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第9歯 視点が変われば価値は変わる

 命と引き換えに、荷物は捨てた。

 残ったのは、古びた首飾りだけ。

 それを指先で確かめながら、蛍は医務室を出た。

 馬車が走っても余りある廊下は、どこまでも続いている。

 (本当に執事なんだ…)

 維千は歩みを緩めない。

 置いていかれまいと、蛍は先を行く高い背に集中した。


 黒の執事服。

 まるで葬式に向かうような整った姿だ。


 すれ違う人々が、維千を思わず二度見する。

「俺は見せ物じゃありません」

 黒の革靴が霜を踏むたび、乾いた音が高い天井に響く。

 誰も驚かない。

 ただ蛍だけが目を逸らした。

 少し開いた窓から、甘い香りが吹き込む。鮮やかな瑠璃色の花が踊るように揺れている。

「……きれい」

 蛍は足を止める。

 ガルディでは見たことのない色だった。

 目の奥が熱い。瞬きのたびに景色が滲む。

 その様子を維千はただ、静かに見つめていた。

 「……ごめんなさい」

 遠くで、時の鐘が鳴る。

 維千はやっと口を開いた。

「何故、謝るのですか?」

「何故って……泣いたから」

「泣いたら、謝るのですか?」

 蛍の思考が途切れる。涙が止まる。

「あなたを不快にさせたでしょ?」

「していません」

 蛍が絞り出した答えに、維千が重ねる。

 彼は頭を掻き、距離を測るように目を向けた。


 少しの沈黙。


「……仕事は滞っていますが」

 蛍は慌てて、維千に追いつく。

 大きな歩幅に離されないよう、足を回した。

「魔法は心です」

 維千が目を細める。

「健全な心を育むため、ここでは積極的に自然を取り入れています」

 維千は淡々と話を戻す。

 足音が戻る。蛍の背中に汗が滲む。

「自然には癒しの効果があるそうです」

 蛍は顔をあげた。

 肩を並べているのに、蛍の足音だけが響く。

「嘘よ。ガルディの植物には棘や毒があるのよ。花も滅多に咲かないし、農作物を荒らす生命力だもの」

「あなたの国の植物は、この国では人気ですよ。個性的で美しく、育てやすいと」

 維千が、突然腹を抱えて笑った。

 蛍は息を止めた。

 初めて見る、彼の感情だった。

 鼓動が耳を鳴らす。

「自分の見ている世界が、すべてではありません」

 揺れる葉を遠い目で見つめ、維千は言う。

「場所が変われば、価値も変わる」

 風がざわめく。

「……世界は思いの外、広い」

 その言葉は、胸の奥に沈んだ。

「あなた。容姿だけじゃないのね」

 笑った蛍に、沈黙が続く。

「えっと……ごめんなさい」

 視線を落とすと、やはり問いが返ってきた。

「何故、謝るのですか?」

 蛍は考えてから言った。

「あなたが怒っているみたいだったから」

 柔らかな陽が射し込む。

 維千の瞼がわずかに開く。

「……失礼いたしました」

 維千から一切の表情が消えた。

 廊下の温度は戻ったのに、蛍の背中に寒気が走る。

 頬に触れた冷たさに、蛍は涙が凍ったのかと思った。

 維千の指先が、蛍の涙を拭っていた。

「蛍ちゃんは、珍しい人間ですね」

「あなたの方が余程変わってる」

 蛍はぎこちなく笑った。

 さっきより、維千の声が近い。

「ねえ?あなたも魔法使いなの?」

 静けさが大きくなる。

 蛍は足に力を込めた。

「平和維持軍は何故、あなたを頼るの?」

 答えはない。

 精巧品のような能面に、蛍は圧倒された。


 吐息が凍る。


 空気が重くなる。


「あなた…本当に執事なの?」


 音が消えた。


 冷気が頬を掠める。

 

 維千はゆっくり息を吐いた。

「迷宮入りしますよ」

 それ以上、踏み込ませない声音だった。

「維千さんって、おいくつですか?」

  蛍は退かない。

「…見た目通りですし、見た目以上でもあります。見た目以下ではないはずです」

 維千の独り言を蛍は聞き漏らすまいとした。

「自分の年齢ですよね?浦島さんはもうすぐ、あなたより年上になると言っていました」

「生きている時間軸が違う、とでも言いましょうか。年齢が生きた年数を意味するとは限らない、ということです」

「はあ…」

「俺のことで頭を悩ませる暇があるなら、世界との知識の差をさっさと埋めてください」

 階段に片足をかけ、維千は笑顔を戻した。

 窓枠に霜が広がり、すれ違う人々はローブを引き寄せた。

(維千さん、顔は笑ってるけど、ちょっと怒ってる…?)

 蛍は口を固く閉じ、彼に続いて階段を駆け上がる。

ガラス張りの渡り廊下。

 視界が白くなる。

 見える景色は、まるで空に浮いてるようだった。

「あーあ、もっと肩の力を抜かないと」

 少年少女が箒に跨り、ふらふらと空を漂っている。 青年が箒と箒の間を縫うように走っていた。

「あれも魔法?」

「浮かべた物に乗っているだけですよ」

 維千の口振りは軽い。

「あれは…軍の訓練?」

 蛍の声が一歩後退する。窓の向こう、光が揺れる。

「ここは魔法学校です」

 空に浮く人の影が、白い壁に痣のような影を落とす。

 足の感覚が溶ける――自分が異質であることを、蛍は初めて実感した。

 維千は振り返らず、静かに歩を進めた。

 蛍は首飾りに触れ、世界に置き去りにされたような感覚の中で立ち尽くした。

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