第五話 開かなかった扉
次に目を覚ましたとき、沖田裕司は自分がどれほど眠っていたのか分からなかった。
枕元へ置いたスマートフォンを探そうとしたが、腕が思うように動かなかった。
布団の外へ右手を出すだけで、ひどく身体が重く感じられる。
額から流れた汗が、こめかみを伝って枕へ染み込んでいた。
喉も焼けるように痛んでいる。
「水……」
口から出た声は、自分でも聞き取れないほどかすれていた。
裕司は手探りでスマートフォンを見つけ、画面を点灯させた。
時刻は午前二時十三分だった。
夕方に目を覚まして体温を測った後、もう一度眠ったらしい。
途中で水を飲んだような記憶もあったが、それが本当に起きた出来事なのか、熱に浮かされて見た夢なのかは判然としなかった。
画面にはいくつかの通知が表示されていた。
取引先から届いたメールと、ハツからのメッセージが一件ずつあった。
開いて内容を確認する気力はなかった。
まず水を飲まなければならない。
そう考えて身体を起こそうとしたが、背中へ力を入れた瞬間、頭の奥で鈍い痛みが広がった。
「うっ……」
裕司は枕へ身体を戻した。
目を閉じると、身体がゆっくりと傾いていくように感じる。
実際には横になっているだけなのに、自分の周囲だけが回転しているようだった。
喉の渇きは収まらなかった。
このまま眠れば、さらに脱水が進むかもしれない。
裕司は歯を食いしばり、もう一度身体を起こした。
布団を払いのけ、ベッドの端へ移動する。
足を床へ下ろした瞬間、冷たさが足裏から伝わってきた。
立ち上がろうとすると、膝へ力が入らなかった。
裕司はベッドの縁へ両手をつき、しばらく姿勢を保った。
呼吸を整えながら、少しずつ足へ力を入れていく。
どうにか立つことはできたが、視界が暗くなり、身体が前へ倒れそうになった。
裕司は壁へ手をついた。
「大丈夫だ」
声に出してみても、説得力はなかった。
壁を支えにしながら、寝室からキッチンへ向かう。
数歩進むたびに立ち止まり、呼吸を整えなければならなかった。
普段なら何も意識せずに歩ける距離が、今はひどく長く感じられる。
ようやく冷蔵庫へたどり着き、下段から水の入ったペットボトルを取り出した。
キャップを回そうとしたが、小さな手に力が入らない。
裕司は何度も握り直した。
手のひらが汗で滑り、キャップはわずかに動くだけだった。
「開けよ……」
苛立ちながら力を込めると、ようやくキャップが緩んだ。
裕司はその場へ座り込み、ペットボトルへ直接口をつけた。
一度に飲むと吐き気が起こりそうだったため、少しずつ喉へ流し込む。
冷たい水が痛んだ喉へ触れた。
飲み込むたびに痛みを感じたが、それでも身体が水を求めていた。
半分ほど飲んだところで、裕司はペットボトルを床へ置いた。
しばらく冷蔵庫へ背中を預けて座っていた。
身体は熱いのに、指先だけが冷えている。
息を吸うと胸の奥が重く、何度も乾いた咳が出た。
これは一晩眠れば治る程度の風邪ではないかもしれない。
裕司は初めて、そう考えた。
壁へ手をついて立ち上がり、ゆっくりと洗面所へ向かう。
体温計を手に取り、脇へ挟んだ。
電子音が鳴る。
表示された数字は、三十九度六分だった。
「上がってるじゃないか……」
昼には三十七度二分だった。
夕方には三十八度四分まで上がった。
そして今は、四十度に近づいている。
現在の身体が十歳前後の子供と同じであるなら、このまま放置するのは危険かもしれない。
裕司は体温計を握ったまま寝室へ戻った。
市販薬をもう一度飲むべきか考えたが、服用してからどれほど時間が経ったのか、正確には覚えていなかった。
スマートフォンの記録を確認すれば分かる。
裕司は服用した時刻を記録していた。
しかし、眠る直前に飲んだ薬が効かなかったのであれば、同じ薬を追加しても意味がないように思えた。
「病院……」
口にした瞬間、胃の辺りが重くなった。
身体が変化してから半年間、裕司は病院へ行かなかった。
健康だったから必要がなかった。
市販薬で済む程度の体調不良なら、自分で対処できると考えていた。
しかし、今は医師に診てもらった方がよい。
裕司はスマートフォンを開き、近隣の医療機関を検索した。
夜間診療を行っている病院が、タクシーなら十分ほどの場所にあった。
診察時間内でもあり、救急外来も受け付けている。
画面には電話番号が表示されていた。
裕司は発信ボタンへ指を近づけた。
そのまま、動きを止める。
病院へ電話をして、何と説明すればよいのだろう。
十歳ほどの少女が一人で高熱を出していると伝えれば、保護者について尋ねられる。
自分は成人男性だと説明しても、信じてもらえない。
仮に電話では受診を認められたとしても、病院へ行けば身元確認を求められるだろう。
裕司は財布を取り出した。
中には現金とクレジットカードのほか、健康保険証、運転免許証、マイナンバーカードが入っている。
どの証明書にも、沖田裕司の名前が記載されていた。
年齢は三十五歳、性別は男性となっている。
運転免許証には、変化前の裕司の顔写真が載っていた。
短い黒髪と、少し疲れた表情をした日本人男性が写っている。
裕司は免許証の写真と、スマートフォンの黒い画面へうっすら映る現在の顔を見比べた。
共通点は何一つなかった。
顔も違う。
年齢も違う。
性別も違う。
日本人だった頃の特徴さえ、現在の身体には残っていない。
この保険証を受付へ出せば、その場で不正使用を疑われるかもしれない。
裕司は身分証を持ったまま、ベッドの端へ腰を下ろした。
保険証が使えなくても、医療費を全額支払えば受診できるのではないかとも考えた。
金はある。
財布の中にも現金が入っている。
クレジットカードも使えるはずだった。
しかし、支払いの問題だけでは済まない。
子供が一人で高熱を出し、成人男性名義のカードを持って病院へ来れば、事情を尋ねられる。
連絡先や保護者を求められるだろう。
警察や児童相談所へ連絡される可能性もあった。
そうなれば、自宅へ戻れなくなるかもしれない。
仕事も続けられなくなる。
裕司は半年かけて守ってきた生活を、数時間のうちに失う可能性があった。
「でも、このままじゃ……」
言葉の続きを口にする前に、咳が出た。
裕司は身体を折り曲げ、何度もせき込んだ。
呼吸を整えようとしても、うまく息を吸えない。
胸の奥に重さが残り、身体を起こしているだけでもつらかった。
命と現在の生活を比較するべきではない。
そんなことは裕司自身にも分かっていた。
それでも、半年間隠してきた事実を自分から明かすことには強い恐怖があった。
病院へ行けば、ただ診察を受けて帰るだけでは済まない。
自分が沖田裕司であることを説明しなければならない。
誰にも信じてもらえず、身元不明の少女として扱われる可能性が高い。
裕司はスマートフォンの連絡先を開いた。
病院へ行く前に、誰かへ事情を説明した方がよいかもしれない。
少なくとも、現在の自分が一人で暮らしていたことを知っている相手がいれば、話を聞いてもらえる可能性がある。
連絡先には、取引先の担当者や、以前仕事を請け負った会社の名前が並んでいた。
数年間付き合いのある取引先もある。
しかし、誰も裕司の私生活を知らなかった。
仕事上の能力について証言することはできても、金髪の少女が沖田裕司本人だとは認められないだろう。
そもそも、仕事相手へ深夜に電話をかけて、少女になったから助けてほしいと頼むことなどできなかった。
裕司は連絡先を下へ送っていった。
母親の名前は残っていない。
沖田しのぶの電話番号は、亡くなった後に解約されている。
父親の近藤勇一の番号は登録されていた。
しのぶの葬儀以来、一度も使っていない。
裕司は勇一の名前を見つめた。
今さら助けを求めたところで、信じてもらえるとは思えなかった。
勇一にとって、裕司は三十五歳の息子である。
電話口から少女の声で名乗っても、悪質ないたずらだと判断するだろう。
仮に信じてもらえたとしても、アキやユキと暮らしている勇一の家庭へ、自分の問題を持ち込みたくなかった。
何より、母親の葬儀で追い返して以来、一度も連絡を取っていない父親へ、今になって助けを求めることができなかった。
裕司は勇一の名前を通り過ぎた。
その下に、近藤ハツの名前があった。
裕司は指を止めた。
昨日もメッセージが届いている。
最近あまり電話できていないが、元気にしているのかと尋ねられた。
裕司は元気だと答えた。
仕事が忙しいだけで、心配しなくてよいと伝えた。
あれから、まだ一日も経っていない。
電話をかけて、実は半年ほど前から金髪の少女になっていて、今は四十度近い熱があると説明するのか。
ハツは信じないかもしれない。
混乱するかもしれない。
それでも救急車を呼んでくれる可能性はある。
裕司は発信ボタンへ指を置いた。
押せばよい。
言葉がうまく出なくても、助けてほしいとだけ伝えればよい。
しかし、指に力が入らなかった。
半年間黙っていたことを、どう説明すればよいのか分からない。
なぜすぐに連絡しなかったのかと尋ねられるだろう。
信じてもらえないと思ったからだと答えるのか。
一人で何とかできると思ったからだと言うのか。
どちらも本当だった。
同時に、今になって助けを求めることへの気まずさを隠す理由でもあった。
「ばあちゃん……」
裕司は小さく呼んだ。
発信ボタンを押す前に、画面が暗くなった。
操作が途切れたため、スマートフォンが自動的に画面を消したらしい。
暗い画面には、熱で赤くなった少女の顔が映っていた。
裕司は結局、電話をかけなかった。
ハツは遠方にいる。
今すぐ来られるわけではない。
深夜に高齢の祖母を混乱させるより、自分で救急車を呼んだ方が早い。
そう考えることで、連絡しなかった判断を正当化した。
裕司は救急相談へ電話をかけようとした。
しかし、電話口で事情を説明する場面を想像すると、指が止まった。
年齢は何歳かと聞かれる。
三十代だと答えれば、声との違いを不審に思われる。
十歳だと答えれば、本当の自分を否定することになる。
家族はいるかと尋ねられる。
保護者はいるかと聞かれる。
住所と名前を答えれば、部屋の契約者との関係について確認される。
説明できない質問が次々に浮かんだ。
裕司は通話画面を閉じた。
「朝になれば、下がるかもしれない」
自分でも、根拠のない判断だと分かっていた。
それでも今すぐ誰かに知られるより、あと数時間だけ様子を見たかった。
裕司は追加で薬を飲まず、水だけを飲んで横になった。
眠りは浅かった。
汗をかいて目を覚まし、寒気に震えて布団を引き寄せる。
暑さに耐えられなくなって布団を押しのけると、すぐに身体が冷えて再び引き寄せた。
何度同じことを繰り返したのか分からない。
喉の痛みは強くなり、呼吸をするだけでも乾いた空気が刺さるように感じられた。
夜が明ける頃には、眠っているのか起きているのかも分からなくなっていた。
カーテンの隙間から光が差し込み、部屋の輪郭が少しずつ見えるようになった。
裕司は目を開けた。
身体の熱は下がっていなかった。
むしろ、夜中よりも悪化しているように感じた。
枕元のスマートフォンを手に取る。
時刻は午前六時四十八分だった。
画面には取引先から届いたメールの通知が残っている。
裕司は指を動かし、メールを開いた。
『昨日は体調が優れないなか、ご対応いただきありがとうございました。本日の作業については、こちらで調整しますので、無理をなさらずお休みください』
気遣う言葉が並んでいた。
裕司は返事を書こうとした。
『あいあとうざいます こふはやうませえいたきます』
そこまで入力したが、誤字脱字がいくつもあった。
指先が震え、狙った文字を押すことができない。
何度か修正し、ようやく文章を整えて送信した。
仕事は休めた。
それでも体調が回復するわけではない。
裕司は体温計を取りに行こうとした。
ベッドから足を下ろし、床へ立つ。
その瞬間、膝が折れた。
裕司はベッドへ片手をつき、どうにか転倒を防いだ。
視界の端が暗くなり、耳の奥で低い音が鳴っている。
身体を起こしていることができず、裕司は床へ座り込んだ。
このままではまずい。
今度こそ、その考えをごまかせなかった。
病院へ行かなければならない。
身分証が使えないとしても、事情を説明できないとしても、今は治療を優先するしかない。
裕司は床を這うようにして洗面所へ向かった。
棚から体温計を取り出し、その場へ座り込んで測定する。
電子音が鳴った。
表示された数字は四十度一分だった。
裕司は体温計を見つめた。
数字を読み間違えたのではないかと思い、もう一度測ろうとした。
しかし、同じ姿勢を続けるだけでもつらく、指先から体温計が滑り落ちた。
床へ落ちた体温計が、乾いた音を立てる。
「病院に行かないと……」
ようやく裕司は決断した。
救急車を呼ぶべきかもしれない。
しかし、自分で外へ出られるなら、タクシーを使った方がよい。
救急車を呼べば、救急隊員が部屋へ入ってくる。
そうなれば、この部屋と少女の関係を最初から疑われる。
タクシーなら、客として病院まで運んでもらえる。
受付で何を聞かれるかは、そのとき考えればよい。
裕司はそう判断し、寝室へ戻った。
部屋着のままでは外へ出られない。
クローゼットを開け、身体に合う服を取り出す。
白いシャツを選びかけたが、着替えに時間がかかる。
裕司は頭からかぶれる黒いカットソーと、紺色のパンツを選んだ。
上着には、灰色のパーカーを着る。
髪を整える余裕はなかった。
それでも顔へかかれば邪魔になるため、ゴムで後ろへ一つにまとめた。
一度目はうまく結べず、毛束が途中で崩れた。
「くそ……」
もう一度やり直そうとしたが、両腕を上げ続けることができない。
裕司は髪を肩の横へ寄せ、低い位置で適当に結んだ。
鏡を見る。
顔は赤く、目の下にはうっすらと影ができていた。
金髪も整っておらず、普段の裕司であれば外へ出たくないと思うような状態だった。
それでも今は、見た目へこだわっている場合ではない。
裕司は財布をもう一度確認した。
一度は使えないと考えた保険証を、裕司は財布から抜こうとした。
しかし、途中で手を止めた。
何も持たずに病院へ行けば、完全な身元不明の子どもとして扱われる。
保険証を持っていけば、沖田裕司との関係を疑われる。
どちらを選んでも問題は起きる。
裕司は結局、保険証を財布へ戻した。
証明にはならなくても、住所や連絡先を確認する手がかりにはなるかもしれない。
スマートフォンもポケットへ入れる。
玄関までの距離が、これまでで最も長く感じられた。
裕司は壁や家具へ手をつきながら、一歩ずつ進んだ。
寝室を出る。
仕事部屋の前を通る。
半年間使い続けたパソコンは、画面は付いたままに置かれている。
昨日は体調が悪く、電源を消すことまで頭が回らなかった。
昨日まで、あの机へ座れば沖田裕司として仕事を続けられた。
メールを送り、会議へ参加し、依頼された仕事を終えれば、誰も裕司の存在を疑わなかった。
身体が変わっても、自分は社会から消えていないと思うことができた。
しかし今は、パソコンの前まで歩くだけの力もなかった。
裕司は仕事部屋から目をそらし、廊下を進んだ。
ようやく玄関へたどり着く。
靴を履くために腰を下ろしたところで、激しいめまいが起きた。
裕司は目を閉じ、壁へ背中を預けた。
ここまで来た。
あとは靴を履き、タクシーを呼び、病院まで行けばよい。
そう考えているのに、身体が動かなかった。
裕司は片方の靴を手に取り、足を入れた。
指先に力が入らず、かかとを整えることができない。
何度か試した末に、靴を履くことは諦めた。
靴下のままでもいい。
とにかく外へ出て、誰かへ助けを求めなければならない。
裕司は床へ手をついて身体を起こした。
玄関のドアノブへ手を伸ばす。
指先は届いたが、握る力が入らなかった。
一度手を離し、もう一度つかむ。
今度は両手でノブを握った。
身体の重さをかけるようにして回すと、錠が外れた。
裕司はドアを少しだけ開けた。
冷たい空気が隙間から入り込み、熱を持った頬へ触れた。
廊下の音が聞こえる。
どこかの部屋で扉が閉まり、遠くからエレベーターの作動音が響いていた。
外へ出れば、誰かに見つかるかもしれない。
半年間、それを避けるために生活してきた。
誰にも姿を見られず、誰にも頼らず、自分だけで問題を解決してきた。
しかし今は、誰かに見つけてもらわなければならない。
裕司はドアをもう少し開けた。
その瞬間、足元から力が抜けた。
身体が傾く。
裕司はドア枠へ手を伸ばしたが、指先がわずかに触れただけだった。
床へ倒れる直前、額が玄関の壁へ軽くぶつかった。
痛みを感じたはずだったが、すぐに分からなくなった。
視界が暗くなる。
開きかけたドアの向こうから、誰かの足音が聞こえた。
「あれ?」
女性の声だった。
裕司は返事をしようとした。
助けてほしいと言わなければならない。
自分は沖田裕司だと説明しなければならない。
しかし、喉から声が出なかった。
「大丈夫?」
声が近づいてくる。
裕司は身体を起こそうとしたが、指一本動かせなかった。
「ちょっと、誰か来てください! 女の子が倒れています!」
廊下へ女性の声が響いた。
裕司は、違うと言おうとした。
自分は女の子ではない。
この部屋の住人であり、三十代の成人男性で、沖田裕司なのだと伝えたかった。
しかし、その言葉は声にならなかった。
意識が途切れる直前、裕司は自分の身体が抱き起こされる感覚を覚えた。
半年間、誰にも見つからないように暮らしてきた裕司は、助けを求める言葉さえ発せない状態になって、ようやく他人に発見された。




