第一章 春の舞踏会
アルヴェール王国の春は、いつも白薔薇の香りとともに訪れる。王都ヴァロワの中心にそびえる王宮「ブランシュ宮殿」の庭園には、王家の象徴である白薔薇が咲き誇り、貴族たちはこぞって春季舞踏会へ集まる。
その夜もまた、無数の蝋燭がシャンデリアに灯され、金糸銀糸を織り込んだ礼服とドレスが、宮殿の大広間を華やかに彩っていた。
「エレオノール様、本日も大変お美しゅうございます」
侍女マルグリットがそう囁く。
鏡に映る自分の姿を見つめながら、エレオノール・ド・モンフォール公爵令嬢は小さく微笑んだ。
銀色に近い淡い金髪。青磁のような蒼い瞳。
モンフォール公爵家に代々伝わる白い真珠の首飾り。
王国随一の名門公爵家の一人娘であり、第一王子アドリアン殿下の婚約者。誰もが羨む立場。──少なくとも、外から見れば。
「殿下は?」
「まだお見えではありません」
「そう」
エレオノールは落胆もしなかった。
幼い頃から十六年間。アドリアンとは兄妹のように育った。互いに恋愛感情はない。だが、信頼はあった。王太子としての責務を理解する彼と、公爵家の娘として支える自分。それで十分だと思っていた。少なくとも、数か月前までは。
「……最近、殿下は変わられましたね」
侍女の言葉に、エレオノールは苦笑する。
「誰にでもそういう時期はあるわ」
そう答えながらも、胸の奥に小さな痛みが走る。
以前のアドリアンなら、舞踏会の前には必ず顔を見せた。今日の装いを褒め、退屈そうにため息をつきながらも、最初の一曲だけは必ず彼女と踊った。
恋人ではない。だが、家族だった。
その当たり前が少しずつ失われていることに、エレオノールは気づいていた。
やがて会場がざわめく。
「アドリアン殿下だ!」
人々が一斉に頭を下げる。エレオノールも振り返った。
そして──。
「……まあ」
珍しく言葉を失った。
アドリアン王子の腕には、一人の少女が寄り添っていた。栗色の髪。愛らしい顔立ち。
しかし身に着けているドレスは、王宮の舞踏会には不釣り合いな華美で豪奢な、リボンとフリルたっぷりの幼子が着るかのようなもの。それでいて胸元は大きく開き下品とさえ感じるものだった。
エレオノールはすぐに思い出す。
「リュシエンヌ・ベルナール男爵令嬢……?」
最近、宮廷で噂になっている少女だった。王子のお気に入り。そう囁かれていた。
だが、まさか。アドリアンはまっすぐエレオノールのもとへ歩いてきた。
「こんばんは、エレオノール」
「こんばんは、殿下」
いつも通りに微笑む。すると王子は、どこか気まずそうに視線を逸らした。
「紹介しよう。リュシエンヌだ」
少女が深く礼をする。
「お初にお目にかかります、エレオノール様」
礼儀作法は完璧ではない。初対面で許しもなく名を呼ぶなど貴族令嬢の基礎が出来ていないことは明らかだった。
それでもエレオノールは穏やかに微笑んだ。
「ようこそ、王宮へ」
その時。アドリアンが、まるで宣言するように言った。
「今夜の最初のダンスは、リュシエンヌと踊る」
周囲の空気が凍りつく。婚約者を差し置いて、別の令嬢と最初のダンスを踊る。それは宮廷では明確な侮辱だった。
だがエレオノールは怒らなかった。怒るより先に、驚いていた。
(アドリアン……)
彼はこんなことをする人ではなかった。幼い頃、転んで泣いていた彼女に手を差し伸べた少年。勉強を嫌がりながらも、王になる責任から逃げなかった青年。その彼が。なぜ。
「畏まりました」
静かに答える。
「お楽しみくださいませ、殿下」
アドリアンは一瞬だけ目を見開いた。まるで、怒られると思っていたかのように。しかし次の瞬間には、リュシエンヌを連れて去っていく。
二人の背中を見送りながら、エレオノールは胸元の真珠に触れた。悲しい。けれど、嫉妬ではない。恋人を奪われた痛みではなかった。家族だと思っていた人が、遠くへ行ってしまう。その寂しさだった。
そして彼女はまだ知らない。この舞踏会の裏で、アドリアンと一部の貴族たちが、
「公爵令嬢エレオノールに不貞の罪を着せ、婚約を破棄する計画」
を進めていることを。
そしてその陰謀が、王国そのものを揺るがす大事件へと発展することを。




