第十五話 城壁を破壊できないなら、魔法陣を壊せばいい
夜半、ネクロアの幕舎には観測記録が積み上がっていた。
火球の着弾位置、石の発光、地面の揺れ、城内の井戸の水位。
ひとつひとつは些細な数字だが、重ねれば巨大な図形が現れる。
リュシアが線を結ぶと、三重の城壁から城塞中央の地下へ向かう経路が浮かんだ。
「城壁を守る術式の中心は、壁そのものではない」ネクロアは頷いた。
「地下の魔力分配室。そこを止めれば、石はただの石に戻る」ただし問題があった。
地下室は城塞の中央、民家と倉庫の下にある。
上から大魔法を撃てば、守るべき住民まで巻き込む。
「地下だけを狙えませんか」と若い術者が尋ねた。
ネクロアは答えた。
「狙える。でも構造が分からないまま壊すのは賭けよ。私たちは賭けで人を殺さない」彼女は地図の上に三つの点を打った。
谷底の古い排水路、外壁の排水口、東側の崩れた採石場。
地下へつながる可能性のある場所だった。
そのころ工兵長イザークは、城塞の古文書庫で埃まみれの巻物を開いていた。
古代の築城者が残した文書には、魔力を逃がす『分配環』の記述がある。
分配環は石を守るだけでなく、城の地下に設けられた貯蔵槽へ余剰魔力を送る。
槽が満ちれば放流口から谷底へ逃がす仕組みだ。
だが、その放流口は数十年前の土砂崩れで埋められていた。
「これでは、撃たれ続けるほど城内が危なくなる」イザークは息を呑んだ。
魔法陣の縁に刻まれた名前を見つけたとき、ダリオは手を止めた。
城塞を建てた石工たちの名だった。
破壊するだけなら数秒で済む。
しかし住民が頼る水路も同じ陣に接続されている。
彼は切断箇所を一つ減らし、作業をやり直した。
「壁は敵でも、水は敵じゃない」
ミリナの探査隊は帰路で水路の古い碑文を見つけた。
『余剰は谷へ、命は城へ』。
建設者が魔力の放流を人命保護のために設けた証拠だった。
ネクロアはその文を聞き、「古い人たちは、壁より人を守るために作ったのね」と呟いた。
時が経つうちに、城塞はその目的を忘れ、守るための仕組みを誇るための仕組みに変えてしまったのだ。
ネクロアは攻撃を再開せず、地下探査隊を動かした。
氷晶隊が排水路の水を凍らせ、土術師が天井を支える。
狭い暗渠を進むのは十数人だけ。
魔術師が多ければ何でも解決するわけではない。
長い杖は邪魔になり、強い魔法は崩落を招く。
隊長のミリナは光球を小さく保ち、石の継ぎ目に刻まれた古い文字を読み取った。
「ここから先は、城壁の真下です」
排水路の奥で、探査隊は封じられた銅の扉を見つけた。
扉には外壁と同じ銀線が走っている。
触れれば警報が鳴る。
ミリナは扉を開けず、魔力の流れだけを写し取った。
戻ってきた図面を見たネクロアは微笑んだ。
「これで分かった。城壁の魔法陣は一枚ではない。外壁、中壁、内壁が一つの輪になっている」輪の一部を切れば、すべての壁が同時に力を失う。
一方、イザークは総督に地下貯蔵槽の危険を報告した。
「いまなら住民を避難させ、放流口を掘り直せます」ゲルハルトは机を叩いた。
「敵が攻めあぐねているときに、こちらから弱点を認めるのか」イザークは声を抑えた。
「弱点を隠しても、弱点は消えません」周囲の将校は黙り込んだ。
総督は工兵長に謹慎を命じ、鍵を取り上げた。
夕刻、ネクロアは全隊長を集めた。
「明日は外壁に大きな攻撃を見せる。でも本命は地下の分配環よ」シードが尋ねた。
「破壊しますか」「いいえ。まず切り離す。蓄えられた魔力が城内へ逆流しないよう、谷底に逃がす道を作る」地形監視隊が排水路の地図を広げる。
氷晶隊は水流を制御し、結界隊は住民のいる区域を守る。
禁呪隊は最後の瞬間まで待機する。
城内の薬師は地下室から薬箱を運び出した。
井戸の水が濁り、幼い子供が怯えて泣いている。
薬師は総督の命令に従ってきたが、この日は初めて衛兵へ訴えた。
「戦うなら戦えばいい。でも病人を移す場所だけは決めてくれ」衛兵は答えられなかった。
城を守る号令は多くても、人を守る手順は何ひとつ示されていなかった。
「そんな複雑なことをしなくても、あなた一人なら城壁を吹き飛ばせるのでは」リュシアが小声で聞いた。
ネクロアは否定しなかった。
「できるわ。でもその後に何が残る? 街道も家も、地下の水脈も壊れたら、勝った意味がない」リュシアは記録帳に一行を書き足した。
『勝利条件――城壁の無力化、街道の確保、住民の保護』。
敵の旗を倒すことだけが勝利ではない。
地下術式を止める鍵は、三つの水門を同時に閉じることだった。
だが最後の水門の歯車には、住民が使う井戸の鎖が巻き込まれていた。
力任せに動かせば井戸が潰れる。
イザークは工具を置き、手で鎖をほどき始めた。
上では砲撃の時刻が迫る。
「間に合わない」と兵が言う。
彼は答えた。
「間に合わせるために井戸を壊すなら、止めた意味がない」
ネクロアは攻撃隊へ延期の合図を送った。
初めて城塞の地下で、敵味方が同じ時計を見た。
夜、城塞の地下で貯蔵槽が低く唸り始めた。
謹慎中のイザークは床の振動で目を覚ました。
まだ砲撃は始まっていない。
それでも、昨日受けた魔力が地下で巡り続けている。
「明日まで持つのか」彼は窓の外を見た。
谷の向こうには、ネクロア軍の灯が静かに並んでいた。
敵が何を知っているか、彼にはもう分からなかった。
イザークは修理帳の最後の頁で、古い放流口が封鎖された理由を見つけた。
数十年前、豪雨で谷の斜面が崩れた際、技師たちは土砂の流入を防ぐため一時的に口を塞いだ。
だが工事が終わっても開け直されず、図面からも線が消された。
「防御術式が弱いのではない。逃げ道を失った力が城の下に溜まっている」彼は禁じられた報告書を写し、監視兵に見つからぬよう薬師へ預けた。
敵に届くかどうかは分からない。
それでも、知らないふりをして眠ることはできなかった。
リュシアは避難路と放流口が交差する場所に印を付けた。
「ここで水があふれれば、敵ではなく住民が逃げられない」ネクロアは作戦図の矢印を一本消し、別の出口を探させた。
城壁の魔法陣に小さな継ぎ目が見つかった。
工作隊はすぐに破壊を提案したが、継ぎ目の向こうには民家があった。
ネクロアは術式の流れを逆にたどり、住民のいない保守坑道へ力を逃がす手順を選んだ。
時間がかかるほど敵の反撃は激しくなる。
排水路から戻ったミリナは、濡れた手で銀線の角度を紙に写した。
「この線を断てば、余った魔力が井戸へ向かいます」ネクロアは図面を逆さに置き、谷へ続く古い流路を指した。
「先に逃がす道を作る。そのあとで分配環を切る」リュシアは顔を上げた。
「つまり明日の作戦は、城壁を壊すことではなく、城を壊さずに済むようにすることですね」ネクロアはうなずいた。
「そのために二百人を危険な谷へ送る。だから一人も手順を飛ばさないで」
作戦の最後の検証で、ダリオは誰も見ていなかった図面の隅を指した。
「十二の中継陣が同時に止まっても、ここだけ圧力が残る」
古い放流弁は、閉めるときに水圧を受ける構造だった。
術式の計算が正しくても、錆びた鉄は計算どおりに動かない。
「では壊すしかない」とリュカが言う。
ダリオは首を振った。
「壊せば谷の下の畑が流される。先に圧力を抜く小弁を作る」
必要な部品は城塞の内側にしかない。
沈黙が落ちた。
ミリナが差し出したのは、イザークから届いた修理帳の写しだった。
余白に、小弁の寸法と保管場所が鉛筆で書かれている。
「敵の工兵が、こちらに使えるよう残したんです」
リュシアは慎重に言った。
「罠の可能性もあります」
ネクロアはうなずく。
「だから信用するのは人ではなく、確かめられる寸法から」
二人の測量班が別々に計算し、同じ数値を得た。
石工たちが仮の弁を作り、夜明け前の試験で初めて圧力が逃げた。
だが試験後、城壁の奥から鐘が鳴った。
敵もこちらの作業に気づいたのだ。
ネクロアは攻撃開始の旗を伏せたまま命じた。
「先に避難路を開く。城壁を落とすのは、そのあと」
リュシアが時計を見る。
敵の増援が来るまで、残り一刻。
守るべき住民と、止めるべき術式。
その両方を救える時間は、もう多くなかった。
イザークは停止弁の位置を記した紙を渡す前に、一箇所だけ墨を塗り潰した。
リュシアが眉をひそめる。
「隠し事?」
「いいえ。ここは私の計算が間違っていた場所です。図面どおりに掘れば、住民の寝室へ崩れます」
ネクロアは黒い印を消させなかった。
正しい図面より、間違いが残された図面の方が、今夜は多くの命を救う。
避難路の奥で、娘を探す母親の声が途切れた。
ネクロアは攻撃旗を伏せたまま、壁へ掌を当てる。
崩落の音の向こうから、三度、石を叩く音が返ってきた。
娘が生きている。
だが隔壁を開けば、敵の増幅陣も動き出す。
「開けるのは一人分だけ」
ネクロアは指先で、石の継ぎ目をなぞった。




