第十六話 禁呪隊二百人、出撃
夜明けの霧の中、禁呪隊二百人が谷底へ降りた。
黒い外套の胸には銀の輪が縫い取られている。
彼らの役目は大きな爆発を起こすことではない。
古代術式の流れを読み、必要な場所だけを切り離すことだった。
隊長セリスは部下に告げた。
「一人でも勝手に魔力を流せば、城内へ逆流する。私の合図があるまで詠唱を完成させるな」二百人は無言で頷いた。
丘の上では紅蓮隊が攻撃準備を始めた。
昨日と同じ陣形、同じ旗、同じ太鼓。
城塞側には再び城壁を砲撃するように見える。
ゲルハルトは見張り台で笑った。
「また無駄な火を撃つのか」しかしイザークは窓から谷底を見ていた。
霧の中に小さな光が点々と並ぶ。
火球の準備ではない。
地下に沿って人が動いている。
禁呪隊は排水路の外側に十二の中継陣を設置した。
魔法陣は大きく描けば強くなるわけではない。
古代術式の流れに対して、角度を正しく合わせる必要がある。
セリスは一つずつ測り、地面の石を動かした。
「二番、北へ半歩。七番は深さが足りない」部下たちは冷たい泥の中で作業を続けた。
ネクロアはその様子を遠見の術で見守り、急がせなかった。
午前の鐘とともに、紅蓮隊が一斉射撃を開始した。
城壁は白く光り、古代術式が衝撃を地下へ逃がす。
禁呪隊の足元に青い線が走った。
「流れを確認」セリスが合図する。
二百人が短い詠唱を重ね、魔力の通路に薄い膜を差し入れた。
通路を塞ぐのではなく、向きを変える。
余剰魔力は城内の貯蔵槽へ向かわず、谷底の古い放流口へ導かれていった。
谷底の土は思った以上に冷たかった。
禁呪隊の最年少術者は指先の感覚を失い、印を一つ間違えた。
隣の先輩がすぐに気づき、線を引き直す。
「失敗を隠すな。ここでは小さな間違いが町全体に届く」最年少術者は何度も頷いた。
二百人が一つの術式を扱うために必要なのは、天才のひらめきより、間違いを言える空気だった。
最初の変化は、城塞の井戸で起きた。
水面の波が止まり、地下室の唸りが消えた。
イザークは驚いて床に耳を当てた。
「魔力の圧力が下がっている」次に、外壁の銀線が一部だけ暗くなった。
ゲルハルトは慌てて魔法兵を呼んだ。
「術式を維持しろ!」しかし維持すべき流れそのものが外へ逃げている。
術者が魔力を注ぐほど、谷底の中継陣が淡く光った。
だが順調には進まなかった。
第九中継陣の下で地盤が崩れ、術者三人が倒れた。
セリスは詠唱を止めかける。
丘の上からネクロアの声が届いた。
「九番は私が引き受ける。負傷者を退避させて」彼女は杖を掲げ、遠く離れた中継陣の欠けた輪を一人で補った。
空中に巨大な銀の円が浮かび、途切れた魔力が滑らかにつながる。
禁呪隊の術者たちは息を呑んだ。
「いまなら城壁を壊せます」とシードが叫んだ。
ネクロアは首を振る。
「まだ。城内の人を避難させる」彼女は拡声魔法で城塞全域に告げた。
「外壁の防御術式は間もなく停止する。城門を開けば攻撃を止める。負傷者と住民を先に出しなさい」城内の人々は窓を開け、互いの顔を見た。
敵の声なのに、最初に告げられたのは避難の道だった。
ゲルハルトは降伏を拒み、内壁へ兵を集めた。
「外壁が破れても二枚残る!」イザークは監視兵の隙をついて大広間に駆け込み、叫んだ。
「三枚は一つの術式です。外壁だけではありません!」総督が言い返す前に、内壁の銀線も暗くなった。
城塞を百年守ってきた光が、一つずつ消えていく。
城内の鐘楼では、老いた鐘つきが手を止めていた。
外壁の銀線が消えるのを見て、彼は子供のころに聞いた言い伝えを思い出した。
『城を守る光が消える日は、門を開く日』。
それを祖父は戒めとして語ったが、老人には別の意味にも思えた。
光が消えても、町に住む人々まで消えるわけではない。
彼は降伏の鐘を鳴らす綱の埃を払った。
セリスは最後の詠唱を唱えた。
二百人の魔力が十二の中継陣を通り、地下の分配環を静かに切り離す。
轟音はなかった。
城壁の石が崩れたわけでもない。
ただ、どれほど魔法を受けても傷つかなかった壁が、普通の石へ戻った。
それを見たイザークは膝をついた。
城塞の真の強さが、いま失われたのだ。
セリスは崩れた第九中継陣を見た。
修復に手を貸すと、ほかの十一の流れが乱れる。
最年少の術者が申し出た。
「僕が九番を引き受けます」セリスは首を振った。
「怖さを隠して引き受けるな。できることを正確に言いなさい」少年は震える指を見つめ、「印を描くのは無理です。読み上げならできます」と答えた。
「それで十分」少年の声を合図に、先輩が欠けた線を引き直した。
十二の中継陣で、役目の呼称が順に返ってきた。
流れを受ける者、谷へ逃がす者、異常を知らせる者。
セリスは全員の声を確かめ、最後に自分の名を告げた。
「私は停止の判断をする。誰かが危険と言ったら、私が責任を持って止める」魔術師たちはそれぞれの位置へ戻った。
谷底に満ちたのは、勝利を急ぐ熱ではなく、互いの声を聞き取るための静けさだった。
禁呪隊の隊長は、術式を完成させるためには誰か一人が帰還できないと知った。
黙っていれば隊員は命令に従う。
彼は隊列を止め、危険を全員に告げた。
長い沈黙のあと、最年少の術師が提案する。
「二百人で一つを完成させるのではなく、百人ずつ二度に分けたら?」
威力は落ち、時間もかかる。
それでも隊長はその案を採用した。
禁呪の名を背負った部隊が初めて、禁じられた犠牲の方を拒んだ。
中継陣の外側には結界隊の小部隊が控えていた。
彼らは敵の矢を防ぐだけでなく、谷底の落石にも備えている。
禁呪隊が術式を組む間、結界隊は何度も防壁を張り直した。
目立たない仕事だったが、一度でも防御が途切れれば二百人の詠唱は崩れる。
セリスは遠くの仲間へ小さく頭を下げた。
城塞の監視兵は、谷底に光る点の数を数えた。
ひとつ、ふたつ、十二。
火炎魔法の陣形とは明らかに違う。
彼は総督へ報告を送ったが、返ってきたのは「外壁を守れ」という命令だけだった。
敵の行動が理解できないとき、同じ命令を繰り返しても状況は変わらない。
監視兵は歯を食いしばった。
セリスは術式の成功者だけでなく、中止を宣言した者の名も記録した。
「止めた理由が次の命を救う」最年少の術者は失敗を隠さず報告し、記録係の手がそこで初めて止まった。
禁呪隊の一人が出撃前に手袋を外した。
指には古い火傷が残っている。
「また使えば、次は戻らないかもしれません」ネクロアはその者を隊列から外そうとしたが、本人は首を振った。
「使わずに済む方法を探すため、私も行きたい」彼女は役割を攻撃から観測へ変えた。
魔力の流れが切り替わると、谷の古い水路から青白い光が噴き出した。
誰もが爆発を恐れたが、光は空へ伸びて静かに消えた。
イザークは城内の井戸に手を浸した。
水面は揺れず、石壁にも新しい亀裂はない。
「放流に成功した」彼は思わず声を上げ、監視兵に腕をつかまれた。
それでも笑いを消せなかった。
敵が成し遂げたのは、城を壊すことではなく、城が自ら抱えた危険を取り除くことだった。
禁呪隊の名簿には、各人が詠唱を止める合図も書き込まれた。
隊長は不服そうだったが、ミリナは譲らない。
「倒れるまで使うのは作戦ではありません」
その一行が、次の交代を可能にした。
禁呪隊の名簿に、交代要員の欄はなかった。
リュシアは空欄を赤く囲み、次の出撃までに訓練を終える者の名を書き込ませた。
勇気だけでは術式を引き継げない。
禁呪隊の名簿から一人が外れると、空いた位置を埋めようとする声が上がった。
ネクロアは代役を募る前に、術式そのものを縮小させた。
「人間を部品のように数えない」
隊員たちは威力の落ちた陣を見て不安になったが、全員が帰還できる手順を選んだ。
禁呪隊の隊員が詠唱の途中で倒れた。
隣の術師は術式を引き継ごうとしたが、ネクロアは止めた。
「予定にない人へ負担を移さないで」倒れた隊員を搬送し、残る人数で術式を安全に組めるかを再計算した。
残りの隊員は手順を組み替え、威力を落として再開した。
再計算を終えた術師が、術式図の端に赤い印をつけた。
「ここから先は、誰かが倒れたら全員停止」
隊長はうなずき、その印を全員に見せてから詠唱を再開させた。
威力の不足は別の方法で補える。
倒れた仲間の代わりだけは作れなかった。
二百人の詠唱は、初めて波のようにずれて響いた。
中心のセリスが倒れかけると、外周の新人がその一呼吸を受け持つ。
誰か一人の英雄的な犠牲で成立する術ではない。
測定器の針が危険域の縁で止まり、セリスは息を吐いた。
「その調子。次は私が、あなたを支える番」




