第一話 見知らぬ朝
沖田裕司は、一人で暮らすことを苦痛だと思ったことがなかった。
朝は自分の決めた時間に起きられる。
食事の時間を誰かに合わせる必要もなく、部屋の使い方について文句を言われることもない。
仕事まで自宅で完結するのだから、日常生活で他人と顔を合わせる機会はほとんどなかった。
裕司はフリーランスのエンジニアとして、企業から依頼されたシステムの開発や保守を請け負っている。
必要なのは、十分な性能を備えたパソコンと安定した通信回線、それから仕事上のやり取りを滞りなく進められる程度の社会性だけだった。
友人は少なく、恋人もいない。
人間関係が増えれば、そのぶん相手に合わせる必要が生じる。
休日の予定を空け、連絡に返事をし、ときには興味のない話にも付き合わなければならない。
一人なら、そうした煩わしさから自由でいられる。
それでも仕事は途切れず、生活に困らないだけの収入もある。
母親から相続した分を含め、貯金にも余裕があった。
裕司には、それで十分だった。
その朝、裕司は設定していたアラームが鳴るより少し早く目を覚ました。
枕元の時計は午前七時四十分を示していた。
最初に感じたのは、掛け布団の重さだった。
いつも使っているものなのに、身体の上へ分厚い毛布を何枚も重ねられたように感じる。
腕にも思うように力が入らず、布団へ押さえつけられているようだった。
寝返りを打とうとしたとき、何かが頬に触れた。
払いのけようと指でつまむと、それは細く柔らかな金色の髪だった。
首筋にかかる程度ではなく、胸元まで伸びている。
「……なんだ、これ」
自分の口から出た声を聞き、裕司は動きを止めた。
声が高い。
寝起きで少しかすれているにもかかわらず、聞こえてきたのは明らかに子供の声だった。
変声期を迎える前の少年というより、幼い少女の声に近い。
裕司は天井を見つめながら、昨夜の行動を思い返した。
酒は飲んでいない。
夕食には配食サービスで届いた鶏肉と野菜の弁当を食べ、その後はインスタントコーヒーを一杯飲んだだけだった。
特別に薬も飲んでおらず、体調に異常もなかった。
それなのに、布団の上へ出ているのは細くて白い腕だった。
片手を顔の前へ持ち上げる。
指が小さくなっている。
手のひらも、昨日までの半分ほどしかなかった。
爪や指の関節まで、裕司が長年見慣れてきたものとは違っている。
「待て」
そう口にしてみても、聞こえてくるのはやはり少女の声だった。
何かがおかしいというだけでは済まない。
裕司は掛け布団を押しのけようとした。
ところが腕には思うように力が入らず、普段なら簡単に持ち上げられる布団に苦戦した。
何度か身体をひねり、ようやく上半身を起こす。
その拍子に、着ていたTシャツの襟が肩からずり落ちた。
昨夜までは、自分の身体に合っていたはずだった。
それが今は、子供が大人の服を無理に着ているように余っている。
裕司は襟を押さえながら、ベッドの端まで移動した。
いつもの感覚で足を下ろしたものの、足先は床に届かなかった。
「は?」
状況を理解するより先に、身体が前へ傾いた。
裕司は慌ててシーツをつかんだ。
しかし、小さな手では身体を支えきれず、そのままベッドから転げ落ちた。
「痛っ……!」
肩から床へ落ち、鈍い痛みが走った。
ベッド自体はそれほど高くないため、大きな怪我にはならなかった。
それでも裕司はすぐには立ち上がれず、床に座り込んだまま自分の身体を見下ろした。
細い脚が、大きすぎるズボンの裾から伸びている。
記憶している身体の感覚と、実際の手足の長さがまるで一致しない。
腕も脚も短くなっており、重心まで変わっているため、身体そのものは軽いはずなのに思うように動かせなかった。
裕司は床へ手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
家具も部屋も昨日までと同じなのに、見る位置が変わっただけで別の場所に思える。
使い慣れた机は大きく、ドアノブも不自然なほど高く見えた。
裕司は壁へ手を添えながら、寝室を出た。
以前の歩幅で進もうとするたびに足が追いつかず、何度もよろめいた。
寝室から洗面所までの短い距離で、棚や壁へ数回肩をぶつけた。
ようやく洗面所へたどり着いたが、鏡には自分の顔が映らなかった。
正確には、金色の髪の上端だけが鏡の下へわずかに見えていた。
「嘘だろ……」
裕司は浴室から椅子を引っ張り出した。
椅子へ乗るだけの動作にも苦労した。
バランスを崩さないよう洗面台へ両手をつき、恐る恐る顔を上げる。
鏡の中には、見知らぬ少女がいた。
長い金髪が肩から胸元へ流れている。肌は白く、瞳は青みがかっていた。
顔立ちにも日本人らしい特徴はほとんど見当たらず、外国人の少女にしか見えない。
年齢は十歳前後だろうか。
どう見ても成人には見えなかった。
裕司が眉を寄せると、鏡の中の少女も同じように眉を寄せた。
右手を上げれば、少女も左手を上げる。
頬をつねると、鏡の中の頬が横へ引っ張られ、それと同時に確かな痛みが伝わってきた。
「誰だよ、お前」
少女は唇を動かし、同じ言葉を発した。
その声が自分の喉から出ているという事実を、裕司はすぐには受け入れられなかった。
夢かもしれないと思った。
自分の認識だけがおかしくなり、幻覚を見ている可能性も考えた。
しかし、頬にはつねった痛みが残っている。
洗面台に触れている手には陶器の冷たさが伝わり、先ほど床へ落ちた肩にも痛みが残っていた。
何より、鏡に映る少女の姿はあまりにも鮮明だった。
裕司は慎重に椅子から降りると、壁に手を添えながら寝室へ戻った。
ベッドの上に置いてあったスマートフォンを手に取る。
端末を顔の前へかざしたが、顔認証は失敗した。
当然だった。
鏡に映っていた顔は、登録されている沖田裕司の顔とは何一つ似ていない。
裕司は暗証番号を入力してロックを解除した。
指が小さくなったせいで、普段なら迷わない入力にも時間がかかった。
表示された時刻は午前八時五十二分で、日付も昨日から一日進んでいるだけだった。
長い間眠っていたわけではないらしい。
ニュースを確認しても、世界が変わった様子はなかった。
自分に起きた異変と関係がありそうな事件も報道されていない。
変わったのは世界ではなく、自分だけだった。
裕司は検索画面を開いた。
『朝起きたら子供になっていた』
『成人男性 突然 少女になる』
『身体 別人 原因』
思いついた言葉を次々に入力したが、表示されるのは創作作品や性転換手術、オカルトだといった記事ばかりだった。
自分と同じ事例など見つからない。
少なくとも、まともな情報源として信用できるものは一つもなかった。
裕司はスマートフォンをベッドへ置き、部屋を見回した。
仕事用のパソコンも、二台のモニターも、壁際の本棚も、昨日までと同じ場所にある。
机の端には、母親の写真が置かれていた。
写真の中の母は、少し困ったように笑っている。
その隣に立っている若い裕司は、カメラを向けられたことが気に入らないのか、わずかに顔をそらしていた。
母のしのぶは、裕司が成人してから亡くなった。
母の両親もすでに故人だ。親類も疎遠で把握している中で頼れるような人はいない。
父親の近藤勇一とは、長い間連絡を取っていない。
勇一の浮気が原因で両親は離婚し、裕司はしのぶに引き取られた。
勇一はその後、浮気相手と再婚し、別の家庭を築いた。
最後に勇一と顔を合わせたのは、しのぶの葬儀だった。
勇一は会場の入口で、焼香だけでもさせてほしいと言った。
裕司は拒絶した。
母親を裏切り、自分たちを残して別の家庭を選んだ男が、今さら母親の死を悼みに来たことが許せなかった。
『母さんは、あんたに来てほしいなんて言ってない』
あのとき自分が放った言葉を、裕司は今でも覚えている。
勇一はしばらく黙っていたが、やがて何も言わずに立ち去った。
追い返した判断そのものが間違いだったとは思っていない。
ただ、あれで本当に二度と連絡してこなくなるとは考えていなかった。
父親なら、一度拒絶されたくらいで諦めず、もう一度くらい何かを言ってくるものだと思っていた。
やはり、勇一から連絡が来ることはなかった。
裕司も、自分から連絡を取ろうとはしなかった。
「……今さら頼れるかよ」
吐き捨てた言葉は少女の声で響き、自分が意図した以上に弱々しく聞こえた。
スマートフォンには、父方祖母である近藤ハツの連絡先も残っている。
年に何度か電話で話し、季節の贈り物を送り合う程度の関係だった。
先月もハツから果物が届き、裕司は短い礼の電話をかけている。
両親が離婚した後も、ハツとの縁だけは切れなかった。
ハツは息子である勇一の浮気をかばわず、離婚後もしのぶと裕司を気にかけていた。
『勇一が悪いことと、裕司くんが私の孫であることは別でしょう』
ハツは以前、そう言っていた。
電話をすれば、話くらいは聞いてくれるだろう。
それでも裕司は、発信ボタンを押せなかった。
何と説明すればよいのか分からない。
自分は裕司だが、朝起きたら金髪の少女になっていた。
そう伝えたところで、いくらハツでも信じるとは思えなかった。
裕司は連絡先を閉じた。
次に警察への相談を考えたが、鏡に映っていた姿を思い出して、その選択肢も外した。
この姿で沖田裕司だと名乗っても、誰も信じないだろう。
運転免許証も、保険証も、マイナンバーカードも手元にある。
しかし、そこに記録されているのは三十代の日本人男性であり、現在の自分と一致する要素は何一つなかった。
警察を呼べば、裕司は身元不明の子供として保護される可能性が高い。
この部屋の住人について聞かれ、自分が本人だと答えても、まともには取り合ってもらえないだろう。
部屋の契約者へ連絡を取ろうとするかもしれない。
その電話を受けるべき本人は、ここにいる。
ただし、その事実を証明する方法はない。
「落ち着け」
裕司は、自分へ言い聞かせた。
理解できない事態に直面したときほど、状況を整理する必要がある。
原因の分からない不具合を前にして、ただ混乱しても問題は解決しない。
まず現状を確認し、できることとできないことを切り分ける。
そのうえで、優先順位の高い問題から対処すればよい。
仕事では、いつもそうしてきた。
裕司は仕事用の椅子によじ登った。
椅子も机も、今の身体には高すぎた。
座面へ腰を下ろすと両足が床へ届かず、中途半端な位置で揺れた。
不安定な姿勢のまま、パソコンを起動する。
パスワードは覚えている。
保存されているファイルも問題なく開ける。
プログラムの内容も理解でき、昨日まで進めていた作業についても覚えている。
記憶や思考力には異常がないらしい。
身体だけが、完全な別人へ変化している。
メールを確認すると、取引先から午前十時開始のオンライン会議について連絡が届いていた。
会議が始まるまで、一時間ほどしかない。
いつもならコーヒーを入れ、資料を確認し、開始時刻の五分前に参加する。
ただ、今日はコーヒーメーカーへ手が届くかどうかさえ怪しかった。
裕司は現在の声を確かめるため、意識して声を出した。
「ああ……」
何度聞いても、幼い少女の声だった。
この声で会議に出れば、別人が参加していると思われる。
体調不良を理由に休むこともできるが、明日になれば元へ戻るという保証はなかった。
今日だけ休んでも、同じ問題を先送りするだけになる。
裕司は引き出しからヘッドセットを取り出した。
以前、配信者向けのボイスチェンジャーを興味本位で試したことがある。
遊び半分ではあったものの、音声を加工する仕組みは理解していた。
複数のソフトを比較し、その中から使えそうなものを一つ選んで導入する。
試しに、発した声を低く加工して録音した。
「確認をお願いします」
再生すると、不自然に低い声がスピーカーから流れてきた。
「これは違うな」
裕司は設定を変更し、もう一度録音した。
「確認をお願いします」
今度は機械的な響きが強くなり、人間らしい声には聞こえなかった。
単純に音程を下げるだけでは足りない。
声の輪郭を変え、低音を補い、幼く聞こえる成分を抑える必要がある。
裕司は過去の会議記録に残っていた自分の声と聞き比べながら、細かな調整を繰り返した。
三十分ほど試したところで、以前の声とはやや異なるものの、通信越しなら音響機器の変更で押し通せそうな状態になった。
「これなら、何とかなるか」
裕司は少女の身体のまま、いつもの仕事用画面を開いた。
定刻になり、オンライン会議へ接続する。
カメラは普段から使用していないため、今日もオフにしたままだった。
『おはようございます』
取引先の担当者が、いつもと変わらない調子で挨拶した。
裕司は一瞬ためらった後、マイクを有効にした。
「おはようございます」
加工された声が、ヘッドセットから自分の耳へ返ってきた。
以前よりも少し高く、どこか人工的に聞こえる。
相手から違いを指摘されるのではないかと身構えたが、取引先は特に反応しなかった。
『それでは、昨日お送りした件から確認してもよろしいでしょうか』
「はい。こちらでも確認しています」
会議はそのまま進んだ。
裕司はいつもどおり資料を説明し、質問に答え、必要な修正点を確認した。
画面の向こうにいる人々は、裕司が金髪の少女になっていることを知らない。
大人用の椅子に座り、床へ届かない脚を揺らしながら話していることにも気づいていない。
一時間ほどで会議は問題なく終了した。
『それでは、引き続きよろしくお願いします』
「よろしくお願いします」
裕司は通話を切った。
急に静かになった部屋で、ヘッドセットを外す。
小さくなった手のひらには、汗がにじんでいた。
それでも仕事はできた。
記憶も知識も技術も失っていない。
声の違いは機械で補うことができ、顔さえ見せなければ、すぐに別人だと気づかれることもなさそうだった。
「……いけるかもしれない」
裕司は改めて部屋を見回した。
金はある。寝床もある。
仕事も続けられる。
食料も日用品も、注文すれば自宅まで届けてもらえる。
外へ出なければ、身分証明書を使う必要もない。
誰かと直接会わなければ、この姿を知られることもないだろう。
その間に原因を調べ、元へ戻る方法を探せばよい。
裕司はメモを開き、今後対処すべき問題を書き出した。
まず現在の身体に合う衣服を用意し、次に机や椅子などの仕事環境を調整する。
食事と日用品の入手手段を再確認し、外部との接触を可能な限り減らす必要もある。
問題を一つずつ文字にするうちに、胸の中で渦巻いていた混乱が少しずつ収まっていった。
何が起きたのかは分からない。
それでも、生活上の問題なら順番に解決できる。
これまでだって、そうしてきた。
裕司は通販サイトを開いた。
最初に必要なのは、現在の身体に合う衣服だった。
大人用のTシャツを引きずりながら生活を続けるわけにはいかない。
他人に見られないとしても、身体に合わない服で過ごすのは不便であり、見た目にも落ち着かなかった。
子供服のページを開くと、鮮やかな色のワンピースや、大きなリボンのついた服が並んだ。
裕司は思わず顔をしかめた。
「これはないな」
無地のパーカーや落ち着いた色のシャツを選び、黒に近い細身のパンツと、歩きやすそうなスニーカーを候補へ加える。
部屋着も必要だった。
下着については何を選べばよいのか分からず、数分ほど画面の前で固まった。
それでも、いつまでも成人男性用のものを無理に使うわけにはいかないため、できるだけ装飾の少ない商品を選んだ。
自分が正確に何歳へ見えるのかは分からない。
裕司は棚からメジャーを探し出し、測定方法を確認しながら身長や胴回りを測った。
慣れない身体での採寸には苦労したものの、感覚だけで選んでサイズを間違える方が嫌だった。
注文する服の色と形が合っているか、画面を何度も切り替えて確認する。
現在の姿を気に入ったわけではない。
少女になった事実を受け入れたつもりもなかった。
それでも、似合わない服を着て、みっともない格好で過ごすことには耐えられなかった。
どうせ身体が変わったのなら、その身体に合わせて環境を整えた方がよい。
裕司は昔から、何かを始める前に道具や外見をそろえる性格だった。
本人は合理的な準備だと思っていたが、母親のしのぶからは何度も「裕司は形から入る」と笑われていた。
「母さんなら、今の俺を見てなんて言うかな」
机の端に置かれた写真へ目を向ける。
もちろん答えは返ってこない。
裕司は小さく息を吐き、配送先と支払い方法を確認した。
到着予定日は翌日だった。
注文を確定した裕司は、椅子の背へ身体を預けた。
窓の外に目をやる。
いつもと変わらない朝の風景が続いている。
駅へ向かって歩く会社員がいる。
通学途中らしい子供たちが横断歩道を渡っている。犬を連れた老人は、昨日も見かけた赤い上着を着ていた。
世界は何も変わっていなかった。
昨日までと同じように人々が目を覚まし、それぞれの生活を始めている。
変わったのは沖田裕司だけだった。
裕司は椅子から降り、もう一度洗面所へ向かった。
浴室用の椅子へ乗り、鏡の中の少女と向き合う。
金色の髪は寝癖で乱れ、青い瞳には隠しきれない不安が浮かんでいた。
顔立ちは整っていたが、それが自分の顔だという実感はまだない。
裕司は鏡の縁へ小さな手をついた。
「大丈夫だ」
鏡に映る少女へ言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を続けた。
「俺一人で何とかできる」
裕司はそうやって、胸の奥から浮かび上がってくる不安を押さえ込んだ。
しかし、鏡の中の少女は安心することも笑うこともなく、ただ頼りなげな表情で裕司を見返していた。




