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名もなき器 名前を呼ぶまで  作者: 舞
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第二話 届いた服

翌朝、沖田裕司はインターホンの音で目を覚ました。

枕元へ手を伸ばしてスマートフォンを確認すると、時刻は午前九時を少し過ぎていた。


昨夜はなかなか眠れなかった。

明け方近くまで、自分の身体に起きた変化について調べていた。

成人男性が突然子どもになった事例。

一夜にして性別や容姿が変化する病気。

急激な若返り。

記憶を保ったまま別人の身体になる現象。

検索する言葉を何度も変えたが、表示されるのは創作作品か、根拠の怪しい記事ばかりだった。

医学的な情報に絞ると、思春期や染色体に関する疾患、自分の性別に対する認識についての記事が表示された。

どれも、裕司の状況には当てはまらない。

身体が変わったと思い込んでいるのではなかった。

実際に、自分の身体が別人のものへ変わっている。


昨夜は不安に押されるように検索を続けたが、納得できる情報を一つも得られないまま眠ってしまったらしい。

朝になれば元へ戻っているかもしれないという淡い期待も、目覚めた瞬間に消えた。

視界へ入るのは細く小さな手だった。

枕には長い金髪が広がっている。

身体を少し動かすだけで、頬や首へ髪がまとわりついた。

インターホンがもう一度鳴った。

裕司は布団を押しのけ、身体を起こした。

「はい」

反射的に返事をしてから、すぐに口元を押さえた。

室内へ響いたのは、昨日から聞き慣れようとしている少女の声だった。

玄関の外まで届いたはずはない。

それでも、自分以外の誰かが声を出したように感じられた。


インターホンの画面には、帽子をかぶった配達員が映っていた。

昨日注文した衣服が、予定どおり届いたらしい。

以前なら、何も考えず玄関を開けていただろう。

しかし、現在の姿を見られるわけにはいかない。

男性の名義で注文しているはずの部屋から、見知らぬ金髪の少女が出てくれば、相手が不審に思う可能性は十分にある。

裕司はインターホンへ近づき、通話ボタンを押した。

「そこに置いてください」

ボイスチェンジャーを通していないため、やはり少女の声が出た。

『置き配でよろしいですか?』

「はい。お願いします」

一瞬だけ間が空いた。

子どもの声だったことを不審に思ったのかもしれない。

単に返事を聞き取るために黙っただけとも考えられたが、裕司には判断できなかった。

『……かしこまりました』

配達員は玄関脇へ荷物を置き、端末を操作してから立ち去った。

裕司はインターホンの画面を見続けた。

配達員が廊下の角を曲がり、完全に姿が見えなくなるまで待つ。

すぐには扉を開けなかった。

外から足音が聞こえないことを確認してから、ようやく玄関へ近づいた。

ドアチェーンを外し、扉をわずかに開ける。

隙間から外を確認する。

誰もいない。

裕司は身体が通る程度まで扉を開け、置かれていた段ボール箱を引き寄せた。

以前の身体なら、軽く持ち上げられるはず重さだったはずだ。

ところが、現在は両腕で抱えるだけでも苦労した。

箱が視界を塞ぎ、足元が見えなくなる。

このまま運べば、何かにつまずいて転ぶ可能性が高かった。

「重いな……」

裕司は持ち上げることを諦めた。

床の上を滑らせ、少しずつ室内へ移動させる。

段ボールの底が擦れる音を立てた。

わずかな距離しか動いていないのに、腕が重くなり、息も上がっていた。

単純に体力が落ちたというより、現在の身体に適した力の使い方を理解していないのだろう。

以前と同じ感覚で動こうとするたびに、物の重さや距離を見誤る。

裕司は玄関で扉を閉め、鍵とドアチェーンをかけた。

それから箱を寝室まで運んだ。


**************


床に座り、段ボール箱を見つめる。

少し前まで意識する必要さえなかった動作が、今では一つずつ問題になっていた。

ベッドから降りるだけでも注意しなければならない。

棚へ手を伸ばしても届かない。

荷物を持ち上げれば、身体ごと振り回される。

洗面台を使うには椅子が必要で、仕事用の椅子に腰かければ足が床から浮いてしまう。


これまで自分に合わせて整えてきた生活環境が、たった一晩で自分を拒むようになっていた。

それでも、問題が具体的であるなら対処できる。

裕司はカッターナイフを探そうとして、途中で手を止めた。

現在の小さな手で刃物を以前と同じように扱えば、力加減を誤りケガをするかもしれない。

代わりにハサミを用意した。

刃先を自分へ向けないよう注意しながら、箱を閉じているテープを慎重に切った。

箱の中には、昨日注文した服が入っていた。

裕司は一着ずつ袋から取り出し、ベッドの上へ並べていった。

濃い灰色のパーカー。

白と紺のシャツ。

黒に近いパンツ。

無地の部屋着。

落ち着いた紺色のスニーカー。

子ども服として販売されていたものの、派手な柄や装飾は避けている。

見た目は、それほど幼くなかった。

問題はサイズだった。

裕司は昨日、メジャーを使って現在の身体を測った。

しかし、慣れない身体を一人で採寸したため、正確だったという自信はない。

パーカーを手に取り、襟元のタグを確認する。

身体へ当ててみると、少し大きいようにも見えた。

「小さいよりはましか」

裕司は、昨日から着ていた大人用のTシャツへ手をかけた。

頭から引き抜こうとすると、布が腕や髪へ絡みついた。

特に長い髪が邪魔になり、途中で視界が完全に塞がれる。

焦ってTシャツを引っ張ると、襟へ髪を巻き込んだ。

「痛い、痛い!」

慌てて力を緩め、絡んだ髪を少しずつ外す。

どうにかTシャツを脱いだ頃には、金髪が大きく乱れていた。

「面倒すぎるだろ……」

先に髪をまとめるべきだった。

昨日までは、服を着替えるために髪の位置まで考える必要はなかった。

裕司は髪を片手で後ろへ押さえ、もう片方の手で新しいシャツを着た。

シャツには少し余裕があったものの、大きすぎるほどではない。

続いてパンツを試す。

丈はほぼ合っており、腰回りにも余裕があった。

少なくとも、歩いている途中でずり落ちる心配はなさそうだった。


***********


裕司は洗面所へ向かった。

浴室用の椅子を踏み台代わりにし、鏡を確認する。

白いシャツと黒いパンツを組み合わせると、昨日の大人用の寝間着よりは、はるかにまともに見えた。

鏡の中には、身体に合った服を着た金髪碧眼の少女が立っている。

それでも、自分が女の子の服を着ているという実感は薄かった。

選んだ服には目立つ装飾もなく、色合いも落ち着いている。

男女のどちらが着ても、それほど不自然には見えないだろう。

ただし、何を着ても少女にしか見えないという事実は変わらなかった。

裕司は鏡の前で身体の向きを変え、袖や裾の長さを確認した。

「悪くないな」

口にした後、自分が服装の具合を真剣に確かめている状況へ、妙な可笑しさを覚えた。

原因も分からないまま少女になった翌朝に、服の色合いや丈を気にしている。

もっと取り乱した方が普通なのかもしれない。

泣き叫び、誰かへ助けを求める方が、人間らしい反応なのかもしれなかった。

大きな問題を先送りにして小さな問題から手を付けることは、現実逃避の始まりかもしれない。

しかし、混乱を続けても何も改善しない。

問題へ対処するには、扱える大きさまで一つずつ分解する必要がある。

身体が変わった理由は分からない。

元へ戻る方法も分からない。

それでも、服のサイズが合っているかどうかなら判断できる。

今日の仕事を続けられるかどうかも、実際に試せば確認できる。

裕司にとって、分かる部分から整えることが、理解できない状況へ向き合う唯一の方法だった。


**********


次にパーカーを試着した。

少し大きめではあるが、違和感があるほどではない。

鏡に映る少女にも、よく似合っていた。

「これならいいか」

そのとき、視界の端で金髪が揺れた。

服については何とかなりそうだったが、髪の扱いには手を焼いていた。

髪は胸元まで伸びており、朝起きたときから複雑に絡まっている。

外へ出る予定がなくても、このまま放置すればさらに扱いづらくなるだろう。

裕司は洗面台の棚から、以前使っていた短い髪用の櫛を取り出した。

髪へ通すと、途中で引っかかった。

「痛っ」

無理に引けば、頭皮まで引っ張られる。

裕司は鏡を見ながら、毛先から少しずつ梳かしていった。

しかし、腕が短くなったため、後頭部までうまく手が届かない。

髪の量も多く、一か所を整えている間に、別の場所が絡まってしまう。

しばらく続けると腕が疲れてきた。

裕司は椅子へ座り、櫛を洗面台へ置いた。

短く切れば楽になるだろう。

その考えは、何度も浮かんだ。

しかし、これほど長い髪を扱った経験はない。

自分で切れば失敗する可能性が高い。

理容室や美容室へ行けば、現在の姿を誰かへ見せることになる。

少なくとも、今すぐには選べなかった。

裕司はスマートフォンで、長い髪の手入れ方法を調べた。

解説動画を見ながら、髪をいくつかの束へ分ける。

絡まった部分は指でほぐし、毛先から少しずつ櫛を通した。

慣れない作業には時間がかかった。

十分ほど続けると、見た目はかなり整った。

髪を整えたことで、顔立ちが先ほどよりもはっきり見える。

大きな青い瞳。

整った鼻筋。

幼さの残る輪郭。

自分で認めるのは妙な気分だったが、容姿だけを客観的に評価するなら、かなり目立つ少女だった。

だからこそ、外へ出れば人目を引く。

日本人の保護者もいない金髪の少女が一人で歩いていれば、声をかけられる可能性が高い。

裕司は髪を後ろで一つにまとめようとした。

何度やっても左右がずれ、毛束が途中でこぼれる。

苛立ちながらやり直し、五回目でようやく見られる形になった。

「これも練習が必要だな」


*************


衣服と髪の手入れを終えた後、裕司は仕事用の机へ戻った。

服のサイズには大きな問題がない。

靴もおそらく合う。

髪の手入れには慣れる必要がある。

家具については、踏み台を追加で購入した方がよい。

食事は、以前と同じ配食サービスを利用できる。

ただし、配達員と直接顔を合わせないよう、今後は置き配を指定する必要があった。

裕司は通販サイトを開き、必要な物を順番に買い物かごへ入れた。

折りたたみ式の踏み台。

小さな手でも扱いやすい食器。

長い髪に適した櫛。

ヘアゴム。

現在の身体に合う歯ブラシ。

仕事机で使う椅子。

浴室での転倒を防ぐマットも必要だった。

買い物かごの中身が増えるほど、以前の生活から離れていくように感じる。

それでも、感情だけを理由に必要な物を拒めば、生活が不便になるだけだった。

裕司はすぐに注文を確定せず、入浴も兼ねて浴室を確認することにした。

滑り止めマットだけで十分なのか。

ほかにも、現在の身体では使いにくい場所があるかもしれない。


**************


浴室の前に立つ。

風呂に入ること自体は、以前と変わらない日常の一部だった。

身体を清潔に保つ必要も理解している。

しかし浴室は、三十五歳の沖田裕司が使うことを前提としていた。

椅子が高い。

鏡も、棚も高い。

浴槽の縁は、現在の身体には大きな段差だった。

以前は意識すらしなかった場所が、今では転倒事故の原因になり得る。

何より、この家には裕司しかいない。

浴室で転倒しても、呼べば助けに来てくれる人はいなかった。

「入る前に、全部確認するしかないな」

裕司はメモへ、確認事項を書き始めた。

必要な物を手の届く位置へ移す。

濡れた床では無理な姿勢を取らないようにする。

浴槽へ無理に入らない。

入浴後、床へ残った水を拭く。

スマートフォンは脱衣所の手が届く場所へ置く。

浴室へ入り、乾いた状態でシャンプーと石けんを棚から下ろす。

濡れた後で背伸びをして取らないようにするためだった。

続いて、浴室の椅子へ座ってみる。

足裏が安定して床へ着かなかった。

身体を前へずらせば届く。

しかし、その姿勢では椅子ごと倒れる可能性がある。

「これは使えない」

裕司は椅子を壁際へ寄せた。

浴槽の縁へ手を置き、片足を少し上げる。

それだけで身体が不安定になった。

浴槽の中はさらに滑りやすい。

入ることはできても、安全に出られる保証がない。

「今日はシャワーだけにする」

誰に相談するでもなく、自分で決めた。

湯船へ入れないことには不満があった。

しかし、一人暮らしでは、できるかどうかだけでなく、失敗したときに一人で対処できるかまで考えなければならない。


**********


裕司は脱衣所へ戻り、必要な物を準備した。

タオルに着替え。

それに脱水時の飲み水。

スマートフォンは、浴室の扉を開ければ手が届く場所へ置いた。

緊急時にすぐ通報できることも確認する。

家には誰もいない。

見ている人間もいなかった。

それなのに、裕司は浴室へ入った瞬間、反射的に顔をそらした。

正面の鏡に、現在の姿が映っていた。

「何で、俺が目をそらしてるんだよ」

思わず口にすると、鏡の中の少女も同じように口を動かした。

浴室へ響いたのは、幼い少女の声だった。

裕司はさらに気まずくなった。

知らない少女へ話しかけているようにも、自分自身へ言い訳しているようにも聞こえる。

鏡の中の少女と目が合っただけで、ひどく居心地が悪くなった。

裕司は、もう一度鏡を見た。

長い金髪。

青い瞳。

幼さの残る輪郭。

そして、女性的というよりも幼いと言うべきな体つき。

どこを探しても、三十五歳の沖田裕司の顔は見つからなかった。

そこへ今は、見覚えのない少女が映っている。

右手を上げる。

鏡の中の少女も手を上げる。

首を傾ける。

少女も同じように首を傾ける。

当然だった。

鏡に映っているのは自分なのだから、動きが一致しなければおかしい。

それでも、動きを確かめるほど、知らない少女に真似をされているようで落ち着かなかった。

「やめろ」

自分が動かした結果にもかかわらず、裕司は鏡へ言った。

鏡の中の少女も、同じ口の形で言い返す。

自分一人で何をしているのかと思い、今度は別の意味で見ていられなくなった。

「馬鹿みたいだな」

知らない姿になった自分と、浴室の鏡を挟んでにらみ合っている。

客観的に考えれば滑稽だった。

それでも笑うことはできない。

鏡を見なければよい。

そう考えて視線をそらすと、自分が意識的に逃げていることだけは分かってしまう。

鏡を見るのも気まずい。

避け続けるのも気まずい。

目を閉じたまま入浴するわけにもいかない。

「誰もいないだろ」

裕司は、念を押すように言った。

確認するまでもない。

浴室にも、脱衣所にも、自分以外の人間はいない。

それでも、現在の姿を自分で見ることには、妙な後ろめたさがあった。

他人の生活を勝手にのぞいているような感覚に近い。

もちろん、この身体は現在の自分のものだった。

手を動かせば動く。

温度も痛みも、自分の感覚として伝わる。

頭では理解している。

理解することと、平然と受け止められることは別だった。

「俺なんだから、見ても問題ない」

声へ出してから、その言い分もおかしいと思った。

誰に許可を求めているのか。

誰へ問題がないと説明しているのか。

自分の身体について、自分に弁明している。

その事実が、さらに居心地を悪くした。

裕司は、鏡の中の顔だけを見た。

昨日から何度も確認している。

それでも、自分の顔だとは思えなかった。

鏡の中の少女も、気まずそうに眉を寄せている。

その表情には見覚えがあった。

納得できない問題を前にしたとき。

説明の矛盾を見つけたとき。

不安を他人へ悟られたくないとき。

以前の裕司も、同じように眉を寄せていた。

顔には面影がない。

それでも、そこへ浮かぶ感情まで他人のものではなかった。

「本当に、俺なんだな」

認めたというより、確認しただけだった。

少女になったことを受け入れたわけではない。

この姿を好きになったわけでもない。

鏡に映る少女と、自分の動作や感情がつながっている事実を確認したにすぎなかった。

裕司は鏡へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。

触って、何を確かめるつもりなのか分からない。

指紋を残すだけだと思い、手を引っ込める。

「何をやってるんだ、俺は」

今度こそ、自分でも少しだけ可笑しくなった。

小さく笑う。

しかし、笑い声まで少女のものだったため、すぐにやめた。

何をしても、現在の身体へ引き戻される。

声を出しても。

鏡を見ても。

髪が肩から落ちても。

昨日までの自分と同じ行動を取ったつもりでも、その結果だけが知らない少女のものになる。

裕司はシャワーを出した。

湯気が浴室へ広がる。

鏡の表面が、少しずつ白く曇っていった。

最初に輪郭が薄れた。

次に青い瞳が見えなくなり、最後には金色の髪だけがぼんやりと残った。

やがて、それも白い曇りの向こうへ消えた。

鏡に何も映らなくなると、裕司は明らかに安堵した。

その安堵へ気づき、また気まずくなる。

見えなくなっただけで、元へ戻ったわけではない。

問題を解決したのではなく、画面を隠しただけだった。

「逃げているわけじゃない」

苦しい言い訳だった。

曇った鏡へ向かって弁明している時点で、説得力もなかった。

裕司は指先で鏡の端を少しだけ拭った。

細い隙間の向こうへ、青い瞳が片方だけ現れた。

裕司は鏡から視線を外し、シャワーの温度を確認して自らの、少女になった体を洗い始めた。


*************


最も時間がかかったのは、長い金髪を洗うことだった。

以前の髪は短く、洗うにも乾かすにも手間はかからなかった。

現在は、毛先まで十分に濡らすだけでも時間がかかる。

一度に洗おうとすると、髪が絡まった。

シャンプーの量も分からず、以前と同じ感覚で手へ出した結果、明らかに多すぎた。

「使いすぎたな」

泡を流す時間が余計に増える。

顔を伏せると、濡れた髪が前へ落ちてきた。

手で払おうとしても、泡のついた指ではうまくまとまらない。

「面倒すぎる」

誰もいない浴室で文句を言う。

髪を短くすれば、管理は楽になる。

しかし、身体も声も容姿も、自分の意思とは関係なく変わった。

髪型まで、困ったという理由だけですぐに変えたくはなかった。

本当に短くしたいと思ったとき、自分の意思で選びたかった。


***************


シャワーを終えた後も、作業は続いた。

足元の水分をタオルで十分に取る。

脱衣所へ水を落とさない。

髪の水分を、こすらずタオルへ吸わせる。

ドライヤーを持ち上げた。

数分後、裕司は腕を下ろす。

「重い」

ドライヤー自体は、以前から使っていた物だった。

重いと感じたことはない。

しかし現在の腕では、長時間持ち続けるだけでも疲れる。

無理をすれば落とす可能性がある。

裕司はドライヤーを置き、少し休んだ。

途中で休む。

左右の手を交互に使う。

髪をいくつかに分け、乾かす範囲を狭くする。

一度に終わらせようとしない。

何度も中断しながら、ようやく髪を乾かした。


************


すべてを終えると、裕司は確認事項の紙を広げた。

実際に困ったことを追記する。

『現在の椅子は使用しない。

滑り止めのついた低い椅子が必要。

浴槽は補助具を用意するまで使わない。

シャンプー用の低い棚が必要。

吸水性の高いタオルを用意する。

ドライヤーは途中で休みながら使う。

入浴前に髪を梳かす。

入浴前後に水分を取る。』

以前は、風呂へ入るだけで手順や注意について考える必要などなかった。

しかし現在の裕司は、この身体の扱いについて初心者だった。

分からないことを認めなければ、事故につながる。

「必要な物を追加するか」

裕司は仕事机へ戻り、買い物かごを開いた。


************


検索欄へ必要な言葉を入力する。

低い浴室椅子。

滑り止め。

軽量。

小柄な人向け。

表示された商品を、価格だけでなく寸法や材質でも比較した。

「子ども用、か」

検索結果には、幼児向けの明るい色の商品も多かった。

動物の絵。

花柄。

丸みのある装飾。

現在の身体には、そうした商品の方が合う可能性もある。

しかし、自分のために子ども用の商品を注文することには抵抗があった。

誰かに見られるわけではない。

注文をしたら自動発注だ。販売店の人間も、事情を気にしない。

それでも購入履歴に「子ども用」と表示されるだけで、現在の立場を突きつけられたように感じた。

「安全性とは関係ない」

裕司は自分へ言い聞かせた。

年齢区分ではなく、寸法と機能で選べばよい。

最終的に、装飾のない白い浴室椅子を選んだ。

足には滑り止めがついている。

現在の脚の長さを測り、座った際に足裏が床へ届くことも確認した。

次に滑り止めマットを選ぶ。

浴室全体へ敷く大きな物は、掃除と乾燥に手間がかかる。

椅子とシャワーを使う範囲だけを覆う、小さめの物にした。

低い収納棚。

吸水タオル。

持ち手の軽いドライヤー。

髪を分けて乾かすための道具。

一つずつ候補へ追加する。

まだ動くドライヤーを買い替えることには抵抗があった。

「ぜいたくではない」

現在の身体に合わない道具を使い続け、事故を起こす方が問題だった。

浴槽へ出入りするための手すりも検索した。

壁へ穴を開ける物は、賃貸住宅では勝手に設置できない。

吸盤式は、固定が外れた場合に危険だった。

浴槽の縁へ挟む形式もあるが、現在の浴槽へ取り付けられるか分からない。

裕司は、手すりの購入を保留した。

「これは自己判断で買わない方がいい」

当面はシャワーだけで済ませる。

湯船へ入れないことは不便だが、生命に関わる問題ではない。

**************


裕司は買い物かごの内容を確認した。

服。靴。踏み台。食器。櫛。

ヘアゴム。歯ブラシ。浴室椅子。

滑り止めマット。収納棚。吸水タオル。軽いドライヤー。

注文する物が増えるほど、沖田裕司の生活が別人の生活へ置き換えられていくように見えた。

それでも、選んでいるのは裕司自身だった。

誰かから押しつけられたわけではない。

現在の身体で安全に暮らすため、自分で必要だと判断した物を選んでいる。

「必要経費だ」

誰に説明するでもなく、裕司は言った。

注文を確定する。

画面には、

『ご注文を承りました』

と表示された。

店へ行かずに済む。

子ども用の商品を手に取り、周囲から見られることもない。

店員から保護者の所在を尋ねられることもない。

少し安心した。

同時に、画面の向こうへ隠れている自分へ、わずかな寂しさも感じた。

以前なら、必要な物があれば普通に外へ出ていた。

現在は、商品を買うだけでも正体を疑われない方法を優先している。

ネットショッピングは便利だった。

ただし、便利だから選んだだけではない。

外へ出た際、現在の姿を誰かに見られることが怖かった。

裕司はその事実に気づいていたが、今すぐ克服するつもりはなかった。

まずは、安全に暮らせる環境を整えることが優先だった。


************


注文を終えると、裕司は仕事用のパソコンへ向かった。

昨日使ったボイスチェンジャーを起動し、設定を確認する。

加工後の声が不自然であれば、取引先から何か言われるかもしれない。

過去の会議記録から自分の声を取り出し、さらに現在の加工音声と比較した。

録音の中では、裕司が作業の進捗を説明している。

落ち着いた、やや低い男性の声だった。

現在の自分が同じ言葉を発すると、加工前の幼い少女の声が返ってくる。

「進捗についてご報告します」

加工した声を再生する。

以前の声とは完全に一致しない。

それでも、喉の調子や機材の違いで説明できる程度には近づいていた。

設定を保存したところで、メールの受信音が鳴った。

取引先からだった。

昨日の会議で確認した内容について、追加の質問が届いている。

裕司は、いつもどおり返信を書き始めた。

文章であれば、身体が変わっても何も問題はない。

言葉遣いも、専門知識も、判断力も以前のままだった。

文章を読み返し、誤字がないことを確認して送信する。

数分後、取引先から短い返事が届いた。

『迅速なご対応ありがとうございます。引き続きよろしくお願いいたします』

裕司は、その一文をしばらく見つめた。

相手は何も気づいていない。

裕司が昨日とは異なる身体になったことも、椅子へ座るだけで苦労していることも知らない。

相手にとっては、以前と同じ担当者が、以前と同じように仕事をしているだけだった。

同じメールアドレスを使い、同じ知識を持ち、同じ仕事をこなせば、画面の向こうでは沖田裕司として扱われる。

顔を見せる必要はない。

身体について説明する必要もない。

相手が求めているのは、期限までに成果物を提出する人間だった。

それなら、この姿でも仕事は続けられる。


**********


昼過ぎになると、再びインターホンが鳴った。

配食サービスの配達員だった。

『いつもありがとうございます。お食事をお届けに来ました』

昨日までは、玄関で直接受け取っていた。

画面に映る配達員には見覚えがある。

相手も、これまで何度か裕司の姿を見ているはずだった。

現在の姿を見せれば、何者なのかと尋ねられる可能性がある。

裕司は通話ボタンを押した。できるだけ低く声を出すように努める。

「玄関の前へ置いてください」

『置き配ですか?』

「はい」

『分かりました。こちらへ置いておきますね』

それ以上の会話はなかった。

配達員が立ち去った後、裕司は玄関から荷物を回収した。

受け取った容器を冷蔵庫へ入れようとして、上段には手が届かないことを思い出す。

背伸びをしても、指先がかろうじて触れるだけだった。

椅子を持ってくることも考えたが、キッチンの床は滑りやすい。

身体の使い方へ慣れていない状態で、高い場所へ上るべきではない。

裕司は上段を使うことを諦めた。

下段の食材を一度外へ出し、頻繁に使う食品と飲み物を手の届く場所へ移す。

食器棚も同じだった。

皿を重ねて持つと腕が震える。

一度に運ぶ量を減らし、何度も往復する。

すべてを終えた頃には、額に汗が浮かんでいた。

「これだけで疲れるのかよ」

裕司は床へ座り、下段へ移した水を飲んだ。

この身体がどれほどの力を持っているのか、まだ分からない。

成人男性だった頃と比べれば、力も体力も大きく低下している。

身体の使い方に慣れていないことも、余計な疲労につながっているのだろう。

裕司は生活上の注意事項を書き加えた。

『以前と同じ行動を無理に続けない。

高い場所へ上る際には、安定した踏み台を使う。

刃物や火を扱う前に、現在の握力や身体感覚を確認する。

疲れを感じた場合は作業を中断する。

重い物は一度に運ばない。』

以前は、これほど細かく自分の生活を管理したことはなかった。

多少無理をしても、眠れば回復した。

食事を抜き、睡眠時間を削って仕事を優先しても、すぐに深刻な問題が起こることはなかった。

しかし現在は、この身体にとって何が安全で、何が危険なのか分からない。

自分自身を、仕様の分からない機械のように扱っている。

壊さないためには、慎重に動かすしかなかった。


*************


午後の仕事は、これまでと大きく変わらなかった。

プログラムを書き、動作を確認し、不具合の原因を探す。

作業へ集中している間だけは、身体が変わったことを忘れられた。

画面の中では、これまでと同じコードが動いている。

正しい命令を書けば動き、間違った命令を書けば止まる。

裕司の外見が何者であっても、その原則は変わらなかった。

夕方になり、予定していた作業を終えた。

取引先から不審に思われた様子もない。

裕司は椅子から降り、軽く身体を伸ばした。

長時間座っていたため、肩と腰が痛む。

足が床へ届かない姿勢も負担になっていたらしい。

裕司は通販サイトを開き、子ども向けの学習椅子を探した。

鮮やかな色の商品や、動物の絵が描かれた商品が並ぶ。

眉を寄せながら、できるだけ簡素なデザインを探す。

最終的に、濃い茶色の木製椅子を選んだ。

座面と足置きの高さを調節できるため、現在の身体でも安定した姿勢を保てる。

注文を確定した後、購入履歴へ目を向けた。

子ども服。

現在の身体に合う日用品。

踏み台。

長い髪用の櫛。

ヘアゴム。

浴室椅子。

滑り止めマット。

子ども用の学習椅子。

購入者の名義は、すべて沖田裕司だった。

事情を知らない人間が履歴を見れば、三十五歳の独身男性が突然、大量の子ども用品を買い始めたように見えるだろう。

一瞬、不安が胸をよぎった。

しかし、通販会社から購入理由を尋ねられることはない。

代金を支払い、荷物を受け取ることができれば取引は成立する。

誰かが自分の購入履歴を調べる理由もない。

裕司は画面を閉じた。


**************


翌日、玄関前に二つ目の荷物が届いた。

今回からは置き配指定にしている。

よっぽどなことがない限り、インターホンを押されることもない。

通知を確認してから、ドアスコープをのぞく。

廊下に人がいないことを確かめ、扉を少しだけ開けた。

箱を室内へ引き入れる。

箱は大きく、持ち上げれば足元が見えなくなる。

裕司は無理に運ばず、玄関で開封した。

中身を一つずつ取り出す。

浴室椅子。

滑り止めマット。

低い棚。

吸水タオル。

軽いドライヤー。

注文した物はすべてそろっていた。

説明書を確認し、使用前に一度洗う。

浴室へ運び、寸法を確かめる。

椅子へ座ると、足裏が床へ安定して着いた。

「計算どおりだ」

少しだけ満足した。

マットは、椅子とシャワーを使う範囲へ収まっている。

棚も手を伸ばしすぎずに使えた。

軽いドライヤーは、以前の物より長く持っていられそうだった。


*************


二度目の入浴は、最初より落ち着いて行えた。

必要な物は、すべて手の届く位置へ置いている。

椅子へ座れば、足裏が床から離れない。

滑り止めマットも動かなかった。

浴槽には湯を張らず、シャワーだけで済ませる。

鏡には、最初から湯気がついていた。

裕司は無意識に安心した。

そのことへ気づき、少しだけ眉を寄せる。

鏡の中の少女を見ずに済むから安心している。

まだ、その事実を素直には認めたくなかった。

裕司は鏡の端を指先で細く拭った。

隙間の向こうへ、青い瞳が片方だけ現れた。

「確認するだけだ」

誰に向けるでもなく言う。

髪の位置。

表情。

目立った異常がないこと。

必要なことだけを確認する。

すべてを直視する必要はない。

裕司は鏡から視線を外し、髪を洗い始めた。

入浴前に丁寧に梳かしていたため、前回ほど絡まらない。

シャンプーの量も減らした。

洗い流す時間が短くなる。

入浴後は、吸水タオルで髪の水分を取った。

軽いドライヤーを左右の手で交互に持つ。

途中で一度休む。

無理に一気に終わらせない。

問題なく髪を乾かすことができた。

「改善できたな」

裕司は一覧へ結果を記録した。

椅子の高さは問題なし。

マットは、もう少し手前へ移した方がよい。

棚は安定している。

ドライヤーは軽量化の効果がある。

次回は、髪をさらに細かく分けて乾かす。

生活上の不具合を見つけ、対策し、結果を確認する。

仕事で行ってきた手順と同じだった。

ただし、現在調整しているのはプログラムではない。

自分自身の生活だった。


************


夜になると、裕司は新しい部屋着へ着替えた。

先に髪をまとめておいたため、朝のように服へ絡まることはなかった。

それでも鏡で確認すると、結び目が少し横へずれている。

裕司は髪をほどき、もう一度結び直した。

二度目も納得できず、さらにやり直す。

三度目で、ようやく左右の偏りがなくなった。

「こんなものか」

誰かに見せる予定があるわけではない。

それでも、適当な状態で済ませることはできなかった。

裕司は洗面所を出ると、寝室へ戻った。

昨日まで着ていた成人男性用の衣服は畳み、クローゼットの奥へ片づけてある。

現在の身体では、もう着ることができない。

それでも捨てる気にはなれなかった。

元へ戻れば、また必要になるかもしれない。

今は、そう考えておくしかなかった。


スマートフォンを見ると、祖母のハツからメッセージが届いていた。

『果物は食べましたか。傷む前に食べてくださいね』

先月送られてきた果物についての確認だった。

裕司は短い返事を入力する。

『食べたよ。ありがとう』

送信する直前に、指が止まった。

現在の状況を伝えるべきかもしれない。

ハツは、連絡の取れる数少ない親族だった。

勇一とは違い、両親の離婚後も裕司との交流を切らなかった。

誰かへ助けを求めるなら、ハツが最も可能性のある相手だった。

裕司は文章の続きを入力した。

『実は、少し困ったことが起きていて』

そこまで書き、手を止めた。

何を伝えればよいのか分からない。

朝起きたら、十歳ほどの金髪の少女になっていた。

そう書いても、冗談か、精神的な不調だと思われるだろう。

電話をすれば、現在の声を聞かれる。

直接会えば、この姿を見せることになる。

ハツが心配して警察や病院へ連絡すれば、裕司の身元を証明できない問題が表面化する。

今のところ、生活は維持できている。

仕事も続けられている。

必要な服も届いた。

浴室や台所も、現在の身体に合わせて整え始めている。

誰かへ知らせることで、状況が改善する保証はない。

それどころか、この自宅での生活を失う可能性もあった。

裕司は、追加した文章を削除した。

最初に書いた短い返事だけを送信する。

ほどなくして、ハツから返信が届いた。

『ちゃんと食べているなら安心しました。無理はしないでくださいね』

裕司は画面を見つめた。

無理をしているつもりはなかった。

今日一日、仕事を続けることができた。

必要な物をネットで注文し、安全な生活環境も整え始めている。

現在の身体での入浴も、一度目より安全にできた。

一人で対処できている。

裕司は短く入力した。

『大丈夫』

その一言を送信し、スマートフォンを枕元へ置いた。


*************


照明を消すと、部屋が暗くなった。

裕司は布団へ入り、天井を見上げた。

身体も声も変わった。

これまで当たり前にできた動作にも、準備や工夫が必要になっている。

それでも生活は続いていた。

明日は、今日よりうまく動けるかもしれない。

数日たてば、長い髪の扱いにも慣れるだろう。

原因を調べる時間も、まだ十分にある。

今は誰かへ説明する必要がない。

枕の上へ広がった金髪が頬に触れた。

裕司は慌てず、手で払いのけた。

今日書いた確認事項を思い出す。

危険な場所から、一つずつ整える。

使えない物は、現在の身体に合う物へ置き換える。

困ったことは記録する。

次は、同じ失敗をしない。

それは、裕司が仕事で不具合へ対処してきた方法だった。

選んだ服も、浴室椅子も、滑り止めマットも、軽いドライヤーも、誰かから押しつけられた物ではない。

少女になったことを喜んでいるわけではなかった。

現在の姿を自分のものとして受け入れたわけでもない。

元へ戻るまで、現在の身体を壊さずに維持するため、自分で必要だと判断して選んだ。

「今の身体でできる方法を探せばいい」

裕司は暗い部屋で、小さく呟いた。

鏡の中にいた少女の表情を思い出す。

顔には面影がなかった。

それでも、その少女が眉を寄せる癖には見覚えがあった。

その事実は裕司を安心させた。

同時に、誰にも助けを求めないという選択を、さらに強く正当化していた。

明日も、いつもどおり仕事をすればよい。

そう考えているうちに、裕司はゆっくりと眠りへ落ちていった。

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