第六話 証明不明な女の子
遠くから、誰かが自分を呼んでいた。
男性だったような気もするし、女性だったような気もする。
言葉の内容までは聞き取れず、水の中から地上の会話を聞いているようにぼやけていた。
身体を揺さぶられている。
頬にも何かが触れていた。
返事をしなければならないと思ったが、喉が動かなかった。
裕司は目を開けようとした。
まぶたが重く、わずかに開いても、まぶしい光が差し込むだけだった。
白い天井らしきものが見え、その手前を誰かの顔が横切った。
「聞こえますか?」
今度の声は近かった。
裕司は返事をしようとしたが、口から出たのはかすかな息だけだった。
「大丈夫ですよ。救急車の中ですからね」
その言葉を聞いて、裕司は自分が玄関で倒れたことを思い出した。
病院へ行こうとして、扉を開けた。
廊下から女性の声が聞こえた。
その後の記憶は残っていない。
身体の下で規則的な振動が続いていた。
車が道路の段差を越えるたび、担架がわずかに揺れる。
誰かが裕司の腕へ触れた。
「体温が高いですね。もう少しで病院に着きますから、眠っていて大丈夫ですよ」
眠ってはいけないような気がした。
今のうちに説明しなければならない。
自分は身元不明の少女ではない。
今朝まであの部屋で暮らしていた、沖田裕司本人だった。
しかし、声を出そうとしても喉が痛み、言葉にならなかった。
「お名前、言えますか?」
救急隊員らしい男性が、ゆっくりと尋ねた。
裕司は唇を動かした。
「……おき、た……」
「おきた?」
「ゆう……じ……」
ようやく名前を言えた。
それだけで力を使い果たし、裕司は目を閉じた。
「沖田さん? 下のお名前は、ゆうじさんですか?」
裕司はうなずこうとした。
だが、身体が実際に動いたかは分からなかった。
「分かりました。もう無理に話さなくて大丈夫ですよ」
救急隊員の声は穏やかだった。
信じてもらえたのだろうか。
それとも、うわごとだと思われたのだろうか。
どちらなのか確かめる前に、裕司の意識は再び遠のいた。
****
次に目を覚ますと、裕司は知らない天井を見ていた。
白い天井板の中央に照明があり、その光が半透明のカバー越しに広がっている。
身体には薄い掛け物がかけられ、右手には点滴の管がつながっていた。
管はベッド脇の輸液ポンプまで伸びている。
機械は一定の間隔で小さな音を立てながら、点滴を送り続けていた。
裕司はゆっくりと周囲を見回した。
カーテンで区切られた空間の中に、ベッドと小さな棚が置かれている。
枕元には心拍数を表示する機器もあった。
病院へ運ばれたらしい。
頭はまだ重かったが、意識ははっきりしていた。
喉の痛みも残っているものの、昨夜よりは呼吸が楽になっている。
裕司は掛け物の下から左手を出し、自分の額へ触れた。
熱はまだある。
それでも、四十度を超えていたときほどではなさそうだった。
水を飲みたいと思ったが、近くにコップは見当たらなかった。
裕司が身体を起こそうとすると、カーテンの向こうで足音が止まった。
「目が覚めた?」
カーテンが開き、白衣を着た女性が入ってきた。
胸元の名札を見る限り、看護師らしい。
裕司は反射的に起き上がろうとしたが、看護師がベッドのそばへ近づいてきた。
「まだ起きなくて大丈夫よ。熱も残っているから、横になっていてね」
「水を……」
「喉が渇いた?」
裕司がうなずくと、看護師はベッドを少し起こし、吸い口のついた容器を渡してくれた。
裕司は両手で持ち、少しずつ水を飲んだ。
冷たい水が痛んだ喉を通る。
それだけで、身体の内側へ少し力が戻ってくるように感じられた。
「一気に飲まないで、ゆっくりね」
裕司は言われたとおり、何度かに分けて水を飲んだ。
容器を返すと、看護師が額へ手を当てた。
子どもへするような動作だった。
裕司は避けようとしたが、身体に力が入らなかった。
「熱は少し下がっているみたい。倒れていたときは、かなり高かったのよ」
「今、何度ですか」
「さっき測ったときは、三十八度一分だったわ」
四十度一分からは下がっている。
裕司は右腕から伸びる点滴の管へ目を向けた。
「点滴には、何が入っているんですか」
「水分と身体に必要な成分を補う点滴よ。脱水が強かったから、しばらく続けることになっているわ」
「薬も?」
「抗生剤も使っているわ。詳しいことは先生から聞いてね」
「抗生剤?」
「検査で細菌による感染が疑われたの。今のところ、治療には反応しているみたいよ」
裕司は点滴の管を見つめた。
身体が少し楽になっている理由は分かった。
高熱が下がり、喉の渇きも弱くなっている。
しかし、安心するより先に、自分の置かれている状況を思い出した。
「俺の荷物は?」
看護師は一瞬だけ目を見開いた。
少女の姿で自分を「俺」と呼んだことに驚いたのかもしれない。
「スマートフォンとお財布のこと?」
「はい。持ってきていますよね」
「預かっているわよ。ただ、もう少し休んでからにしましょうね」
「必要なんです」
「何か連絡したいの?」
「仕事があります。それに、部屋の鍵も入っています」
裕司が答えると、看護師は困ったような表情を浮かべた。
「学校ではなくて、お仕事なの?」
「取引先に連絡しないと。フリーランスでシステム開発をしています」
看護師はすぐには返事をしなかった。
裕司の顔を見つめた後、刺激しないように言葉を選んでいるように見えた。
「そうなのね」
その返事を聞いて、裕司は苛立った。
内容を信じた返事ではない。
話を否定せず、ひとまず受け止めるための返事だった。
「本当です。俺は沖田裕司です」
「沖田裕司さん?」
「そうです。さっきまでいた部屋の契約者です」
看護師はわずかに表情を変えた。
「その人のことを知っているの?」
「知っているんじゃなくて、本人なんです」
「分かったわ。後で先生にも話しましょう」
「分かっていないですよね」
裕司は思わず強い口調で言った。
しかし、声には力がなく、幼い少女が感情的に反発しているようにしか聞こえなかった。
看護師は怒らなかった。
むしろ、裕司を安心させるような声で言った。
「混乱するのは当然よ。でも、ここでは誰もあなたを傷つけないから大丈夫だからね」
「だから、そういうことじゃない」
「今は身体を治すことを優先しましょう」
「俺は混乱していません」
「うん」
「その返事、信じていない人の返事ですよね」
看護師は答えなかった。
代わりに点滴の状態を確認し、機器に表示された数値へ目を向ける。
「先生を呼んでくるから、少し待っていてね」
看護師はそう言い残して、カーテンの向こうへ出ていった。
裕司は遠ざかる足音を聞きながら、掛け物の上で拳を握った。
予想していたことだった。
この姿で沖田裕司だと名乗っても、信じてもらえない。
身体が変わった当初から、その可能性を理解していたからこそ、誰にも知られないように生活してきた。
それでも、実際に自分の言葉をまともに受け取ってもらえないと、想像していた以上に腹が立った。
話の内容を検討される前に、子どもの発言として処理されている。
裕司は目を閉じ、呼吸を整えた。
感情的になれば、余計に信じてもらえなくなる。
自分が本人だと証明するためには、感情ではなく情報を示す必要がある。
パソコンのログインパスワードを答えられる。
仕事の内容も説明できる。
銀行口座や契約しているサービスの情報も知っている。
部屋の収納場所についても、細かなところまで答えられる。
同一人物だと断定できなくても、少なくとも無関係の少女ではないと理解させることはできるはずだった。
*******
しばらくすると、カーテンの向こうから複数の足音が聞こえた。
先ほどの看護師と、眼鏡をかけた男性が入ってくる。
男性は裕司のベッド脇へ置かれた椅子へ腰を下ろした。
「体調はどうかな?」
「さっきよりは楽です」
「喉の痛みはどう?」
「まだ痛いです。息苦しさは少しましになりました」
「吐き気はある?」
「今はありません」
医師は裕司の返答を聞きながら、手元の端末へ入力した。
「倒れていたときは、高い熱と脱水がありました。今は点滴で水分を補っています」
「抗生剤も使っているんですか」
「はい。検査で細菌感染を疑う所見があったので、点滴から入れています」
「ただの風邪じゃない?」
「少なくとも、休んで様子を見ればよい状態ではありませんでした」
医師は簡潔に答えた。
「今は搬送されたときより落ち着いています」
「いつまで点滴をするんですか」
「自分で十分に水分を取れて、熱が安定するまでです」
裕司は点滴の管を見つめた。
水分を補われ、感染に対する治療も始まっている。
それ以上の説明を求める必要はなかった。
「どうして、こんなに悪くなったんでしょうか」
「季節の変わり目は体調を崩しやすいです。室温や湿度の変化もありますし、疲れが重なっていた可能性もあります」
「抵抗力が落ちていた?」
「それも考えられます。ただ、これまでの体調や暮らしが分からないので、今は何とも言えません」
医師はそれ以上踏み込まなかった。
当然だった。
病院が確認できるのは、搬送されてきた現在の裕司だけである。
半年前までは確かに自分は男性だった。
だが医師がそれを前提に診断するはずはなかった。
裕司は目を閉じ、発熱する前の生活を思い返した。
季節が変わり始め、昼と夜の気温差が大きくなっていた。
日中は仕事用の機器から熱が出るため、冷房を弱く入れていた。
夜になると急に冷えたが、空調を切り替えないまま眠ることもあった。
寒さで目を覚まし、温度を上げる。
今度は暑くなり、掛け物を外す。
その繰り返しだった。
以前の感覚で設定すると、現在の身体には合わない。
かといって、現在の身体がどの程度の温度を快適と感じるのかも、裕司にはまだ分からなかった。
喉へ違和感を覚えた朝も、乾燥しているだけだと考えた。
加湿器を動かし、水を飲めば治まると思っていた。
「調整が遅れたのか」
裕司が呟くと、医師が顔を上げた。
「何か思い当たることがある?」
「部屋の温度が安定していませんでした」
「寒い状態が続いていたのかな」
「寒くなったり、暑くなったりしていました。今の身体へ、どう合わせればいいのか分からなくて」
「今の身体?」
医師の視線がわずかに変わった。
「前とは違うからです」
「以前に大きな病気をしたことがあるのかな」
「そういう意味じゃありません」
医師は否定も肯定もしなかった。
「後で、もう少し詳しく聞かせてもらえる?」
「話しても信じないと思います」
「まずは、君が話せることを聞きたいと思っています」
穏やかな返事だった。
しかし、信じるとは言わなかった。
裕司も、それ以上説明しなかった。
季節の変化へ空調の調整が追いつかなかった。
現在の身体でも、病気への耐え方は以前と同じだと考えていた。
高熱が出ても、大人だった頃と同じように一晩眠れば治ると思った。
どこまでが発症に関係したのかは分からない。
ただ、一人で判断し続けたことで、受診が遅れたことだけは確かだった。
「治りますか」
裕司が尋ねる。
「治療には反応しています。このまま熱が下がり、水分も取れるようになれば大丈夫です」
医師はそう答えた後、端末へ目を落とした。
「それから、身体のこととは別に確認したいことがあります」
声の調子がわずかに変わった。
「名前を、もう一度教えてもらえるかな?」
「沖田裕司です」
医師の指が端末の上で止まる。
「漢字は分かる?」
「沖縄の沖に、田んぼの田です。裕は裕福の裕で、司は司るです」
「年齢は?」
「三十五歳です」
医師の手が一瞬止まった。
看護師も裕司の顔を見た。
「三十五歳なんだね」
「そうです」
「生年月日は分かる?」
裕司は自分の生年月日を答えた。
住所も、電話番号も、郵便番号まで正確に伝える。
医師は否定せず、そのまま質問を続けた。
「一緒に住んでいる人はいる?」
「いません。一人暮らしです」
「家族には連絡できるかな?」
「母親は亡くなっています。父親とは連絡を取っていません。祖母はいますけど、遠方です」
「保護者は?」
「いません。俺は成人です」
裕司が答えると、医師は看護師と短く視線を交わした。
その反応を、裕司は見逃さなかった。
「信じていませんよね」
「今は、君が話してくれたことを確認しているところだよ」
「だったら、俺のスマートフォンを持ってきてください。ロックを解除できます。パソコンのパスワードも分かります」
「それは、後で確認しよう」
「いつですか」
「警察の人も来ているから、体調が落ち着いたら一緒に話そうと思っています」
「警察?」
裕司の背中に冷たいものが走った。
「どうして警察が来ているんですか」
医師はすぐには答えなかった。
刺激を与えないよう、言葉を選んでいることが分かる。
「君が倒れていた部屋のことで、確認しなければいけないことがあるんだ」
「あの部屋は俺の部屋です」
「うん。その話も警察の人へ伝えよう」
「何を疑っているんですか」
「今は体調を優先しよう」
「俺には聞く権利があるでしょう」
裕司が声を強めると、喉に痛みが走った。
思わず咳き込む。
看護師が背中へ手を添えようとしたが、裕司は身を引いた。
「大丈夫です」
「無理をしないで」
「何を疑っているのか教えてください」
医師は裕司の様子をしばらく見つめた。
「君が見つかった部屋の契約者は、沖田裕司という成人男性だった」
「だから、俺です」
「室内には、その男性のものと思われる荷物が残されている。ただ、その男性本人は見つかっていない」
「ここにいる」
「それから、君が生活していたと思われる痕跡も見つかっている」
「半年です。身体が変わってから、ずっとあの部屋で暮らしていました」
医師は表情を変えずに話を聞いていた。
信じているからではない。
否定して裕司を刺激しないために、最後まで話させているだけだった。
「警察は、君があの部屋で暮らすことになった事情を調べています」
「事情も何も、俺の部屋だからです」
「誰かに外へ出ないよう言われたことはある?」
「ありません」
「鍵をかけられていた?」
「自分でかけていました」
「家の外へ出ることを止められたことは?」
「ありません。俺が出なかっただけです」
質問の意図が少しずつ見えてきた。
医師は裕司が誰なのかを確かめようとしているのではない。
裕司があの部屋で、誰に何をされていたのかを確認しようとしている。
「監禁を疑っているんですか」
裕司が尋ねると、医師は答えを濁さなかった。
「その可能性も含めて確認しています」
「違います」
「君がそう話していることは分かっているよ」
「違うんです。俺が一人で暮らしていたんです」
「どうして外へ出なかったの?」
「この姿を見られたくなかったからです」
「この姿というのは?」
半年前まで、俺は三十五歳の男だったからです」
医師は黙った。
裕司は自分の呼吸が速くなっていることに気づいた。
落ち着かなければならない。
相手は自分を敵だと思っているわけではない。
むしろ、裕司を被害者だと考えて守ろうとしている。
その善意が、裕司の言葉を否定する方向へ働いているだけだった。
「パソコンを調べてください」
裕司はできる限り声を落ち着かせた。
「あれは俺の仕事用です。ログインパスワードは答えられます。中にあるファイルの内容も説明できます」
「警察が確認することになると思う」
「銀行口座も、取引先も分かります。税金も払っています。この期間に注文した服や家具も、全部俺が選びました」
「分かった」
「また、その返事ですか」
「君の話を否定しているわけではない」
「信じてもいないでしょう」
医師はしばらく沈黙した。
「今の段階では、君が話している内容を、そのまま事実だと判断することはできない」
初めて、遠回しではない答えが返ってきた。
裕司は唇をかんだ。
「それなら、どう判断しているんですか」
「君が何らかの事情で、沖田裕司という男性について詳しく知っている可能性があると考えています」
「俺が本人だから知っているんです」
「その可能性について、今ここで結論を出すことはできません」
「可能性として考えているんですか」
医師はすぐには答えなかった。
沈黙だけで、十分だった。
考えていない。
三十五歳の男性が十歳ほどの少女になったという可能性は、現実的な検討対象には入っていない。
医師や看護師が冷たいわけではない。
普通に考えれば、当然の判断だった。
裕司自身も、立場が逆なら信じないだろう。
それでも、自分の身に起きていることは事実だった。
「部屋に戻らせてください」
「それは今すぐにはできません」
「どうしてですか」
「君の安全を確認する必要があるからです」
「安全です。半年間、一人で暮らしていました」
「その間、学校には行っていないんだね」
「行く必要がありません」
「病院にも来ていない」
「先日まで健康だったからです」
「外出については、警察から改めて確認されると思います」
医師は、裕司がほとんど外出していなかったと断定しなかった。
聞き取りの状況では、そこまで判断できないのだろう。
それでも、見た目が十歳ほどの少女が学校へ通わず、病院にもかからず、成人男性名義の部屋で生活していたという事実だけで、十分に異常だった。
「服も全部、自分で買いました」
裕司は言った。
「通販の履歴を見れば分かります。最初の日から、サイズを測って注文しました」
「沖田裕司さんの名義で?」
「俺のアカウントだから当然でしょう」
医師はまた端末へ何かを入力した。
裕司は、自分の言葉が疑いを深めていることへ気づいた。
成人男性の名義で、少女の衣服や子ども向けの生活用品が継続的に購入されている。
普通に考えれば、少女のために成人男性が用意したと判断される。
裕司自身が購入したという説明も、周囲にとっては別の意味へ置き換えられる。
「もういいです」
裕司は顔をそむけた。
これ以上何を話しても、自分の説明が別の意味へ変換されていく。
「少し休みましょう」
看護師が言った。
「警察の人との話も、もう少し体調が落ち着いてからにできるから」
「話しても同じでしょう」
「そんなことはないわ」
「俺が何を言っても、沖田裕司に教え込まれたと思うんじゃないですか」
看護師は答えなかった。
その沈黙が答えになっていた。
「スマートフォンだけでも返してください」
「確認してみるわね」
「今、確認してください」
「分かったわ」
看護師は困ったように答え、医師とともにカーテンの向こうへ出ていった。
******
裕司は一人になると、天井を見上げた。
声を上げて反論する力は残っていなかった。
病院へ来れば、少なくとも熱については治療してもらえる。
そう考えていた。
実際、治療は受けられた。
高熱は下がり、水分も補給されている。
点滴から投与されている抗生剤にも、今のところ悪い反応は出ていない。
その代わり、自分の生活へ戻る道が閉ざされようとしていた。
裕司は左手で点滴の管へ触れた。
これを外して病院から出ることも、一瞬だけ考えた。
しかし、病棟の場所も出口も分からない。身体にはまだ熱が残っており、一人で歩ける状態でもなかった。
仮に病院を出られたとしても、自宅の鍵やスマートフォンは預けられている。
自力で帰る手段はない。
裕司は初めて、自分の行動を他人に管理される状況に置かれていた。
入院するかどうかも、自宅へ帰るかどうかも、自分一人では決められない。
三十年以上、自分のことは自分で決めてきた。
仕事も、住む場所も、誰と付き合うかも、すべて自分で選んできた。
今は、自分が何者なのかという最も基本的な事実さえ、他人の判断に委ねられている。
裕司は掛け物を握りしめた。
*********
しばらくすると、カーテンの向こうで話し声が聞こえた。
先ほどの看護師と、別の誰かが話している。
内容までは聞き取れなかったが、沖田という名前だけは何度か耳に入った。
やがてカーテンが開き、看護師が戻ってきた。
その後ろには、スーツ姿の女性が二人立っていた。
どちらも首から身分証を下げている。
一人は四十代ほどで、短く整えた髪に濃い色のスーツを着ていた。
もう一人はそれより若く、手帳を胸元へ抱えている。
二人とも女性警察官だった。
そのことに気づいた瞬間、裕司は掛け物の下で身体をこわばらせた。
偶然、女性警察官が二人そろったとは思えなかった。
裕司が少女に見えるからだ。
成人男性の部屋で発見された、身元の分からない十歳ほどの少女。
監禁や虐待を受けていた可能性がある。
男性を警戒するかもしれない。
そのように考えたうえで、女性だけを寄こしたのだろう。
裕司への配慮だった。
それが分かるからこそ、身構えずにはいられなかった。
警察は、すでに少女を沖田裕司として見ていない。
事情を聞く前から、成人男性の部屋で保護された少女として扱っている。
二人の穏やかな表情や、必要以上に距離を詰めない立ち位置まで、その前提に基づいているように見えた。
「体調はどう?」
看護師が尋ねた。
「さっきと同じです」
「こちらは警察の方よ。無理のない範囲で、少しお話を聞いても大丈夫?」
「二人とも女性なんですね」
裕司が言うと、三人の間に短い沈黙が生まれた。
年上の女性警察官が、わずかに表情を動かした。
「はい。何か気になりますか?」
「俺が女の子に見えるからですか」
看護師が困ったように裕司を見た。
女性警察官は、すぐには否定しなかった。
「できるだけ安心して話してもらえるように考えました」
やはり配慮だった。
裕司の予想は当たっていた。
「俺が男を怖がっていると思ったんですか」
「そう決めつけているわけではありません」
「でも、そういう可能性を考えたから、女性二人で来たんでしょう」
若い方の警察官が、胸元の手帳を持ち直した。
裕司は、その小さな動きを見逃さなかった。
警察の対応としては、おそらく正しい。
保護された少女が、成人男性から何らかの被害を受けていた可能性を考えるなら、女性だけで話を聞こうとするのは自然だった。
その慎重さを非難することはできない。
しかし、正しい配慮であるほど、裕司の説明が信じられていないことを示していた。
「分かりました」
裕司は短く答えた。
納得したのではない。
警察が現在の自分をどのように扱っているのか、理解しただけだった。
年上の女性警察官が一歩だけ前へ出る。
それでも、ベッドのすぐそばまでは来なかった。
「体調の悪いところ、申し訳ありません。確認したいことがいくつかあります。つらくなったら、その時点で中断します」
「嫌だと言ったら、帰ってくれるんですか」
看護師は返事に詰まった。
女性警察官は裕司から目をそらさなかった。
「今日は無理に話を進めません。ただ、確認そのものは必要です」
遠回しではあるが、拒否しても終わらないという意味だった。
裕司は二人の顔を順番に見た。
優しい口調。
慎重に保たれた距離。
女性だけの聞き取り。
すべて、裕司を怖がらせないための配慮だった。
しかし裕司には、その配慮自体が逃げ道を塞ぐものに感じられた。
自分は怖がっていない。
傷つけられてもいない。
監禁もされていない。
それでも周囲は、裕司が恐怖によって本当のことを話せない可能性まで考えるだろう。
否定すれば、成人男性をかばっていると受け取られるかもしれない。
落ち着いて話せば、そのように話すよう教え込まれたと考えられるかもしれない。
感情的になれば、被害を受けた子どもの混乱として処理されるかもしれない。
どのように振る舞っても、沖田裕司本人という結論へは届かない。
裕司は掛け物の上で両手を組んだ。
指先が落ち着かず、親指同士を擦り合わせそうになる。
それに気づき、両手へ力を込めた。
「分かりました。話します」
「ありがとう」
年上の女性警察官は、ベッドから少し離れた椅子へ腰を下ろした。
若い警察官は、その斜め後ろへ立ったままだった。
二人で正面から囲まないことまで、配慮しているように見えた。
裕司はますます警戒した。
「まず、あなたのことを何と呼べばいいかな?」
「沖田裕司です」
「……では、沖田さんと呼んでもいいですか?」
「はい」
女性警察官は、裕司の名乗りを否定しなかった。
そのことにわずかな希望を感じたが、相手の静かな表情を見て、すぐに考え直した。
沖田裕司本人だと認めたわけではない。
少女がそう名乗っているから、ひとまずその呼び方を使うだけだった。
「沖田さんは、あの部屋で暮らしていたんですね」
「ずっと住んでいます。契約したのも俺です」
「部屋には、あなたが使っていたと思われる衣服や日用品がありました」
「全部、俺の物です」
「大人の男性用の衣服と、あなたの身体に合う衣服が、分けて収納されていましたね」
「前に着ていた服と、今着ている服です」
若い警察官が手帳へ書き込む。
年上の警察官は、裕司の表情を静かに見ていた。
「小さい椅子や踏み台、浴室用品も、あなたが使っていたのかな?」
「そうです。今の身体では、前からあった物を使えなかったので買いました」
「誰が買ったんですか?」
「俺です。通販で注文しました」
「沖田裕司さんのアカウントを使って?」
「俺のアカウントですから」
年上の警察官は反論しなかった。
「室内には、身体の記録がありました」
裕司の指が止まった。
「パソコンを見たんですか」
「画面がついたままになっていて、表が表示されていました。詳しい内容には、まだ触れていません」
倒れる前、裕司は体温を入力した後、パソコンを閉じる余裕がなかった。
表計算ソフトには、少女になった日を起点として、毎日の身長、体重、体温、食事量、睡眠時間を記録している。
経過日数も自動で表示されていた。
「百六十五日前から記録しています」
裕司は自分から答えた。
「その日、身体が今の姿へ変わりました」
「百六十五日というのは、画面に表示されていた経過日数ですね」
「そうです」
「毎日、あなたが入力していたんですか?」
「はい」
「体温や体重だけではなく、食事や睡眠についても?」
「何が起きているのか分からなかったので、変化がないか確認するために記録していました」
年上の警察官は短くうなずいた。
百六十五日という数字の根拠は、これで明確になった。
しかし、その期間に裕司がどのように生活していたかまで、警察が把握しているわけではない。
警察が確認したのは、部屋の中に長期間の生活痕跡があることだけだった。
「部屋の契約者である沖田裕司さんとは、どのような関係ですか?」
「本人です」
「同じ名前という意味かな?」
「違います」
裕司は声を強めかけ、喉の痛みに顔をしかめた。
「俺が、あなたたちの捜している沖田裕司です」
「分かりました」
「分かっていないでしょう」
裕司は低く言った。
少女の声では、低く押さえたつもりでも限界があった。
「今の返事も、俺の話を事実だと認めたわけではありませんよね」
女性警察官は、ごまかさなかった。
「今は、あなたがそう話していることを受け止めています」
「それだけですか」
「確認できることを、一つずつ確認します」
丁寧な返事だった。
しかし、裕司の言葉を信じるとは言わなかった。
「パソコンのパスワードを言います」
「分かりました。教えてもらえますか」
年上の警察官は、すぐに遮らなかった。
裕司は仕事用パソコンのログインパスワードを伝えた。
英字の大文字と小文字。
数字。
記号。
入力する順番まで正確に説明する。
若い警察官が手帳へ書き留めた。
「デスクトップの右下に、作業中の案件ごとにフォルダがあります。そのうち青いアイコンのフォルダは暗号化されています。解除用のパスフレーズも答えられます」
「どうして知っているんですか?」
年上の警察官が尋ねた。
「俺が設定したからです」
「ほかに、そのパスワードを知っている人は?」
「いません」
「誰かが入力しているところを見たことはありますか?」
「自分が入力する以外に、見る機会なんてありません」
裕司は苛立ちを抑えながら答えた。
女性警察官は、声を荒らげない。
反論もしない。
ただ、裕司が沖田裕司ではない可能性を前提に、別の説明を一つずつ確かめている。
パスワードを教えられたのではないか。
入力しているところを見たのではないか。
知識を与えられたのではないか。
裕司が証拠だと思って差し出す情報は、別の疑いへ置き換えられていった。
「その期間、部屋の外へはどれくらい出ましたか?」
「ゴミを出すときには出ました」
「それ以外には?」
「一度、近所の店へ買い物に行きました」
「一度だけですか?」
裕司は少し考えた。
集積所までのゴミ出しを外出へ数えるなら、完全に一度ではない。
建物の敷地を離れた回数としては、買い物へ行った日だけだった。
「建物から離れたのは、その一度だけです」
「どうして、その後は出なかったんですか?」
「警察官に声をかけられたからです」
二人の表情がわずかに変わった。
「そのときのことを話せますか?」
「身体が変わってから一か月くらいの頃です。今の身体にも慣れてきたので、近所の店までなら大丈夫だと思って出ました」
「何を買いに?」
「電池です」
「一人で?」
「はい」
「警察官からは、何を聞かれましたか?」
「学校は休みなのかとか、家はどこなのかとか、保護者へ連絡できるのかとかです」
「何と答えましたか?」
「家族の使いで買い物へ来たと言いました」
「どうして、そのように答えたんですか?」
「本当のことを言っても、信じてもらえないと思ったからです」
「本当のことというのは?」
「俺が沖田裕司だということです」
若い警察官のペンが、手帳の上で動く。
「その後、外へ出るのをやめたんですね」
「やめたというより、出られなくなりました」
「誰かに止められたわけではなく?」
「誰にも止められていません」
「怖かったんですか?」
年上の警察官の声が、少し柔らかくなった。
裕司は、その変化に身構えた。
質問そのものは正しい。
しかし、裕司が警察を怖がる少女として理解されれば、それも監禁や虐待を疑う材料になりかねない。
「また声をかけられて、身元を確認されるのが怖かったんです」
「沖田裕司さんに見つかることが怖かったわけではない?」
「だから、その沖田裕司が俺です」
「分かりました。質問を変えます。あの部屋にいる誰かから、外へ出るなと言われたことはありますか?」
「ありません」
「警察に見つかったら困ると言われたことは?」
「ありません」
「誰かと連絡を取ることを禁止されていましたか?」
「されていません」
「スマートフォンは自由に使えましたか?」
「俺のスマートフォンです」
「玄関の鍵は、自分で開けられましたか?」
「開けられます。倒れたときも、自分で開けました」
女性警察官は、裕司の答えを一つずつ確認していった。
警察が知っているのは、部屋の中に長期間の生活痕跡があったことだけだった。
小さな服。
現在の身体に合わせた家具。
日付の入った身体記録。
通販の段ボール箱。
配食サービスの容器。
成人男性の物と、少女が使ったと思われる物が、同じ部屋へ並べられていること。
その痕跡だけでは、誰がどれだけ外出したかを正確に判断することはできない。
だから警察は、裕司へ尋ねている。
裕司の答えと、部屋に残された物を照らし合わせようとしていた。
「管理人は、あなたが住んでいることを知らなかったそうです」
年上の警察官が言った。
「話していませんから」
「近くの部屋の人も、時々子どもの声を聞いたことはあるそうですが、姿を見た人はほとんどいませんでした」
裕司は、配達員への返事や、室内で独り言を言った場面を思い出した。
玄関や壁の向こうへ、少女の声が漏れていたのかもしれない。
「別の階に住む女性が、ゴミを出していた金髪の女の子へ一度声をかけたと話しています。あなたのことですか?」
「たぶん、そうです」
「その人には、家の手伝いだと答えたそうですね」
「本当のことを説明できなかったからです」
「そのほかに、住民と話したことは?」
「ありません」
「食事や日用品は、どうしていましたか?」
「配食サービスと通販です」
「荷物は誰が受け取っていましたか?」
「置き配にして、自分で取り込んでいました」
「対面では受け取らなかった?」
「今の姿を見られたくなかったので」
若い警察官が手帳へ書き込む。
通販の利用履歴。
配食サービスの注文履歴。
室内へ残された段ボール箱と容器。
管理人や近隣住民の証言。
それらは、裕司が長期間あの部屋で暮らしていた可能性を示している。
ただし、自主的な生活だったのか、誰かに隠されていたのかまでは証明しない。
監禁の証拠にもならなければ、監禁されていなかった証拠にもならなかった。
「外へ出ようと思えば、いつでも出られたんですね?」
「はい」
「それでも、出なかった」
「一度出て、警察に声をかけられました。その後は出るのが怖くなったんです」
「誰かに見つかることが怖かった?」
「俺が何者なのか説明できないことが怖かったんです」
裕司は女性警察官を見た。
「今、実際にそうなっているでしょう」
年上の警察官は、すぐには返さなかった。
穏やかな視線のまま、裕司の言葉を受け止めている。
その態度にも、裕司は配慮を感じた。
そして、その配慮が、やはり自分を保護される側へ押し込んでいるように思えた。
「あなたたちは、最初から答えを決めているんでしょう」
年上の警察官が、わずかに姿勢を正した。
「どういう意味ですか?」
「三十代の男が、十歳くらいの女の子になった。そんなことはあり得ないと思っている」
二人の警察官は黙っている。
「だから、俺が何を言っても、沖田裕司に監禁されていた子どもとしてしか見ない」
「私たちは、現時点で考えられる可能性を確認しています」
「俺が沖田裕司だという可能性は?」
年上の警察官はすぐには答えなかった。
裕司は小さく笑った。
「考えていないじゃないですか」
「現在分かっている事実から判断する必要があります」
「その事実を話している本人の言葉は無視するんですか」
「無視しているわけではありません」
「では、信じてください」
「今は、信じるか信じないかを決める段階ではありません」
「便利な言い方ですね」
裕司は枕へ頭を戻した。
意識が再びぼんやりし始めていた。
熱が上がっているのか、話し続けたことで疲れたのかは分からない。
若い警察官が裕司の顔を見て、年上の警察官へ小さく声をかけた。
「今日は、ここまでにした方がいいと思います」
年上の警察官もうなずいた。
「体調が落ち着いたら、改めて話を聞かせてください」
「何度聞かれても、答えは同じです」
「分かっています」
二人は裕司へ軽く頭を下げ、カーテンの外へ出ていった。
看護師は点滴を確認してから、裕司へ言った。
「少し休みましょう」
「俺のスマートフォンは?」
「先生と確認して、持ってこられるか聞いてみるから」
「いつですか」
「できるだけ早く確認するわ」
看護師はそう答え、カーテンを閉めた。
**********
その日の夕方には、裕司の熱は三十七度台まで下がっていた。
持続点滴によって口の渇きと頭痛も軽くなり、少量であれば食事も取れるようになった。
抗生剤についても、今のところ治療経過に問題はないと医師から聞かされた。
身体が回復していることは、裕司にも分かった。
熱でぼやけていた思考が明瞭になるほど、自分の置かれた状況もはっきり見えてくる。
病院は裕司の感染症を治療している。
看護師も医師も、裕司の苦痛を減らそうとしている。
警察も、部屋で発見された少女を守ろうとしている。
誰も裕司を傷つけようとはしていない。
それでも、その善意と配慮のすべてが、裕司を沖田裕司として自宅へ帰すことを妨げていた。
裕司は眠るつもりもないまま、目を閉じた。
意識がはっきりしているうちに、これから何をするべきか考える必要がある。
パソコンのパスワードが正しいことを確認すれば、少なくとも自分が沖田裕司と深く関係していることは分かる。
銀行口座や仕事の資料についても説明できる。
取引先へ連絡し、専門的な内容を話せば、裕司と同じ知識を持っていると証明できる。
しかし、どれも同一人物である決定的な証拠にはならない。
知識を与えられた可能性や、情報を盗み見た可能性を完全には否定できないからだった。
裕司は自分自身を証明する方法を考え続けた。
指紋が同じかもしれない。
歯の治療歴が一致する可能性もある。
しかし、身体が完全に変化している以上、指紋や歯まで以前と同じだという保証はなかった。
DNAについても同じだった。
外見的な特徴まで変わっている身体から、以前の自分と同じ結果が出るとは思えない。
仮に一致しなければ、それこそ沖田裕司ではないという証拠にされる。
記憶だけでは、自分を証明できない。
長年積み上げてきた知識も、技術も、生活の記録も、自分の所有物であると示せない。
裕司は初めて、その事実を理解した。
それまで、自分が自分であることを疑った経験などなかった。
免許証を見せれば名前が分かり、保険証を出せば年齢も確認された。
契約書へ署名し、暗証番号を入力すれば、自分の財産を自由に扱うことができた。
誰かに自分が沖田裕司だと証明する必要など、考えたこともなかった。
今は、何を知っていても、何を覚えていても足りなかった。
社会にとって人間は、記憶だけで成立しているわけではない。
顔や身体、記録や証明書が結びついて、初めて一人の人物として扱われる。
裕司は、そのつながりをすべて失っていた。
***********
カーテンの外から、誰かの声が聞こえた。
「児童相談所の方にも連絡しています」
裕司は目を開けた。
声はすぐに遠ざかり、それ以上の会話は聞き取れなかった。
児童相談所という言葉だけが、耳の奥に残った。
「待てよ……」
裕司は身体を起こそうとした。
点滴の管が腕を引き、頭にも痛みが走った。
それでもナースコールへ手を伸ばす。
ボタンを押してから間もなく、看護師がカーテンを開けた。
「どうしたの?」
「今、誰か児童相談所って言いましたよね」
看護師の表情がわずかに固くなった。
「誰かが来るんですか」
「今後のことを相談するために、職員の方へ連絡しているの」
「必要ありません」
「それは、私たちだけでは決められないのよ」
「俺は家に帰ります」
「今すぐには帰れないわ」
「熱が下がったら帰れますよね」
看護師は答えなかった。
「帰れますよね」
裕司はもう一度尋ねた。
「体調だけではなく、暮らしていた環境の安全も確認する必要があるの」
「あの部屋は安全です」
「それも含めて、これから確認することになるわ」
「俺をどこへ連れていくつもりですか」
「まだ何も決まっていないから、今は身体を休めて」
看護師は言葉を選びながら説明した。
裕司を不安にさせないようにしていることは分かった。
しかし、肝心なことには答えていない。
裕司は掛け物を強く握った。
「俺の意思は関係ないんですか」
「関係ないわけじゃないのよ」
「だったら、帰ると言っています」
「ごめんなさい。今はそれを認めることができないの」
看護師の声には、申し訳なさがにじんでいた。
それでも結論は変わらない。
裕司は自宅へ戻れない。
警察や病院にとって、裕司が暮らしていた部屋は事件現場になり得る場所であり、裕司自身はそこで発見された子どもだった。
裕司の意思を尊重して、そのまま帰せる場所ではなかった。
百六十五日、裕司は一人で生活してきた。
自分で金を管理し、仕事を続け、必要な物を買い、食事も用意してきた。
ところが今は、スマートフォンを返してもらうことすら自分では決められない。
家へ帰ることもできない。
誰へ連絡するかについても、周囲の許可が必要になる。
裕司は唇をかみ、看護師から顔をそらした。
「分かりました」
納得したわけではなかった。
これ以上話しても、自分の意思では状況を変えられないと理解しただけだった。
看護師は何か言いかけたが、結局言葉にせず、点滴の残量を確認してから出ていった。
カーテンが閉じる。
裕司は天井を見上げた。
百六十五日間、誰にも見つからないように暮らしてきた。
その生活には不自由もあったが、少なくとも自分のことは自分で決められた。
何を着るのか。
何を食べるのか。
いつ仕事をするか。
すべて裕司が選んでいた。
病院へ運ばれてから、裕司の身体は治り始めている。
それと引き換えに、沖田裕司として持っていた自由は急速に失われようとしていた。
身体が変わった日から恐れていた事態が、とうとう現実になった。
裕司は、自分が誰であるかを説明できる。
しかし、それを証明することだけができなかった。




