第7歯 魅力的な話ほど、裏が深い
食欲を誘う匂いに、蛍は目を覚ました。
細く開いた窓から風が吹き込む。
ベッドサイドに用意された朝食か。湯気を揺らした。
パンとフルーツ、それから柔らかく煮込んだ野菜のスープ。シンプルなメニューだが、今の蛍には王宮のご馳走よりも眩しく見えた。
「食べたい…」
賛同するように、腹が鳴る。
指先を伸ばすと、窓の向こうに赤いハナズオウが見えた。
鮮やかな赤に、サラの瞳が重なる。
「信用できないけど…敵意はなさそう…」
湧きあがる唾をごくりと飲む。
しかし、「役立たず」なんて言った手前、易々と口にはできない。
室内に、人影はない。
「しっつれいしまーすっ!」
聞き覚えのある声がして、蛍は手に取ったスプーンを落とした。
開け放たれた扉が、静けさを破る。
浦島がひょっこり現れた。
「うっす!蛍ちゃん、食事中っすか」
浦島は人懐っこく笑うと、ベッドの縁に飛び乗るようにして腰掛けた。
「具合はどうっすか?」
浦島の朗々とした声に、蛍は応えない。
浦島は大袈裟な動きで、蛍の顔を覗きこんだ。
好奇心を隠さない目に、やつれた少女が映り込む。
「うっわー…」
浦島が無邪気に笑う。
「失礼ね」
と言いつつも、蛍は笑ってしまった。
(これも魔法なのかしら…?)
耳に幕が張る。
蛍は辺りを見回したが、サラや入鹿の姿はない。胸を撫で下ろす彼女に、浦島は眉をハの字にした。
「サラくんなら、いないっすよ」
蛍の心臓が跳ねた。
浦島が頭の後ろで腕を組む。
「今日は体調不良で、部屋から出てこないっす」
蛍の脳裏に過ぎたのは、サラの身体に刻まれた黒い痕。
乾いた喉の粘膜が張りつく。
「もしかして…私のせい?」
蛍のかすれた声に、浦島は目を丸くした。
風が責め立てるように、窓ガラスを揺する。
「違う違う!」
浦島は千切れんばかりに、首を横に振った。
「ただの風邪っす、かーぜっ!あいつ、持病のせいで、風邪引きやすいんすよ。だから、入鹿さんが…」
その後は聞き取れなかった。
浦島のぼやきはしばらく続き、終いには口を尖らせた。
「サラくんを毛嫌いする割に、お詳しいですね」
剣道着姿の青年が高い背を少し屈めて、医務室に入ってきた。紺碧の髪に天色の目をした容姿は、人間離れして美しい。
彼に微笑みかけられて、蛍は呼吸を忘れた。
「維千さん、遅いっすよ!」
浦島が鼻息荒くする。
「……急に呼び出しておいて、あなたという人は」
維千は髪をかきあげると、肩でため息を吐いた。
「それで?彼女が噂の」
維千の流し目が、蛍を品定めする。
彼はイルカと同様に微笑みを湛えていたが、その表情は妙に無機質だ。わずかな違和感は、よりいっそう目を釘付けにさせる。
冷水を浴びたように、蛍は身震いした。
「蛍ちゃんっす!」
「ちゃん?」
維千が眉を顰める。
室温が下がる。
浦島は汗を拭い、ビシッと姿勢を正した。
「王族と勘付かれたら、まずいっすから。あえて、フレンドリーに呼ぶことにしたんす」
維千の目が鋭くなる。
浦島の喉仏が大きく上下する。
スープの香りが薄まる。
「……さようですか」
維千が腰掛け、ベッドが軋む。
蛍はゴクリと唾を飲んだ。
「蛍ちゃん」
維千の甘い声が、蛍の耳をくすぐる。
清涼な吐息が頬を撫でる。
蛍の心臓が速くなる。
「は、はいッ!」
蛍が顔を赤らめた途端、維千は白けた目をした。
浦島は落ち着きなく、体を揺らしている。
「浦島くん」
「うっす!」
浦島は動きを止め、ビシッと敬礼した。
「政治が絡む事案に、一執事が関わるべきではありません。メロウさんは何と?」
「拾ってきた奴が責任持てって。これも経験だとか、なんとか」
浦島が苦笑いを浮かべて両手をあげると、維千は頭を抱えた。
「迷い犬じゃないんですから……」
空気が温度を失う。
浦島が維千の袖を握り、泣きつく。
「自分、隊長になってまだ1年目っすよ?そんなでかい話は、荷が重すぎるって言ったんす!」
浦島のよく通る声に、維千は笑顔で耳を塞いでいる。何なら目も閉じる。
「それで?俺を頼れ、と?」
「年寄りを酷使するな、らしいっす」
膝から崩れ落ちる浦島を、維千は虫でも払うかのように引き剥がした。
「生きている年数なら、俺も結構なおっさんですが」
その時、無機質な声が維千をバッサリ断ち切った。
「北条くん。都合のいいときだけ、歳を食うのは辞めたまえ」
「診察室」と書かれた扉が開いた。
チェンが肩を回しながら現れる。その顔には、手を差し伸べるのも躊躇うような疲労が滲んでいた。
「君はもう、僕より年下だよ」
チェンは呆れ顔になり、維千に栄養ドリンクを手渡した。
「悪いが冷やしてくれないか?冷蔵庫が壊れてね…ぬるいとクソまずい」
維千は小瓶の蓋を指先で摘み、ゆらゆらと振った。
「他人を冷蔵庫扱いしないでください」
次の瞬間、小瓶の側面に白く霜がつく。
「凍った!?」
蛍の腕からかけ布団が落ちる。
「おバカさん、冷やしすぎだ。瓶が破裂する」
チェンがずれたメガネの位置を正す。
維千はどこ吹く風で、チェンに小瓶を投げた。
「お望み通りでしょう?」
チェンは小瓶を受け取って、糸目をさらに細くした。
「……維千さん。それは冷やすってレベルじゃないっすよ」
浦島に冷ややかな視線を向けられ、維千は手をひらひら振っておどけてみせた。
その何気ない動作でさえ、虜になる。維千の端正な容姿は、畏怖すら感じた。
「…きれい」
蛍が恍惚として漏らしたひと言。
刹那、空気が強張り、皮膚がひりつく。
維千は静かに、口角を持ち上げた。
「くだらない」
テーブルに飾られた花が、寒さに散る。
チェンと浦島は、青ざめた顔を横に振った。
「蛍ちゃん、気をつけたまえ。北条くんは容姿に反比例して、心はひどく歪んでいる」
「維千さんは冷凍人間っすから」
……何かを間違えた。
蛍はすぐさま、維千を見上げた。
呼吸が浅くなる。
維千はそこで、ただ小首を傾げていた。
「ご冗談を」
維千が冗談めかして言う。目は笑っていない。
それでも精巧に作られた微笑みが、蛍の心をこじ開ける。ふたりの警告は、蛍の耳を通り抜けた。
「その冷凍人間に、浦島くんは何を望みますか?」
浦島はごくりと唾を呑んだ。
握った拳に爪が食い込む。
「今後の方針が決まるまで、蛍ちゃんの護衛と世話係をお願いしたいっす」
「俺がやる必要性は?」
維千が時計を見る。
浦島は声を張り上げた。
「蛍ちゃんは、亡命の姫君っす!」
「だから?」
浦島が一歩退く。
維千は足元に落ちた花弁を拾いあげ、指先で砕いた。
「そんなこと、警察に任せればいいでしょう」
「警察は目立つんすよ。維千さんなら、魔法を使わずとも最強っす。執事っすから、接待もお手のものっしょ」
蛍は横目で、維千を確認した。
腰には2本の脇差。
目を伏せて聞き入る姿には、余裕がある。
「これ以上の適役は他にいないっす」
浦島は早口で言い切ると、腕を組み、誇らしげに仰け反った。
しかし、その足は震えている。
白色灯の灯りが揺れる。
維千はそっと目を開けた。
「……対価は?」
浦島がニヤリと笑って、どこからか一升瓶を取り出した。
「じゃじゃーん!褒めごろし、奮発したんすよ!」
浦島は高々と酒瓶を掲げたが、維千はこれ見よがしにため息をついた。
「安酒はお断りです」
「えー?自分は好きっすよ、褒めごろし」
維千が肩を落とし、浦島に手渡された酒瓶をチェンに押しつける。
チェンは眉根を寄せ、酒瓶を浦島に返した。
「そういうのは、酒の味がわかるようになってからにしなさい」
維千はさっさと立ち上がり、医務室の出口に向かった。
彼の背後で、浦島が地団駄を踏む。
「あー!また子供扱いして!自分だって、もうちょっとで維千さんより年上になるんすからね?!」
浦島が歯を食いしばり、蛍を一瞥する。
維千が背中を向けたまま、ひらひらと手を振る。
ぞんざいな扱いに、蛍は黙っていられなかった。
「何か言いなさいよ」
浦島の表情が引き攣って、蛍はすぐに口を噤んだ。
維千の足が止まる。足元に小さな氷柱が伸びる。
維千が振り向くと、パキッと乾いた音がした。
「何を?」
後戻りはできない。
蛍は凍りついた肺を温めるように、深く息を吐いた。
「浦島さん、必死に頼んでいるじゃない」
「だから?」
「かわいそうとか、助けてあげたいとか、思わないの?」
「何故?」
「何故って……あなたが浦島さんだったら」
「あなたのような、厄介な拾い物はいたしません」
淡々と返され、蛍はついに言葉を失った。
脳が締め付けられる。
「どうして、わからないの?」
蛍が落とした言葉に、浦島が顔を背ける。
維千のまつ毛が震える。
チェンが重々しく口を開き、維千が右手で制止する。
維千は蛍から目線を外さないまま、抑揚のない声で尋ねた。
「チェンさん。蛍ちゃんはいつ退院できますか?」
「すぐにでも。サラくんのおかげで回復が早い」
維千は顎に手をやり、黙考する。
「蛍ちゃん。落ちついて聞いて欲しいのですが…」
声から甘さが消える。維千は笑った。




