第二章 噂と真実
春季舞踏会の翌日。
王都ヴァロワの貴族社会は、昨夜の出来事で持ちきりだった。
「第一王子殿下が、婚約者を差し置いて男爵令嬢と最初のダンスを踊った」
「しかも公爵令嬢様は、少しも取り乱されなかったそうよ」
「なんておいたわしい……」
「いいえ、あれこそモンフォール公爵家のご令嬢ですわ」
サロンでも、茶会でも、話題の中心はエレオノールだった。だが不思議なことに、彼女を嘲笑う者はほとんどいなかった。
なぜなら、誰もが知っていたからだ。幼い頃から王太子妃教育を受け、外交、歴史、会計、法律、語学、宮廷礼法。同世代の誰よりも努力を重ねてきた少女であることを。遊びたい年頃であったはずなのに、彼女は一度も責務から逃げなかった。
王国の未来のために。
そして──隣に立つアドリアンのために。
「私はとても真似できませんわ」
伯爵令嬢のクロエがため息をつく。
「毎朝六時から勉強ですって?」
「しかも去年の飢饉では、自ら孤児院へ寄付を申し出たそうよ」
「王妃様もエレオノール様を実の娘のように可愛がっておいででしょう?」
若い貴族令嬢たちは口々に言う。
嫉妬する者もいないわけではない。だが、彼女の積み重ねてきた年月を否定できる者はいなかった。
一方で。
「リュシエンヌ嬢、こちらの宝石もお似合いですわ」
男爵令嬢リュシエンヌ・ベルナールは、王子から贈られた宝石を前に目を輝かせていた。
「まあ、こんな大きなダイヤモンド……!」
侍女たちが顔を見合わせる。王家の財産。本来なら王太子妃となる者のために用意される品々。しかしリュシエンヌには、そんなことは関係なかった。
(王妃になれば、毎日こんな暮らしができるのね)
彼女にとってアドリアンは、恋する相手というより、憧れの生活を実現してくれる存在だった。
そしてアドリアンもまた、彼女の本質に気づいていなかった。
「殿下は素晴らしいお方です!」
「そんなにご自分を責めないでください」
「エレオノール様は厳しすぎますわ」
「殿下はそのままで完璧です!」
王太子としての責務。国王になるための勉学。財政や外交。
それらについて意見を述べるエレオノールを、アドリアンはいつしか「自分を否定する存在」と感じるようになっていた。
だがリュシエンヌは違う。何をしても褒めてくれる。間違いを指摘しない。耳に心地よい言葉だけを与えてくれる。その甘さに、アドリアンは溺れていた。
「やはり僕には、彼女の方が必要なんだ」
そう呟く王子の背後で、側近たちは苦い顔をしていた。だが誰も口を開けない。王太子の機嫌を損ねたくなかったからだ。
ただ一人を除いて。
「……馬鹿だな」
窓辺で小さく呟いた青年がいた。
ルシアン・ド・ベルフォール。ベルフォール公爵家の嫡男。エレオノールとは幼い頃からの付き合いだった。
幼少期には三人で庭を駆け回り、アドリアンが勉強を投げ出せば、エレオノールと共に捕まえに行ったこともある。
だからこそ知っていた。エレオノールがどれほど努力してきたか。誰よりも王子を支えてきたか。
そして──。誰よりも孤独であることを。
「ルシアン様?」
従者が声をかける。
「何でもない」
青年は視線を窓の外へ向けた。モンフォール公爵邸の方角。
「泣いていなければいいが……」
彼は幼い頃からずっと、エレオノールを見てきた。婚約者のいる彼女を想い続けることは許されない。だから一度も口にしたことはない。彼女が笑っているなら、それでいいと思っていた。
だが昨夜。婚約者の隣に立つべき場所を、別の女に奪われた彼女の姿を見てしまった。それでも微笑み続けた彼女の姿を。
「……もう十分だろう」
初めて。胸の奥で押し込めていた感情が、静かに目を覚まそうとしていた。
そして同じ頃。
王宮の一室では、アドリアンと数名の取り巻き貴族たちが密談を交わしていた。
「婚約を破棄するには、大義名分が必要です」
「ええ、殿下」
「公爵令嬢に不貞の疑いでもあれば」
「国民も納得するでしょう」
アドリアンは頷いた。
「そうだ。エレオノールは優秀すぎる。普通に婚約解消を申し出ても、父上も母上も認めない。だから彼女に罪を作る」
その言葉を。扉の外で偶然聞いてしまった者がいた。王妃付き侍女長、マダム・セシルである。
彼女は青ざめた。エレオノールを幼い頃から見守ってきた一人だった。
「なんということ……」
そして彼女は急ぎ足で向かう。王妃のもとへ。
王国の未来を左右する、この愚かな陰謀を知らせるために。




