第三章 王家の決断
王宮の私的応接室。普段は穏やかな王妃ヴィクトワールの顔から、完全に笑みが消えていた。
「……セシル。今の話に、聞き間違いはありませんね?」
「ございません、陛下」
侍女長セシルは膝をつき、震える声で答えた。
「第一王子殿下ご自身のお口から、『エレオノール様に罪を作る』と……」
国王アンリ四世は深く息を吐いた。
老いてなお威厳を失わない王は、長い沈黙の後にぽつりと呟く。
「アドリアンは……そこまで愚かになったか」
幼い頃の王子は、決して悪い子ではなかった。少々甘えん坊で、勉強より乗馬を好む少年。だが根は優しかった。
だからこそ国王夫妻は、厳しく育てながらも、いつか立派な王になると信じてきた。その隣には、いつもエレオノールがいた。
王太子教育で疲弊する息子を励まし、外交史を一緒に学び、苦手な会計学を噛み砕いて教え、時には叱り、時には支え続けてきた。
王妃は静かに目を閉じた。
「エレオノールは、一度も逃げなかったわ」
「……ああ」
「なのに、あの子は支えてくれた者を切り捨てようとしている」
王妃の瞳には失望が宿っていた。もはや怒りですらない。
「陛下」
「分かっている」
国王は重々しく頷いた。
「第二王子ジュリアンの教育を前倒しで始めよ」
王妃が顔を上げる。
「立太子を?」
「検討する」
王の声は冷たかった。
「王とは、自分を甘やかす者を愛する人間では務まらぬ。耳に痛い忠言を受け入れ、民のために責務を果たす者こそ王だ。今のアドリアンには、それがない」
そして夫婦は同じ結論に至っていた。
――もし婚約が破棄されるとしても。捨てられるのはエレオノールではない。王家の方だ、と。
その頃。モンフォール公爵邸でもまた、重い空気が流れていた。
「……許せませんわ」
エレオノールの母、カトリーヌ公爵夫人が珍しく感情を露わにしていた。
「私たちの娘を何だと思っているのです」
向かいに座るモンフォール公爵エドモンも険しい表情で頷く。
「長年の婚約は王家のためでもあった。だが、娘を犠牲にするためではない」
夫妻は誰よりも知っていた。
幼い娘が眠い目を擦りながら勉学に励んだこと。友人と遊ぶ時間を削って王太子妃教育に打ち込んだこと。王妃となる覚悟を持ち続けてきたことを。
「エレオノールにはまだ知らせるな」
公爵が静かに言う。
「まずは証拠を集める。そして必要ならば――」
夫人が続きを口にした。
「こちらから婚約を解消いたします」
一方。ベルフォール公爵家。
ルシアンは執務机の上に広げられた報告書を眺めていた。
「王子の周囲にいるのは?」
「ベルナール男爵令嬢と、数名の若い令息のみです」
従者が呆れたように答える。
「しかも皆、家督を継ぐ見込みの薄い次男三男ばかり」
「なるほど」
ルシアンは皮肉げに笑った。
「責任を負ったことのない連中か」
さらに報告は続く。
「『エレオノール様が他の男性と密会している』という噂を流そうとしているようですが……」
「証拠は?」
「ございません」
「当然だ」
ルシアンは鼻で笑った。
エレオノールは宮廷で最も模範的な令嬢だ。不用意に男性と二人きりになることなどない。だから彼らは、偽の手紙や作り話を用意し始めているらしい。あまりにも稚拙だった。
「愚かだな」
しかし、愚かだからといって放置はできない。醜聞というものは、真実より噂の方が速く広がる。
「……従妹を呼べ」
「セリーヌ様を?」
「ああ」
ベルフォール家の従妹、セリーヌ・ド・ラヴァル。
伯爵家の娘でありながら、将来を嘱望される女騎士見習い。剣の腕は男性顔負けで、令嬢たちから憧れの眼差しを向けられる存在だった。
「彼女をエレオノールの護衛につける」
従者が驚く。
「しかし未婚のご令嬢に護衛騎士をつければ、周囲に勘繰られるのでは?」
「だから女性を送るんだ」
ルシアンは即答した。
「エレオノールの名誉を傷つけずに守るには、それが最善だ」
そして小さく付け加える。
「……あの人は、自分のことを後回しにするからな」
数日後。モンフォール公爵邸に、一人の騎士が訪れる。騎士服を纏い、長い黒髪を後ろで結んだ美しい女性。
「セリーヌ・ド・ラヴァルです」
片膝をついた女騎士は、少しだけ口元を緩めた。
「ルシアン様より、エレオノール様をお守りするよう命じられました」
突然のことに目を丸くするエレオノール。
「ルシアンが?」
「はい」
「……相変わらず心配性ね」
思わず微笑んだ彼女を見て、セリーヌは内心で安堵した。
最近のエレオノールは、以前より少しだけ笑顔が減っていた。だが本人は決して弱音を吐かない。だからこそ。見守る者が必要だった。
そしてその頃。王宮の一室では。
「これで完璧ですわ!」
リュシエンヌが得意げに偽の恋文を掲げていた。
「『愛しいあなた、今夜もお会いできるのを楽しみにしています』……素敵ですわ!」
アドリアンは満足そうに頷く。
「これでエレオノールの不貞を証明できる!」
その場にいた若い令息たちも口々に賛同した。
「さすが殿下!」
「完璧な作戦です!」
だが。その手紙の日付は存在しない祝祭日になっており、筆跡は明らかに女性のもの、さらに封蝋に押された紋章は左右が逆になっていた。まともな貴族なら、一目で偽物だと分かる代物だった。
――それに気付いていないのは、当人たちだけだった。
そして王宮の重臣たちは、密かにため息をつく。
「……王国の未来が心配だ」
誰もが、そう思い始めていた。
そしてエレオノールだけが、まだ知らない。
自分を守ろうとする人々がこれほど存在することも、王国の運命が静かに動き始めていることも。
そして、幼馴染ルシアンの想いが、もはや「友情」だけではなくなっていることも――。




