第七話 保護される女の子
児童相談所の職員が病室を訪れたのは、入院翌日の午後だった。
持続点滴と抗生剤による治療を受けたことで、裕司の熱は三七度台まで下がっていた。
喉の痛みと身体のだるさは残っているものの、会話ができないほどではない。
朝に行われた採血でも、感染症を示す数値は搬送時と比べて著しく低下していた。
脱水も改善しており、自分で十分に水分を取れるようになれば、持続点滴を終了できると医師から説明されている。
重い合併症を疑わせる所見もなく、抗生剤を含めた治療は順調に進んでいた。
裕司自身にも、身体が回復していることは分かった。
昨日までは身体を起こすだけで視界が揺れ、数歩進むにも壁へ手をつく必要があった。
今はまだ力が入りにくいものの、ベッドの上で姿勢を変え、自分の手で水を飲むことができる。
退院できる状態になれば、帰宅できる。
裕司はそう考えていた。
しかし、昨日看護師は、児童相談所へ連絡したとはっきり告げている。
熱が下がることと、自宅へ帰ることは、すでに別の問題になっていた。
自分の意思だけでは帰れない可能性がある。
裕司はベッドの上で考え続けた。
警察には、パソコンのログインパスワードを伝えた。
実際に確認すれば、説明どおりにログインできるはずだった。
仕事用のファイルや過去のメールを調べれば、裕司がどのような仕事をしていたのかも分かる。
自分がその内容を理解していることも示せる。
それでも、同一人物だと証明できるわけではない。
裕司は何度考えても、最後には同じ問題へ戻ってきた。
今の自分が沖田裕司自身であることを、どうすれば他人へ証明できるのか。
************
昼前、裕司は看護師に付き添われ、病棟の廊下を歩いた。
熱が下がったとはいえ、長く寝ていた身体にはまだ力が入りにくい。
右手には点滴の管がつながっており、看護師が持続点滴の機械を載せた台を押している。
「無理しないでね。つらくなったら、すぐに言って」
「大丈夫です」
裕司はそう答えたが、一歩進むたびに脚の頼りなさを感じた。
病室の外へ出たことで、ここが小児病棟だとはっきり分かった。
廊下の壁には、動物や花の絵が貼られている。
案内表示には振り仮名があり、掲示板には色紙で作られた季節の飾りが並んでいた。
裕司より幼く見える子供が、保護者に手を引かれて歩いている。
点滴台を押しながら、看護師と話している子供もいた。
窓際の共有スペースには、小学生くらいの子供が数人集まっていた。
裕司は無意識に歩みを遅くした。
自分がここにいても、誰も不自然には思わない。
見た目だけなら、裕司も小児病棟へ入院している子供の一人だった。
病院の寝間着を着て、看護師に付き添われ、点滴を受けながら歩いている。
周囲が見るのは、それだけだった。
裕司はなるべく共有スペースを見ないようにし、その前を通り過ぎようとした。
そのとき、子供たちの声が耳に入った。
「ねえ、あの子、すごくかわいい」
小さな声だったが、静かな廊下ではよく聞こえた。
「髪、ほんものかな」
「きれい。お人形みたい」
自分のことではないと思おうとした。
しかし、廊下に長い金髪を持つ子供は裕司しかいなかった。
歩くたび、後ろでまとめた髪が揺れる。
視線が集まっていることは、振り返らなくても分かった。
裕司はうつむき、歩く速度を少しだけ上げた。
「慌てなくていいよ」
隣の看護師が声をかける。
「慌てていません」
そう答えた直後、別の声が聞こえた。
反射的にそちらに目を向けた。
「お姫さまみたい」
「目も青いよ」
「こっち見た」
裕司は顔を背けた。
その動きが、子供たちの注意をさらに引いたらしい。
「やっぱりかわいい」
今度は、先ほどよりはっきり聞こえた。
からかわれている様子ではなかった。
子供たちは、目の前を通った珍しい少女について、思ったことをそのまま口にしているだけだった。
悪意がないからこそ、裕司はどう反応すればよいのか分からなかった。
褒められてうれしいわけではない。
かといって、容姿について悪く言われたわけでもないため、腹を立てることもできない。
聞こえなかったふりをして歩き続けるしかなかった。
病棟の端まで歩いたところで、看護師が立ち止まった。
「ここで少し休みましょうか」
廊下の壁際に低い長椅子が置かれている。
裕司は断ろうとしたが、脚に力が入りにくくなっていることへ気づき、黙って腰を下ろした。
足が床からわずかに浮いた。
無意識に前後へ揺らしかけ、すぐに止める。
「気分は悪くない?」
「大丈夫です」
「疲れた?」
「少しだけです」
看護師はそれ以上問い詰めなかった。
裕司は廊下の反対側にある窓へ目を向けた。
窓ガラスには、現在の姿が薄く映っている。
病院の寝間着を着た小さな身体。
青い瞳に細い輪郭。
後ろでまとめても目立つ、長い金髪。
自宅の鏡で、半年間毎日のように見ていた。
鏡の中の少女へ驚くことは、もうほとんどなくなっていた。
だからといって、自分の容姿を客観的に理解していたわけではない。
毎日見ていたため、単に見慣れていただけだった。
外へ出なかった裕司には、現在の姿が他人の目にどのように映るのかを知る機会がほとんどなかった。
近所へ買い物に出た日には、通行人の視線を感じた。
警察官にも呼び止められた。
しかし、そのときは平日の昼間に子供が一人で歩いていたことが原因だと思っていた。
金髪と青い瞳が目立つことも理解していた。
それでも、子供たちが思わず言葉へ出すほどの容姿だとは考えていなかった。
「お人形みたい、か」
裕司は誰にも聞こえない声で呟いた。
窓に映る少女は、裕司の口の動きに合わせて唇を動かした。
初めて浴室の鏡で見たときにも、整った顔だとは思った。
服を選び、髪を整えるうちに、何が似合うかも分かるようになった。
それでも裕司にとって、現在の顔は自分の顔であるより先に、見慣れない少女の顔だった。
自分で評価することには抵抗があった。
しかし、先ほどの子供たちには先入観がない。
誰なのかも知らない。
成人男性から変化した事情も、身元を証明できない問題も知らない。
ただ、廊下を歩いていた裕司の姿を見て、かわいい、きれいだと言った。
裕司は窓へ映る顔を見つめた。
長い金髪や青い瞳が珍しいだけではない。
顔立ちそのものが整っている。
幼さを残しながら、目を引くほど均整が取れていた。
現在の身体は、周囲へ紛れ込むような特徴のない姿ではなかった。
どのような服を着ても目立つ。
帽子で髪を隠しても、顔を見られれば視線を集める。
平日の昼間に一人で歩いていれば、年齢だけでなく容姿の面でも人の記憶へ残りやすい。
裕司が外出を避けた判断は、警戒しすぎだったわけではない。
「こんなに目立つのか」
裕司は小さく言った。
自分の容姿を褒めるつもりはなかった。
美しいからうれしいとも思わない。
むしろ、困惑の方が強かった。
この身体の美貌は、裕司が人目を避けようとするほど、周囲の注意を引く性質を持っていた。
身体が変わっただけでも説明が難しい。
そのうえ、誰もが一度は目を向けるほど目立つ姿になっている。
裕司は、自宅という閉じた空間の中で見落としていた、現在の身体の特異性を初めて認識した。
「そろそろ戻りましょうか」
看護師が尋ねた。
「はい」
裕司は長椅子から降りた。
往路よりもゆっくり歩く。
共有スペースの前へ戻ると、先ほどの子供たちがまた裕司を見た。
今度は声を潜めていたが、それでも言葉の一部が聞こえた。
「さっきの子だ」
「やっぱりきれい」
裕司は視線を向けなかった。
顔を上げれば、目が合うかもしれない。
話しかけられれば、何者なのか尋ねられるかもしれない。
早く通り過ぎようとしてから、裕司は気づいた。
ここでも、自分は姿を隠そうとしている。
すでに病院の中では、存在を隠すことなどできない。
それでも視線が集まると、反射的に顔をそらしてしまう。
身体の美貌を再認識しても、その姿を自分のものとして受け入れられたわけではなかった。
ただ、はっきりしたことが一つある。
この身体で誰にも見つからずに暮らし続けることは、自分が考えていた以上に難しかった。
***************
病室へ戻ると、裕司はベッドへ腰を下ろした。
短い距離を歩いただけなのに、脚には疲れが残っている。
看護師が点滴の管を確認し、掛け物を整えた。
「少し休んでいてね」
「はい」
看護師が出ていく。
裕司は枕元の小さな鏡へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
今さら確認する必要はなかった。
この身体が目立つことは、十分に理解した。
しかし少女がどれほど美しくても、免許証にある男性の顔とは結びつかない。
他人の目に少女として美しく映るほど、裕司が三十五歳の男性であるという訴えは現実味を失う。
美貌まで、自分の身元を否定する材料になっていた。
病室の外から、先ほど聞いたものとは別の足音が近づいてくる。
やがてカーテンの前で止まった。
「失礼します」
女性の声とともに、カーテンが開いた。
*************
病室へ入ってきたのは、四十代ほどに見える女性だった。
落ち着いた色のジャケットを着ており、首から身分証を下げている。
その後ろには、若い男性職員が立っていた。
女性は裕司から少し離れた位置へ椅子を置き、正面から向かい合わないよう、わずかに角度をつけて腰を下ろした。
「こんにちは。体調はどうですか」
「さっきよりは楽です」
「よかった。私は児童相談所から来ました。少しお話を聞いてもいいですか」
「嫌だと言っても、聞くんですよね」
女性は困ったように笑った。
「確認しなければならないことはあります。でも、無理に全部話してもらおうとは思っていません。疲れたら、いつでも休めます」
「警察にも、同じことを何度も聞かれました」
「警察から、昨日の聞き取り内容は共有されています」
裕司は女性の顔を見た。
「どこまで知っているんですか」
「あなたが沖田裕司と名乗っていること。あの部屋で半年近く一人で暮らしていたと話していること。食事や日用品は配達や通販で用意し、仕事も続けていたことです」
「ボイスチェンジャーのことも?」
「聞いています。外出を避けていた理由や、買い物へ出た際に警察官から声をかけられたことも共有されています」
「だったら、同じことを質問しないでください」
「分かりました」
女性職員は素直にうなずいた。
「生活の経緯について、警察と同じ質問を一から繰り返すつもりはありません」
「では、何を聞くんですか」
「退院した後、あなたが安全に生活するために何が必要なのかを考えるための質問です」
「家へ帰れば済みます」
「沖田さんは、そう希望しているんですね」
「希望じゃありません。自分の家へ帰るだけです」
「分かりました。帰宅を望んでいることは記録します」
「また記録ですか」
「はい。ただし、記録するだけではありません。あなたの希望と、現在確認できている状況の両方をもとに、退院後の行き先を検討します」
裕司は掛け物の上で両手を組んだ。
「結局、俺の希望だけでは決められないんでしょう」
「今の状況では、そうです」
女性職員は遠回しにせず答えた。
「警察は、あなたが暮らしていた部屋について確認を続けています。病院からも、退院直後に一人で生活させることには不安があると聞いています」
「熱は下がっています」
「身体が回復していることと、一人で生活できる環境があることは、分けて確認する必要があります」
「半年間、生活していました」
「そのことも聞いています」
「仕事も続けていました。食事も用意して、金も管理していました」
「具体的に教えてもらえますか」
「警察へ話した内容と同じです」
「生活の方法を疑うためではありません。沖田さんが何を自分でできて、どのような場面で困っていたのかを知りたいんです」
裕司はすぐには答えなかった。
警察は、監禁や虐待の可能性を確かめるために質問した。
児童相談所も、結局は同じ答えへ誘導しようとしているのではないか。
そう疑った。
「では、質問を変えます」
女性職員が言った。
「この半年間で、一番困ったことは何でしたか」
「今です」
「今?」
「自分の家へ帰れないことです」
「それより前では?」
裕司は少し考えた。
「外へ出られないことです」
「誰かに止められていたという意味ではありませんね」
「それは警察にも説明しました」
「はい。身元を説明できないことが怖くて、自分で外出を避けていたと聞いています」
女性職員は、同じ質問を繰り返さなかった。
「外へ出られないことで、生活にどのような問題がありましたか」
「必要な物は通販で買えました。食事も届けてもらえました」
「病院には?」
「行けませんでした」
「体調が悪くなったとき、相談できる人はいましたか」
「いません」
「電話で相談することも難しかった?」
「声を聞かれたくなかったからです」
「それで、熱が上がっても一人で様子を見ていたんですね」
「大人だった頃なら、それで治ると思っていました」
「今回のようなことが、もう一度起きたらどうしますか」
「今度は、もっと早く病院へ行きます」
「一人で?」
「自分で救急車を呼ぶこともできます」
「呼べる状態なら、そうですね」
女性職員の声は穏やかだった。
しかし、その言葉は裕司の弱い部分を正確に突いていた。
今回、裕司は救急車を呼ぶ前に玄関で倒れた。
「倒れる前に呼びます」
「その判断ができるように、誰かへ相談する方法も必要だと思いませんか」
「自分で判断できます」
「今回は、受診が遅れました」
「一度失敗したからといって、これからも同じだとは限らないでしょう」
「そのとおりです。ただ、退院したばかりの今、もう一度同じ環境へ一人で戻してよいかは慎重に考えなければなりません」
「失敗したから取り上げるんですか」
「生活を取り上げたいわけではありません」
「帰さないなら同じです」
裕司は顔をそむけた。
窓には、病院の寝間着を着た金髪の少女が薄く映っている。
先ほど廊下を歩いた際、子供たちからかわいい、きれいだと言われた姿だった。
その姿で、一人暮らしを続けたいと児童相談所へ訴えている。
周囲へどのように映るのかは、裕司にも分かっていた。
それでも、認める気にはなれなかった。
「身の回りのことは、どこまで一人でできますか」
女性職員が尋ねた。
「食事と洗濯はできます。掃除もしていました」
「料理は?」
「身体が変わってからは、ほとんどしていません。包丁や火を使うときに、以前の感覚と合わなかったからです」
「危険だと思って、配食サービスを選んだんですね」
「そうです」
「入浴や髪の手入れは?」
「一人でできます」
「高い場所へ手が届かないときは?」
「踏み台を使っていました」
「重い物は?」
「小分けにして運びます」
「買い物は?」
「通販で済ませます」
「もし配送が止まったら?」
「別の業者を使います」
「停電や通信障害が起きたら?」
「状況を確認して対応します」
「自分だけでは対応できないと判断した場合は、誰へ連絡しますか」
裕司は口を閉じた。
「警察や消防以外で、身近に頼れる人はいますか」
「いません」
「近藤ハツさんは?」
突然名前を出され、裕司は顔を上げた。
「どうして知っているんですか」
「警察が、沖田裕司さんの親族関係を確認しています」
「ばあちゃんには連絡したんですか」
「まだ詳しい事情までは伝えていません。ただ、親族へ連絡する必要があるか検討しています」
「やめてください」
裕司の声が大きくなった。
女性職員は表情を変えなかった。
「どうして連絡してほしくないんですか」
「ばあちゃんは関係ありません」
「以前は一緒に暮らしていたんですか」
「子供の頃に、少しだけです」
「最後に会ったのはいつですか」
「何年も前です」
「連絡は取っていましたか」
「ばあちゃんから電話が来ることはありました」
「出ていましたか」
裕司は答えに詰まった。
「身体が変わってからは、出ていません」
「どうしてですか」
「声が変わったからです」
「近藤さんに知られるのが怖かった?」
「信じてもらえないと思っただけです」
「責められると思いましたか」
「分かりません」
「嫌われると思いましたか」
「違います」
裕司は即座に否定した。
しかし、その後へ続く言葉は出てこなかった。
ハツからも、あなたは裕司ではないと言われることが怖かった。
警察や医師に否定されるのとは違う。
ハツにまで否定されれば、自分を沖田裕司だと知る者が誰もいなくなるように思えた。
「高熱が出た夜、誰かへ連絡しようとしましたか」
「電話をかけようとはしました」
「誰に?」
「ばあちゃんです」
「でも、かけなかった」
「はい」
「どうして?」
「信じてもらえないと思ったからです」
「助けを求めるより、否定されることの方が怖かったんですね」
「勝手に決めないでください」
「ごめんなさい。違うなら、違うと教えてください」
女性職員はすぐに謝った。
裕司は掛け物を見つめた。
「否定されるのも怖かったです。でも、長い間何も言わなかったことを説明するのも嫌でした」
「心配をかけたくなかった?」
「それもあります」
「近藤さんへ連絡することは、沖田さんを否定することではありません」
「ばあちゃんが、俺を信じるとは限らない」
「信じるかどうかは、話してみなければ分かりません」
「普通なら信じません」
「沖田さん自身も、立場が逆なら信じないと思いますか」
「思います」
裕司は小さな手を見た。
変化前の面影など、どこにも残っていない。
「三十五歳の男が、朝起きたら十歳くらいの女の子になっていた。そんな話を、そのまま信じる方がおかしいです」
「それでも、今のあなたが知っていることや覚えていることは、確認できます」
「確認しても、本人だとは証明できません」
「証明できないことと、話を聞く価値がないことは同じではありません」
裕司は女性職員を見た。
警察も医師も、話は聞くと言った。
その結果、自宅へ帰る道は遠ざかった。
「まだ、ばあちゃんへは連絡しないでください」
「理由を聞いてもいいですか」
「俺が直接話せるようになるまで待ってください」
「電話で話しますか」
「今は無理です」
「どうして?」
「何から話せばいいのか分かりません」
「では、話す内容を一緒に考えることはできます」
「自分で考えます」
「分かりました。ただ、親族への連絡が必要だと判断した場合は、あなたの許可がなくても連絡する可能性があります」
「俺の意思は関係ないんですか」
「関係があります。だから、連絡してほしくない理由を聞いています」
「それでも連絡するんでしょう」
「必要性と、沖田さんが負う負担の両方を考えます」
「嫌だと言っているのに連絡されたら、無視されたのと同じです」
「そう感じることも記録します」
「また記録ですか」
「はい。あなたが何を嫌がり、何を怖がっているのかを残さなければ、別の職員が勝手な判断をするかもしれません」
裕司は返事をしなかった。
記録という言葉を、これまでは自分の訴えを保留するためのものだと感じていた。
しかし、何も残らなければ、それこそ裕司の意思はなかったことにされる。
納得したわけではない。
それでも、記録する意味がまったくないとも言い切れなかった。
「ほかに、連絡してほしくない人はいますか」
「父親です」
「近藤勇一さんですね」
「そうです」
「理由を聞いてもいいですか」
「両親が離婚してから、ほとんど会っていません」
「最後に会ったのはいつですか」
「母親の葬儀です」
「そのとき、何かありましたか」
裕司は視線を落とした。
「俺が追い返しました」
「お父さんを?」
「離婚の原因が父親の浮気だったからです。その相手と再婚もしました。そんな人間に、母親の葬式へ来てほしくなかった」
「それ以来、連絡を取っていないんですね」
「はい」
「お父さんからも連絡はありませんでしたか」
「ありません。一度も」
「連絡がほしかったのですか」
「違います」
裕司は強く否定した。
「追い返したのは俺です。今さら連絡されたところで困ります」
「分かりました」
「勝手に分かったような返事をしないでください」
「ごめんなさい」
女性職員は素直に謝った。
「連絡を望んでいないことと、その理由は記録します」
「それでも、連絡する可能性はあるんですね」
「親族関係を確認するために、警察から連絡が入る可能性があります。児童相談所としても、今後の生活を考えるうえで話を聞く必要が生じるかもしれません」
「だったら、俺に聞く意味がないじゃないですか」
「連絡するかどうかだけではなく、連絡した後に、沖田さんとどのように関わってもらうかを考えるためにも必要です」
「会いたくないと言ったら?」
「その意思は尊重します。ただ、安全確認などのために、すべて希望どおりにはできない場合があります」
「結局、俺の意思だけでは決められない」
「はい」
女性職員は、ごまかさなかった。
「でも、何も聞かずに決めることもしません」
裕司は顔をそむけた。
尋ねられても、そのとおりになるとは限らない。
それでも、何も尋ねられずに決められるよりはよいのかもしれなかった。
女性職員は裕司の表情を見て、少し間を置いた。
「退院後のことについて説明します」
「家には帰れないんですね」
「今の段階では、難しいと思います」
「警察の確認が終わっていないからですか」
「それもあります。それに、退院直後のあなたを一人で生活させられるかという問題もあります」
「熱は下がっています」
「身体が回復しても、助けを求められる人や、安全に生活できる環境を確認しなければなりません」
「半年間、一人で暮らしていました」
「そのことは否定していません」
「だったら」
「その半年間の最後に、高熱で倒れ救急搬送されています」
裕司は言葉を失った。
女性職員の声に、責める調子はなかった。
事実を述べただけだった。
その事実に対して、裕司はすぐには反論できなかった。
「たまたま病気になっただけです」
裕司はどうにか言葉を返した。
「誰だって病気になるでしょう」
「そのとおりです」
「だったら、それを理由に生活を取り上げないでください」
「病気になったこと自体が問題なのではありません」
「では、何が問題なんですか」
「病気になったとき、相談できる相手がいなかったことです。相談できる相手がいたかもしれないのに、助けを求められなかったことも心配しています」
「今度は助けを呼びます」
「そう話してくれたことは大切です。でも、今すぐ元の生活へ戻して安全だと判断するには、まだ確認が足りません」
「それで、一時保護ですか」
「その可能性があります」
「嫌です」
「まだ最終決定ではありません」
「決まってから伝えられても、断れないんでしょう」
「沖田さんの希望だけで決めることはできません。ただ、どのような場所なら過ごせるか、何が嫌なのかは聞かせてください」
「自宅以外は嫌です」
「集団生活は難しいですか」
「知らない子供と暮らす理由がありません」
「一人で過ごせる部屋が必要ですか」
「必要です」
「部屋へ入る前には、ノックしてほしいですか」
「当然でしょう」
「着替えや入浴を手伝われることは?」
「必要ありません」
「女性職員なら大丈夫ですか」
「性別の問題ではありません。一人でできます」
「分かりました」
「スマートフォンは使えますか」
「施設の決まりを確認する必要があります」
「仕事があります」
「仕事についても、担当者と相談します」
「相談している間に契約を切られます」
「取引先へ連絡したいという希望は伝えます」
「希望ではなく、必要な連絡です」
「分かりました。未完了の仕事があり、取引先への連絡が必要だと記録します」
「連絡文まで確認されるんですか」
「現在の状況では、職員と一緒に連絡する形になると思います」
「俺の仕事なのに」
「そう感じることも分かります」
「分かったように言わないでください」
「ごめんなさい」
女性職員は再び謝った。
何度謝られても、裕司の自由は戻らない。
それでも、強い言葉で押さえつけられるよりはましだった。
「学校へ行かされるんですか」
「すぐに通学を始めるとは決まっていません。まずは体調と生活を整え、身元や今後の居場所について確認します」
「俺は三十五歳です」
「沖田さんが、そう認識していることは聞いています」
「小学生の勉強なんて必要ありません」
「学習内容を理解できることと、どのような生活が必要かは、分けて考えることになると思います」
「全部、子供として決めるんですね」
「現在確認できる身体と公的な身分が分からない以上、児童として安全を確保する必要があります」
「俺が何を言っても?」
「沖田さんの話は聞きます。ただ、今の段階で一人暮らしへ戻すことはできません」
裕司は掛け物を押しのけ、身体を起こした。
点滴の管が引かれ、腕に痛みが走る。
「自分で帰ります」
「まだ歩ける状態ではありません」
「熱は下がっています」
「無理に立たないでください」
「許可される必要なんてない。俺の家です」
裕司はベッドから降りようとした。
床へ足を近づけたところで、目の前が揺れた。
後ろに立っていた男性職員が、慌てて一歩前へ出る。
「危ないですよ」
「触らないでください」
裕司はベッドの縁へしがみついた。
足が震えていた。
感染を示す数値が下がっていても、身体はまだ治りきっていない。
採血の結果が改善したからといって、失った体力がすぐに戻るわけではなかった。
それでも横になれば、自分の意思まで放棄したことになるように思えた。
「俺には仕事があります」
裕司は女性職員を見た。
「取引先も待っています。予定も、契約もあります」
「そのことは聞いています」
「女の子になってからも、ずっと一人でやってきたんです」
「はい」
「誰の助けも借りずに、全部自分でやったんです」
「でも今は、一人で立つことも難しいでしょう」
裕司は反論しようとした。
しかし、足の震えが強くなり、身体を支えきれなくなった。
その場へ崩れそうになったところを、男性職員に腕を支えられる。
「離してください」
「ベッドへ戻るだけです」
裕司は腕を振りほどこうとしたが、力が入らなかった。
結局、職員に支えられてベッドへ戻された。
掛け物をかけられ、点滴の管も整えられる。
裕司は天井を見つめたまま、顔を横へ向けなかった。
恥ずかしさと悔しさで、顔が熱くなっていた。
女性職員は少し待ってから、静かに話した。
「一人でできることが多いのは分かりました。仕事の内容を理解し、自分で生活を整えていたことも聞いています」
「だったら帰してください」
「一人で生活していた事実と、これからも一人にして安全かどうかは、同じではありません」
「俺を子供だと思っているからでしょう」
「現在の身体が子供に見えることだけで判断しているわけではありません」
「では、何で判断しているんですか」
「高熱で倒れたこと。助けを求められる相手がいなかったこと。身元を確認できないこと。住居について警察の確認が続いていることです」
「全部、俺が沖田裕司だと認めれば解決します」
「その確認には時間が必要です」
「どれくらいですか」
「今は答えられません」
裕司は目を閉じた。
また、答えのない時間を待たされる。
「一人で抱え込まなくていいんです」
「子供扱いしないでください」
「子供だからではなく、今の沖田さんが一人で抱え込んでいるから言っています」
裕司は返事をしなかった。
女性職員が立ち上がる。
「また体調が落ち着いたら、話をしましょう」
「同じことを、また最初から聞くんですか」
「いいえ。今日聞いた内容は引き継ぎます。次は、一時保護になった場合の生活や、近藤さんへどのように連絡するかを相談します」
「相談しても、最後に決めるのはあなたたちでしょう」
「そうなる部分もあります。でも、沖田さんが嫌だと言ったことを、理由も聞かずに進めることはしません」
「約束できますか」
「話を聞くことは約束します。すべて希望どおりにできるとは約束できません」
「正直ですね」
「できない約束はしない方がよいと思っています」
裕司は女性職員を見た。
その答えだけは、嫌いではなかった。
「分かりました」
納得したわけではない。
それでも、何を話しても無駄だと決めつけることも、今はできなかった。
二人の職員は病室を出ていった。
カーテンが閉じると、裕司は掛け物を頭まで引き上げた。
泣くつもりはなかった。
だが、目の奥が熱くなり、涙が勝手に流れた。
高熱のせいだと思おうとした。
身体が弱っているから、感情を抑えられないだけだと考えた。
それでも、涙はなかなか止まらなかった。
警察は、裕司が事件へ巻き込まれていないかを調べた。
児童相談所は、同じ質問を繰り返さなかった。
それでも最後に示された結論は同じだった。
裕司を一人で自宅へ帰すことはできない。
その結論へ反発しながらも、裕司は一つだけ理解していた。
半年間の暮らしを成り立たせたことと、助けを必要としなかったことは、同じではない。
生活の大部分を一人で処理できた。
それでも、病気になった際には誰にも相談できなかった。
高熱で玄関へ倒れ、近隣住民に発見されなければ治療を受けられなかった。
その一度だけで、半年間のすべてを否定されたくはない。
しかし、その一度を、なかったことにもできなかった。
裕司は掛け物の中で身体を丸めた。
今はまだ、助けが必要だった。
そう認めることと、自分が沖田裕司ではないと認めることは、本来なら別のはずだった。
けれども裕司には、その二つを切り離して考えることができなかった。




