第三話 閉じた生活
第三話 閉じた生活
身体が変わってから、一週間が過ぎた。
沖田裕司は、まだ元の身体へ戻っていなかった。
朝になれば何もかも元どおりになっているかもしれないという期待は、三日目を過ぎた頃から薄れていた。それでも目を覚ますたび、裕司は自分の手を最初に確認した。
視界へ入るのは、細く白い指だった。
枕には長い金髪が広がっており、少し身体を動かすだけで頬へまとわりついた。
声を出せば、幼い少女の声が返ってくる。
変化が一時的なものではない可能性を認めなければ、生活そのものが立ち行かなくなる。
裕司は元へ戻る方法を探しながら、現在の身体で暮らすための環境を整え続けていた。
注文した木製の椅子は、変化から四日目に届いた。
組み立てて座面と足置きの高さを調整すると、仕事中に両足が宙へ浮かなくなった。
机そのものは高いままだったが、椅子の高さを合わせれば、キーボードとマウスを操作することはできた。
洗面所とキッチンには、それぞれ新しく踏み台を置いた。
頻繁に使う食器や食品は、すべて低い棚へ移した。
以前は床に直接置いていた水や米も、小さな身体で持ち上げやすいように量を分けて保管した。
冷蔵庫の上段には、ほとんど物を入れなくなった。
浴室には滑り止めのマットを敷き、転ばないように手すりの代わりとなる場所も確認した。
生活用品を配置し直した部屋は、以前より使いやすくなったはずだった。
しかし、裕司はときどき室内を見回し、奇妙な寂しさを覚えた。
三十代の自分に合わせていた部屋が、少しずつ消えていくように見えたからだった。
仕事机の前には子供用の椅子が置かれ、洗面所には踏み台がある。
クローゼットには小さな服が並び、浴室には子供向けの転倒防止マットが敷かれている。
すべて自分で選び、自分の金で買ったものだった。
事情を知らない人間が見れば、成人男性の部屋に子供が突然この部屋で暮らし始めたように思うだろう。
実際体のことだけで言えば事実と相違ない。
裕司はその考えを打ち消すように、仕事へ意識を戻した。
仕事は以前と同じように続けられていた。
毎朝パソコンを起動し、メールを確認する。
作業内容を整理してからプログラムを書き、必要に応じて取引先とオンラインで打ち合わせをする。
会議ではボイスチェンジャーを使用した。
最初の数日は自分でも違和感を覚えるほど人工的な声だったが、調整を重ねるうちに、以前の声に近い出力ができるようになっている。
息の長さや話す速度にも注意した。
今の身体では、一息で話せる長さが以前とは違う。
早口になると少女らしい発音が出やすいため、意識してゆっくり話すようにした。
結果として、取引先からは以前より落ち着いて話すようになったと思われたらしい。
『最近、説明が聞き取りやすくなりましたね』
ある会議でそう言われたとき、裕司は返事に困った。
「それはどうも」
『何か話し方を変えたんですか?』
「少し意識しているだけです」
嘘はついていない。
相手は裕司の返答に納得し、そのまま仕事の話へ戻った。
裕司も余計なことは言わなかった。
変化前から仕事へ支障が出ていなかったのだから、現在の姿を明かす必要はない。
成果物の品質と納期を守っている限り、取引先にとって裕司の外見など関係がなかった。
裕司はそう考えていた。
仕事以外の生活にも慣れてきた。
長い髪は、最初の頃よりも簡単にまとめられるようになった。
寝る前に軽く梳かし、朝は毛先から順番に整える。
作業中に邪魔にならないよう、後ろで一つに結ぶことも習慣になっていた。
鏡を見なくても髪をまとめられるようになると、裕司は小さな達成感を覚えた。
ただし、仕上がりについては妥協しなかった。
結び目が偏っていればやり直し、後れ毛が目立てば整えた。
誰かに見せるわけではないが、不格好なままでいると落ち着かなかった。
服装にも同じことが言えた。
外出する予定がなくても、朝になれば部屋着から着替えた。
仕事をする日はシャツやパーカーを選び、色の組み合わせも考えた。
配食サービスの荷物を回収するだけなら、寝間着のままでも問題はない。
それでも裕司は、身なりを整えてから仕事机へ向かった。
しのぶが生きていた頃には、似たようなことを何度か指摘されていた。
『裕司は、まず形から入るからね』
母親は呆れながらも、どこか面白そうに笑っていた。
資格の勉強を始める前には、新しい参考書とノートをそろえた。
趣味で料理を試そうとしたときには、最初から包丁や鍋にこだわった。
運動を始めようと決めたときも、実際に身体を動かすより先に靴と服を買っている。
しのぶから見れば、道具をそろえた時点で満足しているように見えたのかもしれない。
しかし裕司にとって、外側を整えることは気持ちを切り替えるために必要な手順だった。
今の状況も同じだった。
鏡に映る姿を自分だと思えなくても、その姿に合う服を選ぶことはできる。
女性として生きる覚悟がなくても、長い髪を整えることはできる。
一つずつ形を整えることで、理解できない現実を扱える範囲へ収めていた。
変化から十日ほどが過ぎた頃、裕司は初めてゴミ出しの問題に直面した。
通販や配食サービスを利用するほど、段ボール箱や容器が増えていく。
室内へ置いておくにも限界があり、いつかは集積所まで運ばなければならなかった。
段ボールは近隣で有料の回収サービスがあり、申請や支払いもオンラインで完結した。
物自体も家の前に置いておけば回収してくれるらしかった。
ただ、一般ゴミはそうにもいかない。
裕司の住む建物では、ゴミを出せる時間帯が決められていた。
人の少ない深夜に運ぶことはできない。
かといって朝の時間帯に外へ出れば、近隣住民と顔を合わせる可能性がある。
裕司は数日かけて、共用廊下の様子を確認した。
玄関のドアを少しだけ開け、足音を聞く。
インターホンの画面から見える範囲も確認する。
住民が出勤する時間や、管理人が巡回する時刻を大まかに把握した。
人の出入りが途切れる時間は、午前八時前後に十分ほどあった。
裕司は燃えるゴミを小さな袋に分けた。
以前のように大きな袋へまとめると、今の身体では運べない。
両手で無理なく持てる重さに調整し、口が開かないようしっかり結んだ。
外へ出るため、紺色のパーカーと黒いパンツに着替えた。
髪は後ろでまとめ、帽子もかぶった。
玄関の鏡で全身を確認する。
そこには、今から外に出かけようとする外国人の少女が映っていた。
この姿のまま廊下へ出れば、誰かに見られるかもしれない。
裕司はドアノブに手をかけたまま、しばらく動けなかった。
外へ出るだけなら簡単なはずだった。
それでも、玄関の扉が境界線のように感じられた。
部屋の中では、裕司は「沖田裕司」でいられる。
仕事用のメールアドレスも、銀行口座も、パソコンのデータも、すべて以前と同じように使える。
しかし、一歩外へ出れば、誰も裕司を「沖田裕司」だとは認識しない。
知らない少女が、成人男性の部屋から出てきたと思われる。
その可能性を考えるだけで、指先に力が入らなくなった。
「たかがゴミ出しだろ」
裕司は小声で自分を叱った。
インターホンの画面を改めて確認するが誰も映っていない。
廊下から足音も聞こえない。
裕司はドアを細く開け、外の様子を確かめた。
誰もいない。
身体が通れる程度まで扉を開き、素早く外へ出る。
静かに鍵をかけると、小さなゴミ袋を持って廊下を進んだ。
歩く速度は以前より遅かった。
廊下の手すりも高く感じる。
エレベーターのボタンへは手が届いたが、押すためには少し腕を上げなければならなかった。
裕司は一階へ降り、玄関ホールを見回した。
管理人室には誰もいなかった。
建物の出入口を抜けると、朝の冷たい空気が頬に触れた。
外へ出たのは、身体が変わってから初めてだった。
裕司は思わず足を止めた。
通りを走る車が、以前より大きく見える。
歩道を行き交う人々も、自分の視線よりはるかに高い位置に顔があった。
少し離れた場所を、制服姿の小学生たちが歩いている。
裕司より背の高い子供もいれば、同じくらいの子供もいた。
彼らの集団へ混ざれば、裕司も外国人の見た目を除けば違和感なく馴染むのかもしれない。
その考えに、強い抵抗を覚えた。
裕司は三十代の社会人であり、子供ではない。
しかし、通行人の目に映るのは、帽子をかぶって一人で歩いている金髪の少女でしかなかった。
なるべく周囲を見ないようにして、ゴミの集積所へ急ぐ。
袋を指定された場所へ置き、すぐに建物へ戻ろうとした。
ところが、背後から声をかけられた。
「おはよう。早いのね」
裕司は肩を跳ねさせた。
振り返ると、買い物袋を持った高齢の女性が立っていた。
別の階に住んでいる人だろう。
顔を見た記憶はあったが、名前までは知らなかった。
「お、おはようございます」
反射的に挨拶を返した。
当然、少女の声が出た。
女性は少し驚いたように目を見開いた後、穏やかに笑った。
「一人で偉いわね。おうちの人のお手伝い?」
裕司はすぐに答えられなかった。
おうちの人という表現が、自分とは無関係のもののように聞こえた。
「そんなところです」
どうにか答えると、女性はそれ以上尋ねなかった。
「気をつけて戻るのよ」
「はい」
裕司は足早にその場を離れた。
建物の中へ戻り、エレベーターへ乗る。
扉が閉まった瞬間、壁へ背中を預けた。
心臓が激しく動いていた。
何も起きなかった。
名前も聞かれず、どの部屋の子供なのかも尋ねられなかった。
相手はただ、朝早くにゴミを出していた少女へ声をかけただけだった。
それでも裕司には、正体を暴かれかけたように感じられた。
自宅へ戻ると、すぐに鍵とドアチェーンをかけた。
帽子を脱ぎ、パーカーのフードを整える。
わずか十分ほど外へ出ただけなのに、手のひらには汗がにじんでいた。
裕司は玄関の前へ座り込んだ。
「別に、何もなかっただろ」
自分へ言い聞かせる。
外へ出ること自体はできた。
人とすれ違っても、すぐに警察へ連絡されるわけではない。
少女が一人でゴミを出していた程度なら、家族の手伝いだと思われる。
しかし、同じ住民と何度も顔を合わせれば、いずれ事情を尋ねられるかもしれない。
沖田裕司に子供がいたという話はない。
親戚の子供だと説明したとしても、長期間この部屋へ出入りしている姿を見られれば、不審に思われる可能性がある。
裕司はゴミ出しの方法も見直すことにした。
できるだけ量を減らし、人の少ない時間帯を選ぶ。
それでも外へ出る必要はあるため、時折服装を変えて時間をずらし、同じ住民と顔を合わせないようにする。
自分でも神経質になりすぎていると思った。
しかし、一度でも警察や管理会社へ連絡されれば、裕司は現在の生活を失うかもしれない。
誰にも知られずに暮らすためには、慎重すぎるくらいでよかった。
変化から二週間が経つ頃には、裕司の一日はある程度決まった形へ収まっていた。
朝は七時半頃に起き、髪を整えて着替える。
簡単な朝食を取った後、九時から仕事を始める。
昼には配食サービスの食事を温める。
現在の身体では一食分を食べ切れないことが多いため、最初から二回に分けるようになった。
午後も仕事を続け、夕方には作業を終える。
夜は元へ戻る方法について調べるが、得られる情報には限りがあった。
検索するだけではなく、自分の身体についても記録を残した。
身長、体重、体温、食事量、睡眠時間を毎日測り、変化がないか確認する。
髪や爪は伸びる。
空腹にもなり、眠気も感じる。
小さくなったことを除けば、身体は健康に機能しているようだった。
裕司は、味覚が少し変わったことにも気づいた。
以前よりも苦い物を強く感じるようになり、ブラックコーヒーを飲むことが難しくなった。
最初は以前と同じように飲もうとした。
一口含んだ瞬間、強い苦味が口の中へ広がり、思わず顔をしかめた。
「こんなに苦かったか?」
豆も淹れ方も以前と変わらない。
もう一口試したが、やはり飲みづらかった。
裕司はしばらく迷った後、牛乳を加えた。
それでも苦味が残ったため、砂糖も入れる。
甘くなったコーヒーは、思ったより飲みやすかった。
裕司はカップを見下ろした。
以前なら、自分から砂糖を入れることはなかった。
身体が求める味に合わせただけだと考えたが、どこか負けたような気分になった。
後日、通販で砂糖の少ないココアも注文した。
届いた商品を飲んでみると、コーヒーよりも素直においしいと思えた。
その事実は誰にも知られたくなかった。
もちろん、今の裕司の生活を見ている人間は誰もいなかった。
変化から一か月が過ぎた。
裕司は、現在の身体で仕事と生活を続けられると判断し始めていた。
困ることは多い。
それでも、今のところ解決できない問題は起きていない。
買い物は通販で済ませられる。
食事も届けてもらえる。
ゴミ出しは人の少ない時間を選べばよい。
仕事はボイスチェンジャーがあれば続けられる。
銀行口座もカードも使用できており、収入も入金されている。
元の身体へ戻る方法は見つかっていないものの、急いで誰かへ助けを求める必要もなかった。
むしろ、他人へ知らせる方が危険に思えた。
裕司が少女になったという話を信じてもらえる保証はない。
信じてもらえたとしても、自由に自宅で暮らし続けられるとは限らない。
警察や病院、行政が介入すれば、この身体について調べられることになる。
仕事を続けることも、銀行口座を使うことも難しくなるかもしれない。
裕司は何も言わない方が安全だと判断した。
その判断は、今の生活が安定するほど確かなものに思えた。
***************
現在の身体で生活することには、少しずつ慣れていた。
室内を歩いて家具へぶつかることもなくなった。
マンションの階段も問題なく上り下りできるようになった。
以前より疲れやすいものの、無理をしなければ日常生活に支障はなかった。
ゴミ出しのため、早朝に建物の外へ出たこともある。
別の階に住む女性から声をかけられた際には緊張したが、相手は裕司を家族の手伝いをしている少女だと考え、それ以上事情を尋ねなかった。
その経験もあり、裕司は自分が警戒しすぎているのではないかと思い始めていた。
髪を整え、身体に合う服を着て、普通に歩く。
それだけなら、誰も深く気にしないのかもしれない。
部屋の中で暮らし続けることはできる。
食品も日用品も、ほとんど通販だけでそろえられた。
しかし、この先も一歩も外へ出ずに生活できる保証はない。
行政や銀行の手続きで書類を取りに行くことが必要になるかもしれない。
通販では選びにくい物を、店頭で確認したくなることもあるだろう。
何より、以前は普通に歩いていた町を怖がり続けることが、裕司には我慢できなかった。
「身体は、もう大丈夫だと思う」
裕司は鏡の前で言った。
金色の髪は、後ろで一つにまとめた。
服装には、濃い色のシャツと黒いパンツを選んだ。
派手な色や少女らしい装飾はない。
それでも、鏡の中にいるのは金髪碧眼の少女だった。
視線を完全に避けることはできない。
だが、外見だけを理由に部屋へ閉じこもり続けるつもりもなかった。
裕司は近所の店で電池を一つだけ買い、すぐに帰ることにした。
長時間の外出ではない。
現在の身体でどれほど歩けるかを確かめる試験でもあった。
外へ出る時間には、平日の午前十一時頃を選んだ。
早朝や夜に少女が一人で歩いていれば、かえって目立つと考えたからだった。
昼間なら足元も見やすい。
何か問題が起きても、周囲に人がいる。
裕司なりに安全を考えた結果だった。
しかし、裕司には一つ見落としがあった。
十歳ほどに見える少女は、本来なら学校にいる時間だった。
平日の昼間に一人で住宅街を歩いているだけで、周囲の目を引く。
さらに裕司は、日本人離れした金色の髪と青い瞳を持っている。
地味な服を選んでも、その容姿までは隠せない。
帽子をかぶることも考えたが、髪のすべてを収めることは難しかった。
顔を隠すように深くかぶれば、かえって不審に見える可能性もある。
結局、髪を後ろでまとめただけで外へ出た。
建物の共用廊下には誰もいなかった。
裕司は自室の鍵をかけ、取っ手を二度引いて確認した。
階段を一段ずつ下りる。
現在の身体での動きは、もう把握している。
足を踏み外すことも、手すりへしがみつくこともなかった。
建物の外へ出ると、暖かな日差しが金色の髪を照らした。
車の音。
自転車のベル。
遠くから聞こえる話し声。
この一か月、窓越しに眺めていた町の中へ、自分が入っていく。
マンションの共用部分を離れて、大きな通りへと出た。
視線の高さが違うため、見慣れた道も以前とは違って見えた。
車体は大きく、塀は高い。
すれ違う大人の顔は、ずっと上にある。
それでも身体には問題がなかった。
転ばずに歩ける。
息切れもしない。
「大丈夫だ」
裕司は小さく呟いた。
少なくとも、歩行や体力については問題ない。
その事実が、少しだけ自信になった。
************
最初に違和感を覚えたのは、向かいから歩いてきた女性とすれ違ったときだった。
女性は裕司を見た。
通り過ぎる直前まで視線が残っていた。
珍しい髪を見ただけだろうと考え、裕司は歩き続けた。
次に、自転車へ乗った年配の男性が振り返った。
店先を掃除していた人も、一度手を止めた。
誰も声をかけてはこない。
それでも、見られていることは分かった。
昼間なら不審に思われにくいと考えていた。
実際には、周囲が明るいため裕司の姿はよく見えた。
学校へ行っているはずの年齢。
保護者もいない。
金色の髪と青い瞳を持ち、平日の昼前に一人で歩いている。
裕司本人が思っていた以上に、現在の姿は目立っていた。
「時間を間違えたかもしれないな」
引き返すことも考えた。
しかし、目的の店は近い。
ここまで歩いて身体に問題がないことも確認できた。
電池を買ったら、そのまま帰ればよい。
裕司は足を止めなかった。
***********
店内では、できるだけ人と接触しないようにした。
必要な電池だけを取り、無人の会計機で支払う。
店員へ話しかけられることもなく、問題なく買い物を終えた。
購入した物を鞄へ入れる。
「買えた」
裕司は小さく息を吐いた。
歩けた。
商品も選べた。
支払いもできた。
身体は疲れていない。
外へ出ることも、それほど難しくはなかった。
あとは自宅へ戻るだけだった。
店を出て、来た道を歩き始める。
その直後、背後から声をかけられた。
「ちょっといいかな」
裕司の足が止まった。
心臓が強く鳴る。
振り返る前に、相手が誰なのかを考えた。
店員。
近隣住民。
知らない大人。
どの場合でも、無視して走れば不審に思われる。
「聞こえてる?」
二度目の声が届いた。
裕司はゆっくりと振り返った。
自転車を押した警察官が立っていた。
**********
「こんにちは」
警察官は穏やかな表情をしていた。
「こんにちは」
裕司も挨拶を返した。
少女の声が、わずかに震えた。
「今日は学校、お休み?」
最初の質問で、裕司は自分の判断が間違っていたことを理解した。
警察官から見れば、平日の昼間に学校へ行かず、一人で買い物をしている少女である。
声をかけない方が不自然だった。
「今日は休みです」
裕司は答えた。
「学校がお休みなのかな」
「休んでいます」
口にしてから、言い方を間違えたと気づいた。
子どもが自分の判断だけで学校を休んでいるように聞こえる。
「具合が悪いの?」
「いえ」
「病院の帰りかな」
「違います」
警察官は裕司の全身を確認するように見た。
服が汚れていないか。
けがをしていないか。
荷物は何か。
迷子や家出ではないか。
保護を必要としている子どもではないか。
それを確かめようとしているだけだった。
悪意はない。
それでも裕司には、一つ答えを間違えれば現在の生活が終わる質問に思えた。
「一人なの?」
「はい」
「お父さんか、お母さんは?」
「家にいます」
嘘だ。
両親のどちらも、自宅にはいない。
「お使いかな」
「はい」
「何を買ったの?」
「電池です」
裕司は、できる限り短く答えた。
警察官が確認したいのは、裕司の本当の正体ではない。
安全な家へ帰れる子どもかどうかである。
それなら、保護者の了解を得て近所へ買い物に来た少女として応じればよい。
「おうちは近い?」
「はい」
「住所は言えるかな」
裕司の指先が冷たくなった。
住所そのものは言える。
しかし、その住所の住人として登録されているのは三十五歳の沖田裕司である。
警察官が確認すれば、現在の自分との関係を説明できない。
「家族から、知らない人に住所を教えないように言われています」
警察官が少し困ったように笑った。
「それは大事なことだね。でも、私は警察だから」
「制服を着ていても、本物かどうかは分からないと言われています」
警察官が目を瞬いた。
裕司は、言いすぎたかもしれないと思った。
しかし、ここで引けば、住所を答えなければならなくなる。
「手帳を見せてもらっても、子どもだけでは本物か判断できません」
「ずいぶん、しっかり教わっているんだね」
「家族が心配性なんです」
存在しない家族の教育方針を、その場で作る。
完全な嘘ではないように話すことが重要だった。
「では、おうちの人へ電話できる?」
「今は仕事中なので、電話へ出られません」
「連絡してから出てきたの?」
「はい」
「何時頃に帰ると伝えたのかな」
「昼までには戻ると伝えました」
警察官が腕時計を見る。
「では、もう帰るところ?」
「はい」
「家の近くまで一緒に行こうか」
「必要ありません」
反射的に強い声が出た。
警察官の表情が少し変わる。
裕司はすぐに言葉を加えた。
「家族から、一人のときは知らない人を家まで案内しないように言われています」
「私は警察官だよ」
「それでも、家を教えない約束です」
「名前だけなら教えられる?」
「名前も、家族の許可がなければ教えません」
「学校は?」
「同じです」
答えられないのではない。
教えてはいけないと言われている。
その形を崩さなければ、慎重な家庭で育てられた子どもとして通せるかもしれない。
警察官はしばらく考えていた。
裕司は、さらに質問された場合の答えを組み立てる。
保護者の名前。
通っている学校。
学年。
住所。
どれか一つでも具体的に確認されれば、説明は破綻する。
「家へ戻ったら、家族から交番へ電話させます」
裕司は自分から提案した。
「連絡できる?」
「はい」
実際に連絡するつもりはない。
相手が確認を求める前に、こちらから確認可能な状況を装う。
仕事上の交渉で覚えた方法だった。
警察官は裕司を見つめた。
「分かった。では、今日はまっすぐ帰ってね」
「はい」
「次からは、できればおうちの人と一緒に出てね」
「伝えます」
伝える相手は、自分しかいない。
「車にも気をつけて」
「分かりました」
裕司は素直に頭を下げた。
「失礼します」
警察官も軽く手を上げた。
**********
裕司は歩き始めた。
走らない。
振り返らない。
歩幅を乱さない。
背中へ視線を感じた。
警察官が見ている状態で、自宅の建物へまっすぐ入ることはできない。
住居を特定される可能性がある。
裕司は一度角を曲がり、遠回りをした。
しかし、道を変えれば、家の方向が分からないように見えるかもしれない。
どの行動を選んでも、不審に思われる気がした。
「落ち着け」
裕司は小さく言った。
「もう会話は終わった」
警察官は追ってきていない。
名乗っていない。
住所も教えていない。
保護もされなかった。
切り抜けた。
頭では理解できている。
身体は納得していなかった。
胸が痛いほど強く鳴っている。
呼吸が浅い。
指先が冷たい。
一か月かけて慣れたはずの歩行まで、急に不安定になった。
マンションの周りを一周し、入口まで戻ってきた。
何度も周囲を確認し、警察官がいないことを確かめる。
それからマンションへと入った。
***********
階段を上る途中、足へ力が入らなくなった。
裕司は手すりをつかみ、その場で呼吸を整えた。
仕事では、もっと複雑な問題へ対応してきた。
取引先から責任を問われたこともある。
障害の原因が分からず、一晩中調査したこともある。
それでも、警察官から名前と住所を尋ねられただけで、まともに階段を上れなくなっていた。
自室へ戻る。
鍵を閉める。
ドアチェーンをかける。
取っ手を引く。
もう一度、施錠を確認する。
裕司は玄関の扉へ背を預け、その場へ座り込んだ。
「危なかった」
口八丁で切り抜けた。
相手が知りたいことを考え、必要な情報だけを与えた。
警察官に悪意はなかった。
裕司を捕まえようとしたわけでもない。
学校にいるはずの少女が一人で歩いていたため、安全を確認しただけである。
それが、最も怖かった。
悪意のある人間を避ければよいのではない。
善意の大人から見ても、裕司は保護を必要とする子どもにしか見えなかった。
「次は、無理だ」
今日の警察官が、家族への確認を強く求める人物だったら。
交番まで同行すると言われたら。
身元を確認できるまで帰せないと言われたら。
児童相談所へ連絡されたら。
どこかで説明が破綻していた。
「もう出ない方がいい」
裕司は玄関へ座ったまま、呟いた。
*************
身体の問題だけなら、外出はできた。
歩ける。
商品を選べる。
支払いもできる。
荷物を持って帰れる。
一か月をかけ、現在の身体は日常生活へ順応し始めていた。
しかし、社会の中では違った。
どれほど落ち着いて話しても。
成人と同じ判断力があっても。
仕事を続けていても。
外から見えるのは、学校へ行かず、平日の昼間に一人で歩く少女だった。
しかも金髪碧眼で、周囲の視線を集めやすい。
昼間なら安全だと思った。
実際には、昼間だからこそ姿がよく見えた。
人通りがあるからこそ、誰かの注意を引いた。
「身体へ慣れれば、それで終わりじゃないんだな」
裕司は鞄から電池を取り出した。
外出の目的は達成した。
それでも、その一度の外出によって、裕司は外へ出られなくなった。
**************
それ以降、裕司はゴミ出しを除き、ほとんど自宅の外へ出なくなった。
食品も日用品も、通販と配食サービスでそろえた。
可能な限り置き配を利用する。
配達完了の通知が届いても、すぐには扉を開けない。
ドアスコープから廊下を確認し、足音が完全に聞こえなくなってから荷物を引き入れる。
現在の身体へ合う服。
軽い調理器具。
浴室で使う低い椅子。
滑り止めのマット。
長い髪の手入れに必要な物。
すべて、画面の中で選んだ。
ネットショッピングなら、保護者の所在を聞かれない。
平日の昼間に一人で買い物をしている理由も説明しなくてよい。
金色の髪を見られることもない。
少女の声を聞かれることもない。
支払いが行われ、届け先が存在すれば、商品は届いた。
便利だった。
安全でもあった。
しかし、それだけが理由ではない。
外へ出るのが怖かった。
警察官に呼び止められた日の声が、頭から離れなかった。
「今日は学校、お休み?」
悪意のない問いだった。
だからこそ、同じことはいつでも起こり得る。
裕司は自分の行動を合理化した。
通販の方が価格を比較しやすい。
仕事の時間を確保できる。
重い商品も玄関まで届けてもらえる。
現在の身体では、荷物を運ぶ負担を減らす必要がある。
身元を知られる危険も避けられる。
どれも事実だった。
しかし、すべてではなかった。
怖いから出られない。
それを認めれば、自分が弱くなったように感じた。
だから裕司は、安全確保、効率化、身元保護という言葉へ置き換えた。
鍵を開ける自由はある。
誰かから外出を禁止されたわけでもない。
それでも玄関の前へ立つと、指が動かなくなった。
扉の向こうには、自分が何者なのかを説明しなければならない世界があった。
部屋の中であれば、沖田裕司として働ける。
銀行口座も使える。
仕事のメールも届く。
取引先も、裕司を以前と同じ成人男性として扱う。
外へ出た瞬間、そのすべてが通用しなくなる。
裕司は、その境界を越えることを避けるようになった。
**********
変化から二か月が過ぎる頃には、裕司は鏡に映る姿を見ても驚かなくなっていた。
自分の顔だと思えるようになったわけではない。
ただ、見慣れただけだった。
朝になれば髪を梳かし、その日の服を選ぶ。
仕事がある日は、家の中にいるだけでも身なりを整える。
新しい身体での動きにも慣れ、転ぶことはほとんどなくなった。
椅子や踏み台を使えば、高い場所へ置いた物も取れる。
重い荷物は持ち上げず、床の上を滑らせる。
配達の受け取りはすべて置き配にし、インターホン越しの会話も短く済ませる。
一つずつ工夫することで、生活の不便や不安は減っていった。
一方で、裕司が外へ出る回数も減っていた。
ゴミ出しを除けば、自宅の玄関を越えることはほとんどない。
窓から外を見ることはあっても、自分がそこを歩く姿は想像しなかった。
外へ出る理由がない以上、危険を冒す必要もない。
ある日の夕方、祖母のハツから電話がかかってきた。
裕司は画面に表示された名前を見て、身体を固くした。
メッセージなら文章で返せる。
電話では、この声を隠せない。
通話用のボイスチェンジャーを準備している間に、呼び出しは切れた。
すぐにメッセージが届いた。
『忙しいのかしら。また時間のあるときに電話をください』
裕司はしばらく画面を見つめた。
ボイスチェンジャーを使えば、電話で話すことはできる。
しかし、仕事用に調整した声をハツが聞けば、違和感を覚えるかもしれない。
長く話しているうちに、変換が乱れる可能性もある。
裕司は理由を考えた。
『今、仕事が立て込んでる。落ち着いたら連絡する』
そう返信すると、ハツからすぐに返事が届いた。
『分かりました。身体には気をつけてね』
裕司は『ありがとう』とだけ返した。
電話を避けたのは、その日が初めてではなかった。
変化してから、ハツからの電話には一度も出ていない。
仕事が忙しい、少し体調が悪い、生活の時間帯がずれていると説明し、そのたびにメッセージだけを返していた。
今まで細く続いていた関係は、さらに細くなっていた。
それでもハツは、裕司を問い詰めなかった。
裕司は、そのことに安心すると同時に、少しだけ寂しさも感じた。
ただし、自分から電話をかけることはしなかった。
何も問題は起きていない。
生活も仕事も維持できている。
助けを求める理由はない。
裕司はそう考え、スマートフォンを伏せた。
変化から三か月が過ぎた日、裕司は朝から部屋の片づけをしていた。
季節が変わり、以前の身体で使っていた服を整理する必要があった。
着られなくなったジャケットやシャツを、クローゼットの奥へ移す。
捨てるつもりはなかった。
いつ元へ戻っても困らないよう、必要な服は残しておく。
ただし、現在使っている小さな服と混ざらないように分けて収納した。
クローゼットの右側には、沖田裕司が以前着ていた服が並んでいる。
左側には、現在の身体へ合わせて購入した衣服が並んでいた。
二つの生活が、同じ収納の中で分けられている。
裕司は両方を見比べた。
三か月前には、左側の服がこれほど増えるとは思っていなかった。
最初は数日分あれば十分だと考えていた。
すぐに元へ戻る可能性があると思っていたからだった。
しかし、季節に合わせた上着や寝間着、予備の服を買い足すうちに、現在の身体用の衣服はクローゼットの半分近くを占めるようになっていた。
裕司は収納を閉じた。
その日の仕事も、いつもどおり始まった。
メールを確認し、依頼内容を整理する。
ボイスチェンジャーの動作を確認し、午後の会議へ備える。
会議では誰も裕司の変化に気づかなかった。
配食サービスの担当者も、注文者がどのような姿をしているか知らない。
通販会社は、代金が正しく支払われている限り、購入者の事情を気にしない。
銀行口座も正常に使えている。
税金も公共料金も、自動で支払われている。
裕司は、自分の生活が完全に再構築されたと判断した。
原因が分からなくても、生活が成立するのであれば、急いで答えを求めなくてもよい。
裕司は仕事を終えると、新しく整えた部屋を見回した。
現在の身体に合う椅子があり、必要な場所には踏み台が置かれている。
食器や食品も手の届く棚へ移し、服や生活用品も十分にそろえた。
最初の日に感じた恐怖は、以前より薄くなっていた。
三か月間、誰の助けも借りずに生活できた。
「本当に、何とかなったな」
裕司は、誰もいない部屋で呟いた。
最初の朝、自分一人で何とかできると言い聞かせた。
その言葉は、今では強がりではなくなっているように思えた。
一人でも生活できる。
誰かに事情を話さなくても、生きていける。
裕司はその確信によって、不安を抑えることができた。
しかし同時に、その確信は、助けを求めるという選択肢を裕司の中から少しずつ消していた。
今の裕司は、そのことを問題だとは思っていなかった。




