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第8歯 理想には代償がある

「ガルディは滅びます」


 秒針が遅れて鳴った。

「それは言い過ぎっす!」

 浦島が身を乗り出す。

 維千が刀に手をかける。

 チェンは目で維千を捉えたまま、カルテで浦島を制止した。

 蛍の唇に血が滲む。

「させない」

 蛍は細くなった喉から絞り出した。

「誰が?」

 維千の声が刺さる。

 誰も答えない。

 維千は淡々と続ける。

「平和維持軍は未熟な組織です。彼らに国境を越える力はありません。そして」

 維千は一歩、蛍の前に立った。


「あなたにはこの闘いを先導し、生き抜く力がない」


 誰も息をしなかった。

 

 蛍の身体が軸を失う。


「あなたが旗を振れば、人が死ぬ。それを理解していますか?」

 蛍は言葉を詰まらせた。

 胸が焼ける、言葉が出ない。

「私は…!私には…」

 声は維千の黒い剣道着に吸い込まれた。

 愛華は政治を握り、涼風は軍を動かす。

 

 蛍には、

 何もない。


「私は…何もできない…」

 蛍の口内に鉄の味が広がる。

「それでも!私は守らなければならない!」

 チェンがカルテに書き込む音が、やたら重い。

 張り詰めた空気の中、維千だけは軽やかだ。

「何を?」

 すぐさま返されて、蛍は頭が真っ白になった。

「何って…国よ」

「何故?」

「私は王族だから」

「あなたも無力な人間だ」

 チェンが握りしめて、ペン先が折れる。

 一切の音が消える。

 蛍の口の動きに、声が遅れて出る。

「何もできないは、守らない理由にはならない」

「責務を果たせぬ者に、救いは求めない」

 肺が止まった。壁が遠くなる。

 蛍の頬に温かいものが伝う。手を触れるとそれは涙だった。

「他人に答えを求めるから、滅びるんですよ。選ぶのは常にあなたです」

「選ぶ?」

「助けを待つか、自ら赴くか。魔法学校に通えば、平和維持軍はあなたが強くなる手助けができるでしょう」

「魔法を…私が?」

「はい」

 維千が当然のように微笑むと、それまで黙って聞いていたチェンと浦島が顔を強張らせた。

「維千さん、それは…」

「ガルディに魔法を持ち込めば、反逆罪に問われかねんぞ。少なくとも王族でいることはできなくなる」

「今のガルディなら、ね。蛍ちゃんが、ガルディを変えればいい。人間は変化する生き物でしょう?」

「君が変えようとしているのは、歴史だ」

 チェンは呆れて言葉を失った。浦島も乾いた笑いを浮かべている。

「……できないわ」

 蛍が重々しく言うと、維千は「左様ですか」と軽い口調で返した。

 蛍は泣き腫らした目をそれでも逸らさない。維千はじっと見ていた。

「蛍ちゃん、俺が力になりましょうか」

「へ?」

 思いもよらない言葉に、蛍が目を点にする。チェンと浦島はギョッとして、幽霊でも見たかのような顔を維千に向けた。

「未来の民は、冬しか知らない。それでもよろしければ」

「ガルディを?あなたが?」

「俺はできないことは言いません」

 軍にできないことが、この男ならできる。

「からかわないでください。あなたひとりでガルディ奪還なんて…」

 維千は口角をあげたまま、黙っている。

 蛍は真偽を図りかねて、チェンを見た。彼は目を伏せて話に耳をそばだてていたが、蛍と目があうと大きなため息をついた。

「敵の殲滅という意味なら、できるだろう。君の祖国から季節が消えてもいいならね」

 蛍の吐息が霜になる。

 蛍は凍りついた花弁に息を呑んだ。

「それより、維千くん。僕は君が人助けを申し出ることの方がよっぽど信じられんのだが…何を企んでいる?」

「あはは、人聞きの悪い。ガルディ復興の暁に、酔い潰れるだけの酒を奢ってほしいだけです」

 維千は小首を傾げて、蛍の出方を伺っている。

 躊躇いなく差し出された、大きな手。

 握ったら離せないだろう。

「……それでもいい」

 蛍は唇を噛み締めた。

(私はこの化け物を飼い慣らしてみせる)

 維千の手を握り返し、蛍はハッと顔をあげた。

 

 彼の体温は死人だ。


 手を引いたはずなのに、離れなかった。

「契約成立です」

 チェンと浦島はあちゃーと手で顔を覆った。

「蛍ちゃん、それはまずい」

「はい?」

「維千さんは底なしの大酒飲みっす」

「ええ…ちょっと…それって…」

 維千が悪魔のように微笑んで、口元に人差し指を立てる。

「チェンさん、しーっ」

「まったく。こんな少女にまで、君という生き物は…」

 維千はご機嫌に鼻歌を口ずさんで、パッと席を立った。

「俺は着替えてきますね。蛍ちゃんは退院の支度をしてください」

「あの…維千さん?」

「当分の間は、魔法学校の寮をお貸しします。学校の敷地内では自由にしてもらって構いませんが、校外に出るときは俺が付き添います。御用があれば、いつでも呼んでください」

 維千は蛍にベルを手渡すと、喜色満面の笑みを浮かべてひらひらと手を振った。

「それでは、失礼します」

 彼が颯爽と立ち去ったあとを見つめて、蛍は歪むのではないかと心配するほどベルを強く握りしめた。

冷たい。

 指先の震えが、止まっている。

「…悪魔だわ」

 吐き出したはずの言葉は、どこか遠い。

「気持ちはわかるが」

「おさえて、おさえて」

 チェンと浦島が蛍をなだめる。

 ベルに降りた霜が、静かに光っていた。

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