告してもらうわ」
「何を?」
戦場の端では、騎兵から落ちた少年が脚を押さえていた。
結界隊の術者が駆け寄ろうとすると、仲間が止めた。
「敵だぞ」術者は答えた。
「負傷者よ」彼女は白い布を掲げ、相手の剣を遠ざけてから治癒術を使った。
少年は震えながら「殺さないのか」と聞いた。
「あなたがもう戦わないなら、殺す理由がないわ」少年は何度も頷いた。
ベルクは撤退する隊列を整えながら、敵が負傷者を拾っている姿を見た。
戦場で慈悲を示す軍は弱い、と彼は教えられてきた。
だが、あの魔術師たちは戦いでは強く、倒れた相手には手を差し伸べている。
その矛盾をどう王へ説明すべきか、彼にはまだ分からなかった。
一万騎のうち、まとまって突撃できる隊列は半数以下に散った。
ベルクは退避路へ馬を向け、最後尾の兵が抜けるまで振り返り続けた。
丘の上でネクロアが追撃を禁じている。
馬を止めたのは炎でも雷でもない。
地形を変え、合図を合わせ、逃げ道を残した判断だった。
「魔術師に近づけば勝てる」その常識は、近づく道そのものを奪われた朝に崩れた。
ベルクは帰還報告の最初の行に書いた。
『敵の射程ではなく、敵が選ぶ戦場を警戒せよ』。
土煙が晴れると、平原には折れた槍と落ちた旗が残った。
工務隊は危険な穴を埋め、救護班は敵味方を区別せず負傷者を運んだ。
ベルクは退却路の先でその光景を見た。
追撃されなかった理由を、ようやく理解した。
魔導軍は勝つための道と、負けた兵が帰る道を、最初から別々に作っていたのだ。
戦闘後、ベルクは失った馬の数を先に数えた。
騎士たちには不満もあったが、馬がいなければ彼らは騎兵ではなくなる。
獣医が脚を冷やし、鞍を外す。
負傷した馬が鼻を鳴らすと、若い騎士は泣きそうな顔で首を撫でた。
「俺が無理に走らせた」ベルクは叱らなかった。
「次は、前の列が止まったら自分も止まれ。勇気と無謀は違う」
魔導軍では、最前線の結界隊が交代していた。
青い壁を保つだけで、術者の腕は震え、視界が白くなる。
ミラは水を配り、次の班に引き継いだ。
華々しい火球を撃たなくても、彼らが一呼吸だけ敵を止めたことで、多くの味方が生き残った。
ネクロアは全員の前でその働きを称えた。
午後、戦場の中立地帯に白旗が立った。
両軍の衛生兵が負傷者を探すための短い休戦だった。
ベルクはネクロアの使者に尋ねた。
「なぜ我らを追わない」使者は答えた。
「戦う必要がなくなったからです」その言葉は屈辱にも聞こえたが、同時に救いでもあった。
王のもとへ戻る途中、ベルクは丘を振り返った。
敵が数千しかいないことは変わらない。
だが、その数千は自分たちを正面から押し返したのではない。
十万騎の武器である速度を、戦いの始まる前から奪う準備をしていた。
彼はその事実を報告書の最初の行に書いた。
撤退した騎士たちは、誰が先に退いたかを争った。
ベルクはその口論を止め、三方向の旗が見えた時刻を全員に書かせた。
中央の旗が上がった時刻には、右翼の隊長はすでに退避を命じていた。
左翼の伝令は砂煙で旗を見失っていた。
「臆病者がいたから負けたのではない」とベルクは言った。
「同じ戦場を見ているつもりで、誰も同じものを見ていなかった」報告書には、敵の魔術だけでなく自軍の連絡不備も記した。
レオナルドに叱責される覚悟はあった。
だが次の一万騎まで同じ理由で失う方が恐ろしかった。
三方向からの突撃が始まる直前、ベルクの部下が斥候旗の色を取り違えた。
右へ回るはずの百騎が中央へ寄る。
ベルクは角笛を吹いたが、風で音が流された。
彼は自分の兜を槍の先に掛け、高く掲げた。
部下たちが見慣れた傷のある兜だった。
百騎はようやく向きを変え、後続との衝突を免れた。
指揮官の名を知らせるための紋章が、初めて兵を生かす目印になった。
三方向から騎兵が迫るなか、伝令旗が一本倒れた。
西の部隊には退却命令が届かない。
リュシアは自分の位置を知らせるため、魔力を使わず赤い布を槍に結んだ。
敵に見つかる危険はあった。
それでも合図が通じた瞬間、西隊の負傷者が一斉に動き出した。
三方向から突撃した騎兵の一隊が、合図より早く動いた。
隣の隊長は追随するか迷ったが、伝令がまだ戻らない。
速度を失えば騎兵の利点は消える。
しかし急げば味方と衝突する。
彼の一瞬のためらいが、ネクロアに地形を変える時間を与えた。
最初の戦闘を終えた夜、ダリオは火炎隊を集めた。
「今日は火球を敵へ直接撃たなかった。だから物足りない者もいるだろう」数人がうなずく。
ダリオは続けた。
「だが、敵を止める目的は果たした。敵を焼くために火を使うのではない。勝つために使う」若者たちは黙った。
火炎魔法の威力を誇る隊長自身が、その言葉を口にしたことに意味があった。
ベルクは三方向の突撃時刻を見比べ、伝令の到着が一つだけ遅れていると気づいた。
数千騎の進路を変えるには遅すぎる。
彼は自分の隊の速度を落とす合図を選び、後で責任を問われる覚悟をした。
ベルクは交換した腹帯を捨てずに残した。
切れかけた革を若い騎兵へ見せると、彼らは馬より先に自分の装備を調べ始めた。
突撃の号令は、わずかに遅れた。
ベルクは交換した腹帯を手に取り、ほつれの位置を指でなぞった。
もし突撃の最中に切れていたら、倒れた馬が後続を巻き込んでいた。
「整備を怠った負けは、敵の手柄にもならん」
彼は予備の革紐を若い騎士へ渡した。
ベルクは斥候の馬から鞍を外し、擦り切れた腹帯を見つけた。
次の突撃で切れれば、乗り手は落ちる。
彼は進軍の号令がかかる前に腹帯を交換した。
だが伝令が駆け去る前に、丘の向こうで突撃を告げる角笛が鳴った。
点検を終えていない隊も動き始めていた。
ベルクは突撃を止める旗を探した。
だが先頭の旗手はもう丘を越えている。
腹帯を替えた一騎だけが、まだ彼の声を聞ける距離にいた。
「右へ回れ。後続に知らせろ」
一騎の進路変更が十騎へ、十騎が百騎へ伝わるまで、彼は馬を動かさずに待った。
ベルクが送り出した一騎は、敵の霧ではなく味方の号令に阻まれた。
「王命だ、前進しろ!」後続の隊長が槍を突きつける。
伝令は腹帯の切れた馬を見せた。
「このまま走れば、馬が先に死にます」隊長は怒鳴りかけ、すぐ隣で転倒した騎兵を見た。
彼は槍を下げ、突撃旗の下に停止旗を結びつけた。
後続が止まるまでに百騎が泥へ踏み込んだ。
それでも千騎は止まった。
ベルクは丘の向こうからその旗を見た。
止まった千騎の背後で、王直属の第二陣が停止旗を敵の偽装だと判断し、突撃を始めていた。
ベルクは伝令をもう一騎送り出したが、霧に呑まれて戻らない。
自分が止めた兵の背中へ、味方の槍が迫っていた。




