第二十一話 騎士王は十万騎を集結させた
グランベルクの東門が開いてから十二日目、平原の向こうから使者が到着した。
馬の胸当てには銀の獅子。
ヴァルディア騎兵王国の紋章だった。
「騎士王レオナルド陛下より通告する。魔術師の軍勢は東方の領土を返還し、占領地から退け。さもなくば十万騎をもって討つ」
使者は書状を読み上げると、胸を張った。
ネクロアは返答を急がなかった。
背後の広場では、工務隊が壊れた荷車を直し、子供たちが水桶を運んでいた。
「領土の返還先は、誰を指しているの?」
「当然、正統なる旧領主だ」
「旧領主は通行税を三重に取り、反対した商人を牢へ入れたわ。彼を戻すことを、そこに住む人々は望んでいるのかしら」
使者の顔が赤くなった。
「王の権利を民に問う必要などない!」
「では、返答は決まったわ。住民の意思を確認する使節なら迎える。軍勢なら、こちらも軍で応じる」
使者が去ると、副官リュシアが地図を広げた。
ヴァルディアの国土は南北に長く、広大な草原が続く。
馬の飼育に適した牧場、井戸、宿駅が一定間隔で並び、騎兵が一日に進める距離は歩兵の比ではない。
「十万騎が一度に突撃するわけではありません」とリュシアは言った。
「先遣隊が道を押さえ、主力が側面を回り、予備軍が退路を切ります」
使者が帰ったあと、城門の前に一人の母親が立っていた。
息子がヴァルディアの国境の村へ薬を届けに行ったまま戻らないという。
「戦争が始まれば、あの道は閉じるのでしょうか」ネクロアは安易に大丈夫とは言えなかった。
代わりにリュシアへ、民間の避難路と通行証の発行を命じた。
軍が勝つことと、村の人々が明日の朝に食事を取れることは、同じではない。
その二つを両立させるために軍団は存在するのだと、彼女は自分に言い聞かせた。
訓練場では、氷晶隊のエルナが新兵に馬の模型を見せていた。
馬の四本の脚は、どれも同じ速度で動くわけではない。
急に前脚だけが滑れば、後ろの騎兵まで巻き込む。
「相手を転ばせることを目標にしないで。速度を落とさせることを目標にするの」それは敵を倒すより精密な魔法を要求した。
新兵は戸惑ったが、やがて地面に薄い氷の線を引く練習を始めた。
城塞の見張り台から、アルノーは東へ伸びる街道を眺めた。
かつて城壁の厚さを信じて敗れた自分が、今度は敵国へ警告を書く。
『魔導軍は壁を破る前に、守備隊の判断を変えた』。
報告を読んだリュシアが尋ねた。
「敵へ渡してよいのですか」アルノーは頷く。
「十万の騎士を無駄に死なせたくない」ネクロアは封蝋を押すよう命じた。
警告が届けば戦いは難しくなる。
それでも、勝つために敵の愚かさを願う軍にはなりたくなかった。
「馬が必要とするものを調べましょう」ネクロアは井戸の位置に印を付けた。
十万頭の馬は十万人の騎士より大量の水と飼葉を必要とする。
井戸を壊してしまえば敵だけでなく村人まで苦しむ。
そこでリュシアは、水源を守りながら騎兵の進路だけを限定する案を地図に書き込んだ。
「敵は四千余の魔術師だ」と軍務卿が告げる。
「こちらは十万。突撃が届けば勝負は終わります」
ただ一人、老騎兵長オルフェンが進言した。
「城塞を一刻で落とした相手です。まず偵察を。地形を見ずに馬を走らせてはなりません」
レオナルドは頷いた。
「偵察はする。だが、こちらの速さを失うな。敵が呪文を唱える前に踏み込む」
彼は勝利を疑っていなかった。
それでも老騎兵長の警告を聞いたのは、数だけを頼る愚かな王ではなかったからだ。
翌朝、ネクロアは軍団長を集めた。
紅蓮隊長ダリオ、氷晶隊長エルナ、雷鳴隊長シード、結界隊長ミラ、禁呪隊長セリス。
そして新たに加わった工兵長イザークが並ぶ。
「今回の目的は騎士を焼くことではないわ。突撃を成立させないこと」
ダリオが首を傾げた。
「火炎隊の出番はありませんか」
「ある。けれど、最初の一撃はあなたたちじゃない」
ネクロアは平原の模型に細い溝を一本引いた。
「速い敵ほど、進路を変えられなくなった瞬間に弱くなる」
軍議のあと、若い魔術師が尋ねた。
「本当に十万騎に勝てるのでしょうか」
軍団の編成表には、城塞攻略の際に負傷した者の名前が残っていた。
治癒魔法で傷は塞がっても、すぐに長距離行軍へ戻れるわけではない。
ネクロアは休養班を独立させ、前線の人数を実数で数え直した。
「三千人から始めた軍が四千人を超えても、同時に戦える人数は別よ」リュシアは新しい表を作り、各隊長に配った。
敵の十万という数字に怯えるより、味方が何をできるかを正確に知る。
その積み重ねが、最初の勝利を偶然で終わらせない。
ヴァルディアの宮廷では、王の出征を祝う歌が作られていた。
十万騎が草原を埋める様子を讃える歌だ。
だが作詞家の老人は、最後の節を書けずにいた。
戦いの結末を知らないのに勝利を歌うことはできない。
窓の外で鳴る蹄の音を聞きながら、老人は筆を置いた。
出征準備の最終日、リュシアは軍団長たちに一枚の紙を配った。
そこには勝利条件ではなく、撤退条件が記されていた。
結界隊の魔力が半分を下回った場合、氷晶隊の連絡が二度続けて途切れた場合、民間人の避難路が塞がれた場合。
どれか一つでも起きれば、攻勢を中止する。
「弱気ではありませんか」と若い隊長が聞いた。
ネクロアは答えた。
「勝つために引くことと、負けて逃げることは違うわ」彼女が欲しいのは一度きりの英雄的な勝利ではなく、次の戦場にも立てる軍だった。
騎士王の側では、十万騎を集めた代償が早くも現れていた。
宿駅の干し草は底をつき、後続の荷車が遅れる。
軍務卿は周辺の村に徴発を命じようとしたが、オルフェンが止めた。
「村を飢えさせれば、帰り道で水一杯も分けてもらえません」王は代金を払って購入するよう命じた。
レオナルドにも守りたい国がある。
その点では、ネクロアと同じだった。
国境の古い橋の上で、両軍の斥候が一瞬だけ顔を合わせた。
剣は抜かれなかった。
互いに相手の人数と馬の状態を数え、黙って引き返す。
戦争はまだ始まっていない。
だが橋の下を流れる水は、すでに両軍の進路を分ける境界になっていた。
「向こうの王は強いわね」とネクロアは言った。
リュシアが意外そうに顔を上げる。
「十万騎を持っているからですか」「違う。十万騎を動かす仕組みを持っているからよ。だからその仕組みを止める」彼女は地図の井戸に最後の印を付けた。
ベルクは十万騎の土煙より先に、街道の轍を見た。
荷車の間隔が狭い。
「馬より補給が先に詰まる」その報告を聞いたネクロアは、突撃地点ではなく水場を地図に記した。
レオナルドは十万騎の前で剣を掲げた。
歓声は地面を揺らしたが、馬丁長だけは馬の鼻先を見ていた。
三列目の馬が水を飲まない。
彼は王の演説を遮り、獣医を呼ぶ。
「たった一頭のために式を止めるのか」と近衛が怒る。
馬丁長は首を振った。
「一頭で済むうちに止めるんです」
調べると水桶に異臭があった。
式典は中断され、十万騎の水場が一斉に検査された。
レオナルドは剣を下ろした。
数を誇る軍ほど、一つの異変に弱かった。
騎士王レオナルドは十万騎の名簿に、替え馬の数が足りないことを見つけた。
参謀は「勝てば不要です」と答えた。
レオナルドはその言葉を聞き流さなかった。
勝利を前提に組まれた補給計画ほど、負けたとき兵を殺すものはない。
出征の朝、城門の前に一台の荷車が止まった。
積まれていたのは矢でも石でもなく、空の水桶だった。
御者の老人は、敵軍が通る村の井戸に蓋をするよう命じられたという。
「井戸を潰せば、あの連中は困るでしょう」ネクロアは桶を一つ持ち上げた。
「困るのは、そこに住む子供も同じよ」彼女は井戸を封じる命令を撤回させ、代わりに取水量と村人の優先順位を記した札を配った。
戦場で勝つために、戦場の外を壊してはならない。
老人は何度も頭を下げたが、ネクロアは「礼は、帰ってきた兵に水を渡して」と頼んだ。
騎士王レオナルドの陣幕へ、馬丁長が濡れた干し草を一束持ってきた。
「十万騎に必要な餌は、予定の半分しか届いていません」
軍務卿は顔をしかめた。
「馬丁の仕事は馬を走らせることだ。作戦に口を出すな」
レオナルドは干し草を受け取り、掌で絞った。
水が落ちる。
「これでは馬は腹を壊す」
彼は補給隊の到着を待つ案を口にした。
だが使者が皇都からの封書を差し出す。
国境に集結した兵の士気が下がる前に、勝利を示せという命令だった。
「予定を早めれば、馬が倒れます」と馬丁長が言う。
「遅らせれば、敵に備える時間を与える」と軍務卿が返す。
レオナルドは陣幕の外へ出た。
十万騎の列は夜の平原へ延び、最前列の若い従騎士が空の桶を叩いていた。
「水は」と尋ねると、少年は首を振った。
「井戸が枯れました」
レオナルドは突撃時刻を一日早める命令書へ署名した。
馬丁長は何も言わず、濡れた干し草を持って出ていく。
勝つために急ぐのか、負けるのが怖くて急ぐのか。
王自身にも分からなかった。
同じ夜、ベルクは遠くの街道に不自然な轍を見つけた。
敵の荷車は兵数に比べて少ない。
十万騎を動かす軍が、すでに何かを失っている。
彼はそのことをネクロアへ伝えたが、彼女は地図から目を離さなかった。
「足りないのは食料だけとは限らない。騎士王が急ぐ理由を探して」




