第10歯 優しさは必ずしも善人から生まれるわけではない
吹き抜けのラウンジ。
渡り廊下を抜けると、ガラス張りの天井から光が降り注いだ。
床のタイルが白く輝いている。
維千の姿が見えると、それまで談笑していた学生たちが一斉に顔をあげた。
音が消えた。
「お構いなく」
維千の声が響く。
学生たちはぎこちなく生活に戻った。
「こちらが学生寮です」
維千が蛍を振り向く。
「左手に進めば女子寮、右手に進めば男子寮。1階が寮母室に…」
騒々しい足音が、維千の声を掻き消す。
「こらーっ!待ちなさーい!」
ポンパドールの若い女性だった。
彼女の視線の先。
龍の尾のような三つ編みが揺れた。
「サラくん、どこに行くおつもりで?」
駆け抜けようとしたサラの襟首を、維千はすばやく捕まえる。
襟が食い込み、首に巻かれたチョーカーが覗く。
サラは維千の腕にぶら下がり、小さくむせた。
「やっと、追いついた」
女性は呼吸を整えると、サラに顔を寄せて耳元で声を大にした。
「熱があるときは、大人しく寝る!」
「……動ける」
「動けるから大丈夫、じゃないの。心配するじゃない」
「いらない」
「んもーっ!」
女性が地団駄を踏む。維千の手を逃れようとサラが身を捩る。
維千は涼しい顔で動かない。
「風邪菌をばら撒きたいなら、ご自由に」
維千がパッと手を離す。
サラは開いた口をすぐに閉じて、その場に立ち尽くした。
「そーそー、他の子に風邪を……って。その合理的な口ぶり……」
女性がゆっくり顔を上げる。
目が合うと、維千は微笑んだ。
「ご無沙汰しております」
「い、維千…さん?!」
キールは耳まで真っ赤に染め、慌てて身なりを整えた。
「おてんばキールは健在ですね」
「その憎まれ口も相変わらず」
キールは笑顔を引き攣らせた。
「維千さんが、どうしてここに?」
「姫に手を差し伸べる騎士役をメロウさんから仰せつかりまして」
「それはそれは。維千さんにお似合いの役柄だね」
「冗談ですよ、冗談。事務作業が苦手なおじいさんに、仕事を押しつけられただけです」
維千は両手をあげて苦笑した。
だがキールは本気らしい。ラセットブラウンの目をきらきらと輝かせている。
維千は居心地悪そうに顔を逸らした。
「執事になってから、何でも屋のように扱われて気が滅入ります」
「日頃の行いが悪いからだよ」
キールが腹を抱えて笑う。
維千は泣き笑いを浮かべて肩をすくめた。
「あの……サラさんも学生寮に?」
蛍はサラを窺い見た。
背丈は蛍と変わらない。
それなのに、サラの赤い目は妙に拒絶的だった。
「あなたと同じですよ。サラくんには、帰る場所がない」
維千が平然と言う。
サラは顔を背けた。
「あなたも?」
キールが腰をかがめ、蛍を覗き込む。
無邪気な笑顔に、蛍は一歩退いた。
「キール。急で申し訳ないのですが、空きがひと部屋あったでしょう。彼女に貸していただけませんか?」
「知っていると思うけど…寮の利用者は原則、うちの生徒だよ。その子、違うでしょ?」
キールは訝しげな表情で、蛍の頭の天辺から足のつま先までじろじろと見た。
外套はあちこち破れ、異国の服も擦り切れている。
蛍はぎこちない動きで身なりを整え、笑顔を取り繕った。
「訳ありでして。校長には話を通しています」
「校長に話して、寮母の私には連絡なし?」
笑顔を崩さない維千と、不安げな蛍。
キールはふうっと大きく息を吐いた。
「いいよ、維千さんの頼みじゃ断れない。わかっているから連絡しなかったんでしょ?」
「いえ。直接来たほうがあなたは断れないと思いまして」
「相変わらず、根性悪いね」
キールは呆れ果てた様子で維千にジト目を向けたが、維千があははと愉快に笑うと吊られてふふっと笑みをこぼした。
「彼女にとって不慣れな環境です。色々と助けてあげてください」
「蛍です。お世話になります」
蛍は深々と頭を下げ、恐る恐る顔を上げた。
「サラくんも、だよ」
キールがサラの頬を突く。サラはただ、眉間にしわを寄せた。
「あなたのお母さんだと思って、じゃんじゃん頼ってちょうだいね」
キールの屈託ない微笑みに、蛍はホッと胸を撫で下ろした。
「さて。あとは任せて、俺は帰ります」
「ええ?」
「ええ?!来たばかりじゃない」
不安そうな蛍をよそに、キールは不満げな顔で言った。
「急な呼び出しだったもので、残してきた仕事があるんです。蛍ちゃんもずっと気を張っていて、お疲れでしょう」
維千は軽く背筋を伸ばした。
「ゆっくり休んでください。生活に必要なものは明日以降、買い揃えましょう。御用のときはベルを鳴らして」
維千の言葉を遮って、キールがチリリンチリリンとベルを鳴らす。
維千がにっこり笑うと気温がぐっと下がった。
「キール、お静かに」
「さっむ!あはは。維千さん、怒ったね」
「おちょくらない」
「もっとゆっくりしていきなよ。最近、全然かまってくれないじゃん」
「もう子供じゃないんだから」
「大人とも思ってないくせに」
笑顔の維千と、ふて顔のキールが睨み合う。
「ああ、それと」
維千が蛍に紙袋を渡した。表には『Be-lMo』と書かれている。中を覗くと洒落た衣類がいくつか入っていた。
「楊さんから」
「楊さん?」
「維持軍のお色気おば……」
維千は何かを思い出したように苦笑し、コホンと咳払いした。
「平和維持軍の隊長です。あの人は世話焼きだから、いつかお会いすると思いますよ」
「はあ…」
顔も知らない人物にまで親切にされて、蛍は戸惑いを隠せない。
「売店や食堂を利用したいときは、これを使ってください。上限まで入金しているので、足りなくなることはないと思います」
手渡されたのは、右上にSASHIBAと印字された白いカード。
「あの」
「なんでしょう?」
「どうしてそこまでするんですか?」
サラが顔をあげる。
「報酬のない善意は信用ならない」
サラが冷たく言う。
蛍は胸が締め付けられた。
維千が腹を抱えて笑った。
「酒が飲みたいからですよ」
蛍は言葉を失った。
「楊さんは、会ったこともない」
「みんな、狂っているんですよ」
「こらっ!」
維千の清々しい笑顔を引っ叩こうと、キールが手を振り上げる。
「他人を助ける人間は信用しない」
サラがぽつりと呟く。
蛍は何も言えなかった。
それでも――この人たちは、助けてくれた。
「釣れないですね」
維千はひと息吐くと、逃げようとするサラを肩に担いだ。
「離せ、死神」
サラがぽつりと呟いた。
蛍の心臓が止まった。
「サラくんは休みましょう。キール、またね」
キールの頭をぽんぽんと軽く叩いて、維千は姿を消した。
「子供じゃないって言うんなら、大人の扱いしてよね」
維千が立っていたところをじっと見つめ、キールは寂しげに呟いた。
彼女はふうっと息を吐いて天井を仰ぐと、何かを振り切るようにくるっと体の向きを変え、女子寮に続く階段を数段かけ上がった。
「部屋に案内するね。寮にはテックがないから、魔法を使うか自分の足で登るしかなくて」
「テック?」
「知らない?臼歯みたいな椅子がぷかぷか浮いて、高いところまで運んでくれるの」
「ごめんなさい。私、魔法が使えなくて」
「それじゃあ、ひと汗流そっか」
キールはガッツポーズを決めて、ふんっと鼻息を鳴らした。
「維持軍はね…変な人ばっかり」
キールは嬉しそうに笑った。
「みんな一度壊れてる。だから優しくするしかないの。維千さんもね、冷凍人間なんて言われているけど……サラくんが風邪を引くと、何だかんだ理由をつけて来るんだよ」
先を行くキールの声は明るく弾んで、どこか誇らしげにも聞こえる。
「キールさんと維千さんは、どういう関係なんですか?」
息を切らしながら蛍は尋ねた。
「私はね、維千さんに助けられたんだ。まだ軍の隊長だった頃にね」
「隊長?あの人が?」
キールは階段を上り切ると、深呼吸をして乱れた息を整えた。
「蛍ちゃん、サンタクロースは知ってる?」
「子供たちにプレゼントを配る?」
「うん。私にとって、維千さんは青いサンタクロースなんだ。あの人はきっと、私を拾い物くらいにしか思ってないけどね」
「サンタクロース?拾い物?」
「そう」
蛍の言葉を繰り返して、キールは苦々しく笑った。
「私の名前、維千さんがつけたの」
キールの髪が揺れた。
「お酒の名前。あの人らしいでしょう?」
キールは跳ねるような足取りで廊下に出た。
窓から射し込む柔らかな陽射しの中を、まっすぐ進んでいく。
「……きっと、彼にとって難しいことだから」
キールは声を低くした。
「みんな強いって言うけど、本当は弱い人。あの人、 笑うか怒るしかできないの」
キールはふいにハッとして、「あちゃー」と顔を両手で覆った。
「喋りすぎた……維千さんには黙ってて」
「どうして?」
「あの人、自分の話されるの嫌いなんだ。本気で怒るよ。雪冷えキールになる」
キールはぶるると身震いした。
「維千さん、本気で怒ると恐いんだよ。怒れば怒るほど笑うし」
「寒くなる?」
「寒くなる!」
ふたりの声がぴったり重なって、目が合った。蛍は口元に手を添え、キールは維千のように腹を抱えて、クスクスと笑った。
「維千さんは表情のコマンドが基本的に『笑う』しかない」
「泣いたりしないんですか?」
「しないしない。泣かせてみたいね」
キールは力瘤を作って笑った。
「さあ、着いたよ」
キールは最奥の部屋の前で足を止めると、腰の鍵束からひとつ外して開錠し、年季の入ったドアをゆっくりと開けた。
「煩わしいと思うけど、鍵はなくさないように持ち歩いてね」
差し出された鍵には小ぶりのキーホルダーがついている。酒を抱えて酔っ払っているカッパの幸せに満ちた顔に、蛍は思わず笑ってしまった。
「お酒…もしかして、維千さんですか?」
「あの人は全く酔わないけどね。かわいいでしょ、私のお気に入り。蛍ちゃんのお気に入りが見つかるまで貸してあげる」
「ありがとうございます」
キールから鍵を受け取って、蛍は期待と不安に胸を膨らませた。部屋にそっと踏み入れると、正面の大きな窓が目に飛び込んでくる。
青い空と演習場の草花が、窓枠を額縁のように広がっていた。
「すてき」
そう言ったが、胸の奥では落ち着かなかった。
自分のような人間が、こんな場所にいていいのだろうか。
窓の向こうの景色が、どこか遠いもののように思えた。
「でしょう?この部屋、共用スペースから遠くて不便だから不人気なんだけど…景色がいいんだよね。私のイチオシ」
キールは紙袋の中身を開けて、手際よくクローゼットにしまっていく。
「寮の決まり事は…」
「維千さんから聞きました」
「なら、大丈夫かな。わからないことがあったら、いつでも管理人室においで」
「ありがとうございます」
「それじゃ、すてきな寮生活を!」
キールは最後に窓の景色を眺めた。
それから朗らかに手を振り、部屋を出ていった。




