第四話 半年後の変化
身体が変わってから、半年近くが過ぎていた。
沖田裕司は、変化した日からの経過を表計算ソフトへ記録していた。
毎晩、仕事を終えると、その日の体温や体重、食事量、睡眠時間を入力する。
体調に変化がなかった日にも、異常がなかったことを記録していた。
最初の頃は、数日もすれば元へ戻る可能性があると考えていた。
そのため、身体の記録も一時的な資料にすぎなかった。
元へ戻った後、自分に何が起きたのかを調べる際に役立つかもしれないと思って始めただけだった。
しかし、一か月が過ぎても身体は戻らなかった。
三か月が過ぎても、何も変わらなかった。
半年近くが経過した現在も、裕司は見た目が十歳ほどの金髪の少女のままだった。
身長も体重も、変化した直後からほとんど変わっていない。
金色の髪が少し伸び、切った爪がまた伸びたことを除けば、身体は最初の日と同じ状態をほとんど同じ状態で保っていた。
病気らしい症状もなかった。
食欲があり、睡眠も取れている。
体温や脈拍にも目立った異常はなく、少なくとも日常生活を送るうえでは健康だった。
裕司はその日の数値を入力し終えると、画面に表示された経過日数へ目を向けた。
すでに百六十日が過ぎていた。
「もう半年近くか」
少女の声で呟いても、以前のような違和感は覚えなかった。
そのことに気づくと、別の種類の不安が胸へ浮かんだ。
裕司は、今の自分の声を自分のものとして聞き慣れ始めている。
変化した直後は、声を出すたびに知らない少女が近くで話しているように感じていた。
今では、何も意識せずに声を出すことができる。
裕司は一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに考えるのをやめた。
毎日聞いていれば慣れるのは当然だ。
それ以上の意味を考えても、答えが出るとは思えない。
裕司は洗面所に向かい、顔と洗い歯を磨いて早めに就寝した。
*********
変化した直後には使いづらかった机も、現在の身体に合うよう調整してある。
高さを変更できる木製の椅子を購入し、座面と足置きの位置を変えた。
それによって、仕事中に両足が宙へ浮かなくなった。
机そのものは高いままだったが、椅子の高さとキーボードの位置を合わせれば、作業に支障はない。
マウスも、現在の手に合う小型のものへ買い替えていた。
洗面所とキッチンには踏み台を置き、頻繁に使う物は手の届く場所へ移している。
食器や飲み物も低い棚へ置いたため、最初の頃のように椅子へ上って取る必要はなかった。
服も十分にそろっている。
裕司が選んだのは、紺色や灰色、黒を中心とした落ち着いた服だった。
必要に応じて白いシャツを合わせ、全体が重くなりすぎないようにしている。
少女らしい服を避けているというより、自分の趣味に合わない服を選ばなかった。
現在の姿を好きになったわけではない。
それでも、どうせ着るのであれば、似合うものを選びたかった。
誰かに見せる予定がなくても、裕司は毎朝、部屋着から普段着へ着替えた。
髪を梳かし、その日に着る服の組み合わせを確認してから仕事机へ向かう。
その習慣は、身体が変わる前から変わっていなかった。
一方で、半年近くの間に増えた習慣もあった。
一人で考え事をしているとき、指先を小さく動かすようになった。
人差し指と親指を順番に触れ合わせる。
両手の指を一本ずつ組み替える。
髪を結んだ後、余ったヘアゴムを指へかけ、伸ばしては戻す。
仕事の処理を待っている間には、シャツの袖口を指先でつまんでいることもあった。
以前の裕司にも、ペンを回す癖はあった。
考え事をしているときに、指で机をたたくこともあった。
ただし、現在の動きはそれよりも静かで細かかった。
ある朝、髪を整えた後、裕司は鏡の前でヘアゴムを指へかけていた。
伸ばして、戻す。
別の指へ移し、もう一度伸ばす。
何度か繰り返してから、自分が無意識に遊んでいたことへ気づいた。
「何をしてるんだ、俺は」
裕司はすぐにヘアゴムを所定の場所へ戻した。
誰も見ていない。
誰かに指摘されたわけでもない。
それなのに、妙に気まずかった。
鏡の中では、金髪の少女が指先をもてあそんでいた。
「身体に引っ張られているのか?」
裕司は鏡へ問いかけた。
鏡の中の少女が、同じ口の動きで問い返す。
根拠のない仮説だった。
脳を含めて身体全体が変化したのなら、姿勢や反射、落ち着きを得るための行動にも影響が出る可能性はある。
記憶や人格が保たれていても、感覚の受け取り方や、無意識に選ぶ動作まで以前と同じとは限らない。
ただし、今の段階では想像にすぎなかった。
裕司自身が、金髪の少女という外見と指先の動作を結びつけ、必要以上に少女らしく見ているだけかもしれない。
「決めつけるのは早いな」
裕司は鏡から視線を外した。
仕事机へ戻って数分もしないうちに、今度は指先でシャツの袖口をつまんでいた。
気づいた瞬間に手を離す。
「だから、何なんだよ」
止めようと意識するほど、別の動作まで気になった。
足先を揺らす。
指を組み替える。
袖口をつまむ。
顔へかかった毛先を指へ巻きつけかけ、途中で離す。
髪については、邪魔にならないか確認しているだけかもしれない。
袖口も、現在の身体へ合う服へ変えてから注意が向くようになっただけとも考えられる。
一つずつ説明はできた。
それでも、以前にはなかった動作が重なると、自分の内側へ知らない習慣が入り込んできたように感じられた。
裕司は身体の記録へ、新しい項目を作った。
『無意識の動作』
その下へ、気づいた癖を書いていく。
足を前後へ揺らす。
指同士を順番に触れ合わせる。
ヘアゴムを伸ばす。
袖口をつまむ。
毛先へ触れる。
書き並べると、余計に子どもじみて見えた。
裕司は少し考え、注記を加えた。
『精神年齢の変化を示すとは限らない。身体構造、感覚、生活環境の変化に伴う適応行動の可能性がある』
硬い文章だった。
自分を納得させるには、それくらいの書き方が必要だった。
********
母親のしのぶは、裕司のそうした性格を見てよく笑っていた。
『裕司は何でも形から入るからね』
資格の勉強を始める前には、最初に参考書と新しい筆記具をそろえた。
料理を始めようとしたときには、簡単な献立を考えるより先に包丁や鍋を選んだ。
裕司自身は、必要な環境を整えているだけだと思っていた。
現在も同じだった。
身体に合う椅子を用意し、服を選び、髪の手入れを覚えた。
原因不明の現象そのものは解決できなくても、生活上の問題なら一つずつ処理できる。
そうやって半年近く、誰にも知られずに暮らしてきた。
裕司は洗面所へ向かい、鏡の前に置いた踏み台へ乗った。
長い金髪の手入れにも慣れている。
毛先から順番に櫛を通し、絡まった部分を丁寧にほぐしていく。
最初の頃のように髪を引っ張り、痛みに声を上げることはなくなった。
その日は、髪を後ろで一つにまとめた。
仕事中に視界へ入らなければ、それで十分だった。
結び終えた後、余ったヘアゴムを指へかける。
一度だけ伸ばし、すぐに元へ戻した。
今日は、自分で気づいている。
無意識ではない。
裕司はそう考えて、ヘアゴムを所定の場所へ置いた。
服には、濃い青色のシャツと灰色のパンツを選んだ。
部屋の中だけで過ごす予定だったが、寝間着のまま仕事をする気にはなれない。
裕司は鏡を見ながら襟を整えた。
鏡の中では、金髪を後ろでまとめた少女が、真剣な表情で服装を確認している。
半年近く見続けているため、その顔に驚くことはなくなっていた。
自分の顔として完全に受け入れたわけではない。
それでも、鏡を見た瞬間に身体をこわばらせることはなくなっている。
「悪くないな」
裕司は服の組み合わせを確認し、踏み台から降りた。
着地する直前、踏み台の端がわずかに動いた。
「きゃっ」
短い声が、洗面所へ響いた。
裕司は反射的に洗面台へ手をつき、身体を支えた。
転びはしなかった。
踏み台も数センチ動いただけだった。
しかし裕司は、身体の安全より先に、自分の口から出た声へ愕然としていた。
「今のは何だ」
誰もいない洗面所で、自分へ尋ねる。
意識して作ったわけではない。
裕司はこれまで、驚けば「うわっ」や「危ない」と声を上げていた。
少なくとも、自分の記憶ではそうだった。
今の声は、それとは違う。
短く、高く、いかにも少女の口から出たような響きだった。
「違うだろ」
否定してみる。
しかし、その言葉も現在の少女の声で響いた。
裕司は鏡を見る。
金髪をまとめた少女が、洗面台へ片手をつき、目を見開いている。
驚いた表情まで、年齢相応の少女にしか見えなかった。
「声帯が違うだけだ」
裕司はそう自分に言い聞かせた。
驚いた瞬間には、普段の話し方を作る余裕がない。
現在の声帯で反射的に息が出れば、以前とは異なる声になるのは当然だった。
きゃっ、という音を選んだのではない。
反射的な呼気が、現在の声帯を通って出ただけである。
そう説明すれば、理屈は通る。
それでも、納得はできなかった。
足を揺らす。
指先で遊ぶ。
袖口をつまむ。
驚いたときには、少女のような声を上げる。
一つずつなら説明できる。
重なるほど、自分の意識より先に身体が振る舞いを決めているように思えた。
裕司は踏み台を確認した。
床との間に、わずかな水滴があった。
滑った原因は、それだった。
布で床を拭き、踏み台の脚も確認する。
滑り止め自体に問題はない。
裕司は身体の記録へ、後で追記する内容を頭の中で整理した。
『驚いた際、意図しない高い声が出た』
書き方を考えた後、自分で嫌になった。
「何でも記録すればいいわけじゃないだろ」
しかし、記録しなければ、なかったことにするようにも感じられる。
結局、裕司はその場では判断を保留した。
洗面所を出ようとしたところで、喉が少し乾いていることに気づく。
痛みと呼ぶほどではない。
ただ、飲み込んだときにわずかな違和感があった。
部屋の空気が乾燥しているのだろう。
そう判断し、キッチンで水を飲んだ。
季節の変わり目には、この程度の違和感が出ることもある。
加湿器を使えば治まるだろうと考え、仕事部屋へ戻った。
********
この日は午前十時から、取引先との定例会議が予定されていた。
裕司はパソコンを起動すると、最初にボイスチェンジャーの動作を確認した。
「おはようございます。本日の進捗についてご報告します」
録音した声を再生する。
加工された声には、以前よりもわずかに高い響きが残っていた。
裕司は設定画面を開き、中低音を少し強めた。
ところが、もう一度録音すると、今度は機械的な響きが目立った。
「これだと不自然だな」
裕司は設定を元へ戻した。
半年近く、何度も調整を繰り返してきた。
それでも、以前の声を完全に再現することはできなかった。
声帯そのものが違う以上、機械で補える範囲にも限界がある。
最近では、加工前の声だけでなく、裕司自身の話し方にも変化が生じていた。
現在の口や舌では、以前とまったく同じ発音ができない。
特に早口になると、舌が言葉の動きへ追いつかず、一部の音が曖昧になってしまう。
呼吸も以前とは違っていた。
一度に長い文章を話すと息が続かないため、途中で区切って話すようになった。
話す速度を意識して落とし、一音ずつ明瞭に発音するようにもしている。
その結果、以前より話し方が柔らかくなっていた。
裕司自身は、半年近くをかけて少しずつ変化したため、その違いを意識しなくなっている。
定期的に声を聞いている取引先には、いつか気づかれるかもしれなかった。
先ほど洗面所で出た声を思い出す。
きゃっ。
ボイスチェンジャーを通して会話するときには、話す内容も速さも意識できる。
しかし、驚いた瞬間の声まで制御することはできない。
オンライン会議中に何かが起きれば、あの声が相手へ届く可能性もある。
「余計なことは考えるな」
裕司は小さく言って、会議資料を開いた。
開始を待ちながら、両手の指を組み替える。
右の親指を上にする。
すぐに左の親指を上へ入れ替える。
人差し指同士を触れ合わせ、離す。
自分でも気づかないうちに、同じ動作を何度も繰り返していた。
「またか」
両手を机の上へ置く。
今度は、足置きの上で踵が交互に浮き始めた。
裕司は足も止めた。
身体の癖を止めるために仕事の準備を中断している。
自分がひどく落ち着きのない人間になったようで、少し腹が立った。
********
裕司は過去の会議記録を開き、以前の自分の声を再生した。
『こちらで原因を調査した結果、入力処理に問題があることが分かりました』
画面から、男性だった頃の裕司の声が聞こえてくる。
現在よりも低く、落ち着いた声だった。
発音にも迷いがなく、一息で話す文章も長い。
半年も経過すると、録音された声が自分のものではないように聞こえる瞬間があった。
裕司は、その感覚を嫌って再生を止めた。
自分が沖田裕司であることには変わりがない。
声も顔も身体も変わったが、記憶も考え方も、仕事で培った技術も残っている。
どのような声を出すかで、人間の同一性が決まるわけではない。
その程度のことは理解していた。
それでも、あの短い声は、ボイスチェンジャー越しの会話よりも強く裕司を動揺させた。
加工された声は、自分で設定したものだった。
普段の少女の声にも、半年をかけて慣れてきた。
しかし、反射的な声は違う。
裕司が考えるより先に、現在の身体が出した声だった。
「俺の声、なんだよな」
認めたくはなかった。
少なくとも、他人の声ではない。
自分の喉から出た。
裕司は、今は処理できない問題を脇へ置いた。
現在の課題は、午前十時からの会議を問題なく終えることだった。
********
開始時刻の五分前になると、裕司はオンライン会議へ接続した。
参加者の名前が一人ずつ画面へ表示される。
裕司はカメラをオフにしたまま、マイクとボイスチェンジャーの状態を確認した。
『おはようございます』
取引先の担当者が、いつもと変わらない調子で挨拶した。
裕司はボイスチェンジャーが有効になっていることを確かめ、マイクを入れた。
「おはようございます。よろしくお願いします」
加工された声が、ヘッドセットから自分の耳へ返ってくる。
以前よりも少し高く、どこか人工的に聞こえた。
相手から違いを指摘されるのではないかと身構えたが、取引先は特に反応しなかった。
『それでは、昨日お送りした件から確認してもよろしいでしょうか』
「はい。こちらでも確認しています」
会議はそのまま進んだ。
裕司は準備していた資料を画面へ共有した。
担当者が資料を確認している間、裕司は机の下で両手の指を組み替えていた。
親指を重ねる。
上下を入れ替える。
指先同士を触れ合わせる。
相手の返答を待つ短い時間に、指先が勝手に動いていた。
カメラは切っているため、相手には見えない。
だから気が緩んでいるのだろう。
裕司はそう考え、手を膝の上へ置いた。
今度は足が、足置きの上でかすかに揺れ始めた。
すぐに止める。
『沖田さん、聞こえていますか』
「はい。聞こえています」
返事をしながら、裕司は姿勢を正した。
声だけを聞けば、成人の技術者として振る舞えている。
しかし画面の外では、足を揺らし、指を組み替え、落ち着かない身体を何度も意識して止めていた。
もしカメラを入れれば、声との違いは隠せない。
外見だけではない。
動作まで、以前とは変わり始めている。
裕司は、マイクへ入らないよう静かに息を吐いた。
********
「先週ご指摘いただいた件については、修正が完了しています。
現在は検証環境へ反映しており、動作確認でも問題は出ていません」
『ありがとうございます。処理速度への影響はどうでしょうか』
「以前と比較すると、平均で数パーセント程度の増加が見られます。ただし、通常の利用範囲で体感できるほどではありません」
裕司は質問へ順番に答えた。
数値を示し、検証条件を説明する。
必要な箇所では画面を切り替え、実際の動作結果を共有した。
仕事をしている間は、自分の姿を相手が知らないことを意識せずに済んだ。
やり取りの内容は、変化前と同じだった。
裕司は以前と同じ知識と経験を使って説明し、相手もそれを当然のこととして受け入れている。
画面の向こうにいる人々は、裕司が十歳ほどの少女になっていることを知らない。
足置きに足を載せ、長い金髪を後ろでまとめて話していることにも気づいていない。
会議は予定どおり進んだ。
問題点を確認し、次回までの作業内容も決まった。
裕司は最後に要点をまとめた。
「では、こちらでは今日お話しした方針で進めます。次回までに検証結果もまとめておきます」
『分かりました。よろしくお願いします』
「よろしくお願いします」
裕司が会議を終了しようとしたとき、机の端へ置いていたペンが転がった。
床へ落ち、その音が思った以上に大きく響く。
「きゃっ」
裕司は肩を跳ねさせた。
マイクは入ったままだった。
部屋が静まり返る。
取引先の担当者も、すぐには言葉を発しなかった。
裕司はマイクを見た。
ボイスチェンジャーを通っていても、元の声があまりにも高かったため、完全には隠しきれていない。
『今の声、沖田さんですか?』
担当者が戸惑いながら尋ねた。
裕司は床へ落ちたペンを見たまま、答えを探した。
「すみません。ペンが急に落ちたので、驚きました」
『ずいぶん高い声が出ましたね』
「自分でも驚いています」
嘘ではない。
むしろ、誰よりも裕司自身が愕然としている。
洗面所で出た声と同じだった。
意識を挟まない驚きには、ボイスチェンジャーへ合わせた話し方を作る余裕がない。
現在の身体が、現在の声帯で、そのまま反応してしまう。
「喉の調子が悪いせいかもしれません」
どうにか説明を加えた。
『そうだったんですか。すみません、急に音がして驚きましたよね』
「いえ」
裕司は身体をかがめ、ペンを拾った。
指が少し震えている。
ただペンが落ちただけだった。
それだけで、現在の身体が自分の意思より先に声を上げた。
声を聞かれたことより、制御できなかったことの方が怖かった。
裕司は椅子へ座り直した。
足をそろえ、両手を膝の上へ置く。
「失礼しました」
『いえ、大丈夫です』
担当者は会話を終えようとしたが、何かを思い出したように続けた。
『あ、そういえば、仕事とは関係ないんですけど……』
「何でしょうか」
『男性にこんなことを言うと、失礼かもしれませんが』
裕司の胸の奥が冷えた。
「何ですか?」
『最近、なんだか話し方がかわいくなりましたよね』
「……かわいい?」
『すみません。やはり失礼ですよね』
「……別に怒ってはいませんけど」
『声そのものというより、少し舌足らずになったというか、以前より柔らかい話し方になった気がして。それに、今の驚いた声も』
裕司は、自分の呼吸が浅くなるのを感じた。
口や舌の大きさが変わったことで、以前と同じ発音はできない。
呼吸量も少なくなり、一度に長く話すことが難しくなった。
驚いた際には、意識的な調整そのものが間に合わない。
半年近くをかけて少しずつ変化したため、裕司自身はその違いへ慣れていた。
「自分では、あまり分かりませんね」
裕司は、できるだけ平静を装った。
『マイクか何かを変えました?』
「それもあるかもしれません」
『なるほど。機材の影響ですかね』
相手は、深刻に疑っている様子ではない。
ここで説明を重ねれば、かえって不自然になる。
裕司は短い返事だけで、この話を終わらせようとした。
ところが、返事をする前に喉がむずがゆくなった。
口元を押さえ、乾いた咳を一度漏らす。
『大丈夫ですか?』
「ちょっと風邪気味なんです」
裕司は、とっさにそう答えた。
言い逃れのためだけの嘘ではなかった。
朝から喉が乾いており、身体にもわずかな重さを感じている。
『ああ、それで話し方も少し違って聞こえたのかもしれませんね』
「たぶん、そうだと思います」
『変なことを言って、すみませんでした。無理しないでくださいね』
「気にしてないですよ。今日はもう休むつもりなので」
『そうしてください。お大事にしてください』
「ありがとう。それでは、お疲れさまでした」
『お疲れさまでした』
通話が終了した。
************
画面から参加者の名前が消え、誰もいない会議画面だけが残った。
裕司はマイクを切り、ボイスチェンジャーも終了させた。
相手は、風邪によって声や話し方が変わったのだと納得した。
裕司が別人になったと疑ったわけではない。
それでも、先ほどの言葉が頭から離れなかった。
ボイスチェンジャーは声の高さを変更できる。
しかし、現在の口や舌から生まれる発音や、変化した呼吸の間、反射的な声まで隠してはくれない。
裕司は両手を見た。
先ほどまで、指同士を触れ合わせていた手だった。
足置きの上では、止めたはずの足先がまた小さく動いている。
話し方だけではない。
姿勢。
呼吸。
手持ち無沙汰なときの指先。
考え事をしているときの足。
そして、驚いた瞬間に出る声。
半年近くをかけ、細かな部分まで現在の身体へ合わせて変わり始めていた。
「俺が変わったのか」
裕司は足を止めた。
「身体に変えられているのか」
ボイスチェンジャーを切った部屋へ、少女の声だけが響いた。
答えは出なかった。
意識して覚えた行動もある。
髪を整えることも、現在の身体へ合う姿勢も、安全に暮らすために自分で身につけた。
一方で、足を揺らすことや指遊び、驚いたときの声は、覚えようとした記憶がない。
裕司は、自分の人格まで変わっているとは思わなかった。
仕事の判断にも、記憶にも、大きな変化はない。
ただ、人格が同じだからといって、身体から一切影響を受けないとも限らなかった。
空腹の感じ方が変わった。
味覚も変わった。
必要な睡眠時間も、以前とは違う。
それなら、落ち着きを得るための動作や、驚いた際の反射が変わっても不思議ではない。
裕司は記録用の表を開いて朝書こうと思った事を記入した。
『驚いた際、意図せず高い声が出た』
そこまで入力し、指を止める。
もう少し具体的に書くべきか迷った。
入力した声を、そのまま文字へする。
『「きゃっ」と聞こえる短い声だった』
画面に表示された文章を見た瞬間、裕司は顔をしかめた。
「何を書いてるんだ、俺は」
しかし削除はしなかった。
観察記録として残す以上、曖昧にする理由もない。
その下へ注記を加える。
『現在の声帯による反射的な発声と推測。性格や人格の変化を示す根拠はない』
硬い文章だった。
それでも、先ほどの声を単なる少女化の証拠として受け入れるよりは、少しだけ落ち着けた。
「記録しておこう」
結論を出せない問題については、観察を続ける。
それが裕司のやり方だった。
********
裕司はもう一度、ボイスチェンジャーの設定を開いた。
どこを変更すればよいのか分からなかった。
問題が機械の設定だけにあるわけではない。
以前の声へ近づけようとするほど、加工された声は不自然になる。
かといって、現在の話し方をそのまま使えば、以前との違いがさらに目立つかもしれない。
驚き声を完全に変換しようとすれば、通常の会話まで機械的になる可能性がある。
今後は会議中に物を落とさないよう、机の上を整理する。
イヤホンの突然の通知音も切る。
驚く原因を減らせば、反射的な声が相手へ届く可能性も下げられる。
声そのものではなく、環境を調整する。
裕司は机の端にあったペン立てを、中央へ移した。
対処できない問題ではない。
そう考えたところで、再び喉がむずがゆくなった。
口元を押さえ、今度は数回せき込む。
「本当に風邪か」
ボイスチェンジャーを切った後だったため、幼い少女の声が部屋へ響いた。
裕司は椅子から降り、体温計を取りに行った。
********
洗面所の棚から電子体温計を取り出し、脇へ挟む。
測定が終わるまでの間、空いた手の指を一本ずつ曲げていた。
小指。
薬指。
中指。
人差し指。
親指まで曲げたところで、逆の順番に伸ばしていく。
電子音が鳴った。
「ひゃっ」
静かな洗面所に突然音が響いたため、裕司の肩が跳ねた。
先ほどより短い声だった。
体温計を落としかけ、慌てて両手でつかむ。
裕司は、その姿勢のまま固まった。
「またかよ」
今度は誰にも聞かれていない。
それでも、愕然とした気持ちは変わらなかった。
音が鳴ることは分かっていた。
普段から使っている体温計である。
それなのに、考え事へ意識を向けていたため、電子音へ反射的に驚いた。
そして、また以前とは違う声が出た。
「次は『ひゃっ』か」
わざわざ口にすると、余計に気まずかった。
裕司は鏡を見ないようにしながら、体温計の表示を確認した。
三十七度二分だった。
発熱と呼ぶほどではない。
平熱よりわずかに高い程度であり、測った時刻や室温によっては、気にする必要のない範囲だろう。
裕司は体温計を握りしめたまま、鏡へ視線を向けた。
少女が不満そうに眉を寄せている。
驚いたときの表情も、出る声も、自分の意識では選べなかった。
「今度から音が鳴る前に構える」
有効な対策なのか、自分でも分からなかった。
驚きへ備えていれば、驚かずに済む。
しかし、いつ起きるか分からないから反射と呼ぶのである。
裕司は体温計を戻した。
********
喉には軽い違和感があり、咳も少し出ている。
それ以外の症状はなかった。
食欲もある。
頭痛もなく、関節にも痛みはない。
予定していた午後の作業を確認する。
急いで終わらせなければならない仕事はなかった。
取引先にも、今日はもう休むと伝えている。
無理をする理由はない。
裕司はパソコンを終了させ、キッチンへ向かった。
冷蔵庫から水を取り出して少しずつ飲むと、冷たさが喉へわずかにしみた。
配食サービスで届いていた昼食を温めたものの、いつもより食欲がなかった。
半分ほど食べたところで箸を置き、残りを冷蔵庫へ戻した。
それでも、深刻に考える必要はないと思った。
半年近く、外出をほとんどしていない。
他人と接触する機会も少ないため、感染症へかかる可能性も高くない。
ゴミ出しの時に人とすれ違うことはあるが、長時間会話を交わしたことはなかった。
もっとも、普通の風邪であれば、どこからうつっても不思議ではない。
裕司は市販薬の保管場所を確認した。
以前購入した解熱鎮痛薬と総合感冒薬が残っている。
有効期限にも余裕があった。
薬の箱を手に取ったところで、用量の欄へ目を向ける。
以前と同じ成人用の量を、そのまま飲むわけにはいかない。
現在の身体が、医学的にどの年齢へ相当するのかは分からなかった。
外見は十歳前後に見える。
体の重さも、同年代の子どもに近い。
記憶や精神が三十代だからといって、薬の量まで成人と同じになるとは考えにくかった。
裕司は説明書を何度も読み返した。
総合感冒薬には一定の年齢以下の場合は服用しないよう記載されている。
解熱鎮痛薬には年齢ごとの用量が書かれていた。
自分だけで判断して飲むことには不安がある。
本来であれば、医師や薬剤師へ相談すべきだった。
しかし、そのためには現在の姿と身分証明書が一致しないことを説明しなければならない。
まだ、その危険を冒すほどではない。
裕司は迷った末、成人用にしか用量が示されていない薬を避けた。
年齢別の記載がある物についても、説明書を何度も確かめた末、その場では服用せず、体温と症状の経過を見ることにした。
「今は、水分を取って休めばいい」
裕司は自分へ言った。
考える問題を一つへ絞る。
それから水でもう一度喉を潤し、寝室へ向かった。
********
普段なら、午後に眠ることはほとんどない。
しかし、その日は布団へ横になると、すぐに身体が重くなった。
裕司は布団の中で、両手の指を絡めた。
親指を重ね、入れ替える。
人差し指を曲げ、元へ戻す。
会議の前にもしていた指遊びだった。
止める気力が湧かなかった。
誰も見ていない。
気にする必要もない。
そう考えると、指を動かしている方が少しだけ落ち着いた。
「今は、どうでもいい」
体調が悪いときまで、大人らしい動作へ直そうとする必要はなかった。
裕司はスマートフォンで目覚ましを設定した。
夕方まで眠り、その後でもう一度体温を測ればよい。
画面を消そうとしたところで、メッセージの通知が表示された。
送り主は近藤ハツだった。
『最近、あまり電話できていないけれど、元気にしていますか』
裕司は文面を見つめた。
以前なら少し時間を置き、仕事が忙しいと返していただろう。
今日は喉が痛く、微熱もある。
この程度なら、正直に体調が悪いと伝えてもよいかもしれない。
裕司は返信を入力した。
『少し風邪をひいたみたいだ』
送信する直前に、親指が止まる。
体調が悪いと伝えれば、ハツは電話をかけてくるかもしれない。
現在の声を聞けば、以前との違いに気づく可能性がある。
何日も治らなければ、病院へ行くよう勧めるだろう。
見舞いに来ようとするかもしれない。
裕司は入力した文章を消した。
代わりに、いつもと同じ返事を入力する。
『元気にしてる。仕事が忙しいだけだから、心配しなくていい』
送信すると、しばらくして返事が届いた。
『それならいいけれど、あまり無理をしないでね』
裕司は「分かった」とだけ返信した。
半年近く、同じようなやり取りを何度も繰り返してきた。
ハツが心配するたびに、裕司は大丈夫だと答えてきた。
実際、これまでは大丈夫だった。
今日も、ただの軽い風邪にすぎない。
仕事を休んでも、すぐに生活へ困ることはない。
貯金があるため、数日どころか数か月収入が止まっても暮らしていける。
一人で対処できない理由はなかった。
裕司はスマートフォンを枕元へ置き、目を閉じた。
絡めた指は、眠気が強くなるまで小さく動き続けていた。
眠りへ落ちる直前、取引先の言葉が頭に浮かんだ。
男性に言うと失礼かもしれないが、話し方がかわいくなった。
少し舌足らずになった。
驚いた声まで、以前とは異なっている。
半年近く、誰にも知られずに暮らしてきた。
身体が変わっても、沖田裕司として仕事を続けている。
足を揺らしても。
指先を動かしても。
袖口や毛先へ無意識に触れても。
驚いたときに高い声を出しても。
記憶と判断力が変わっていないなら、自分は沖田裕司のままだった。
裕司は、その考えへしがみつくようにして眠りへ落ちていった。
*********
目を覚ましたとき、外はすでに暗くなっていた。
寝室の照明は消えたままで、カーテンの隙間から街灯の光が差し込んでいる。
身体が熱さが増していた。
長時間、布団の中にいたからではない。
額にも首筋にも汗がにじみ、喉の痛みは昼間より明らかに強くなっていた。
裕司は身体を起こそうとした。
頭が重く、視界が一瞬揺れた。
「まずいな……」
声はかすれていた。
裕司はベッドから慎重に降り、壁へ手をつきながら洗面所へ向かった。
途中で足元がふらついた。
壁へ伸ばした手が届かず、身体の均衡が崩れる。
「きゃっ」
短い声とともに、裕司は床へ尻もちをついた。
身体の状態を確認する。
強く打ったわけではない。
手首にも痛みはない。
頭もぶつけていない。
危険な転倒ではなかった。
それを確認した後で、裕司は先ほどの声を思い出した。
「また、これか」
熱で弱っていても、驚いた瞬間には同じ声が出た。
むしろ、意識的な制御が弱くなっているため、昼間より自然に出たように感じられた。
裕司は床へ座ったまま、両手を見た。
驚けば高い声を上げる。
転べば目を見開き、その場で動きを止める。
鏡へ映せば、年齢相応の少女が尻もちをついて戸惑っているようにしか見えないだろう。
「俺は、男だったんだぞ」
誰へ主張しているのか、自分でも分からなかった。
身体は返事をしない。
ただ、熱と疲労だけを伝えてくる。
裕司は壁へ手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
立ちくらみが治まるまで、その場で待つ。
以前の自分なら、尻もちをついた程度でここまで慎重にはならなかった。
しかし、今の身体で再び転べば、次は頭を打つかもしれない。
声のことを考えるのは後でよい。
まずは安全を確保する。
裕司は壁を伝いながら洗面所へ向かった。
*********
棚から体温計を取り出す。
測定を待つ間、裕司は空いた手の指を動かしていた。
昼間のように順番を確かめているわけではない。
何かへつかまる代わりに、自分の指同士を握っていた。
電子音が鳴る。
今度は驚かなかった。
音が鳴ると分かっていたからだった。
裕司は表示された数字を確認した。
三十八度四分だった。
昼間より一度以上も上がっている。
それでも、病院へ行くことは考えなかった。
大人だった頃にも、この程度の熱を出したことはある。
安静にして一晩眠れば、翌朝には下がっていた。
今回も同じだろう。
風邪をひいて、熱が出ただけだ。
解熱薬を飲めば治るかもしれない。
病院へ行く必要は、まだない。
裕司はそう判断し、小児の用量を改めて確認して薬を飲んだ。
壁へ手をつきながら寝室へ戻った。
今度は足を急いで動かさなかった。
一歩ずつ、床を確認して進む。
ベッドへ横になると、身体の内側から熱が広がっていった。
布団の中で両手を握る。
小さな指同士を絡め、力を込める。
昼間なら、子どもじみていると考えて止めていただろう。
今は、そこまで考える余裕がない。
少しでも落ち着くなら、それでよかった。
半年間で、裕司は誰にも頼らずに暮らせる生活を作り上げた。
必要な物はすべて届く。
仕事も部屋の中で続けられる。
十分な貯金もある。
多少の体調不良で、生活へ困ることもない。
現在の身体に合わせ、椅子も、食器も、浴室も整えた。
声の変化も、機械で補った。
問題が起きるたびに、対策を立ててきた。
裕司は、その仕組みが自分を守ってくれると信じていた。
ただの風邪によって、その生活が崩れるとは考えていなかった。




