第4歯 その普通、誰かには非常識
その夢は、まだ自分が「姫」と呼ばれていた頃の記憶だった。
朽ちた欠片が積み重なった大地に、風が吹くたびに死の気配が揺れた。ここが何の跡地なのか、もう誰も知らない。
だから人々は訪れる者を拒み、王家のもとで、外界とは別の時間を生きていた。
「どこ……?」
誰かに追われている。
あるいは、誰かを追っている。
白い回廊だけが果てなく続いていた。踏みしめる石が、かすかに震える。
次の瞬間、蛍の足は空を切った。身体は床に叩きつけられたはずだった。
なのに痛みだけが、どこにもない。
起き上がれない。四肢が鉛のように重い。
それでも蛍は、声だけを前へ投げた。
「涼風お兄様――!」
――バチンッ。
唐突な破裂音が、夢の輪郭を一瞬で砕いた。
景色がほどけ、薄闇に光が滲んだ。着物の袖が鼻先をくすぐり、蛍はそっとまぶたを開いた。
「……おやまあ」
ベッドに寝転がる蛍を挟むように、入鹿がサラの顔面に掌底を叩き込んでいた。
「わはははっ! サラくん、ダサいっす!」
蛍の足元では、浦島がはしゃぐ子犬のように腹を抱えて笑い転げている。
「腹の虫がいたもので……お怪我はありませんか?」
入鹿がそっと手を引く。
「ほら」
入鹿は指先でつまみ上げた“黒いもの”を見せた。
それは太いミミズのようでありながら、どこか幼獣めいた丸い目を持つ、生き物だった。
「ひっ」
声が喉に引っかかった。
差し出された水にも、蛍は手を伸ばせない。蛍は布団の端を掴んだまま指が固まった。
「……まったく」
処置室の奥から、白衣の青年が姿を現した。
細い目が、サラを射抜く。
「また食ったのか?」
サラは視線を逸らした。
「チェンさん」
入鹿が声を顰める。
チェンは入鹿から腹の虫をひったくり、小瓶に放り込んだ。
腹の虫は激しく身をよじらせ、硝子の内側を何度も打った。
「他人の負の感情を摂取するなど非合理的だ。感情の処理主体は本人だ。他者は支えにはなれるが、代行すれば必ず破綻する」
入鹿の指先で、黒いものがうねる。
蛍は口を開けない。
「でも、彼女は助かりました」
「代わりに、彼が潰れるところだった」
チェンがサラの手首を握る。親指が脈を取った、
「これは蓄積した負の感情だ。心を蝕み、やがて人を 化け物に変える。あんなもの、医者がどうこうできるもんじゃない」
秒針の音が、大きく響く。
やたら遅い。
「自己保存を軽視する人間は、最終的に誰も救えない。これは精神論ではない。臨床的事実だ」
チェンはサラの下瞼を指で引き、貧血の色を確かめてから舌打ちした。
「いいか?黒魔法なんぞ二度と使うな」
サラの三つ編みがしゅんと垂れる。
小瓶が、かちかちと小さく鳴った。
「わはは、怒られてるっす」
浦島が茶々を入れる。
サラは無言で浦島を睨んだ。
「君。起きているのなら、サラくんに礼を言ったらどうかね?」
突然呼ばれ、蛍の心臓が一瞬止まる。
「……礼を言う必要があるかしら?」
チェンの眉がぴくりと動く。
「助けられたんだよ、君は」
蛍の目前で、チェンは小瓶を振った。
「いらない」
サラがぽつりと落とした言葉は、部屋の空気にそっと沈み込むように広がった。
蛍は、かけかけた礼の言葉を喉の奥に引っ込めた。
「おやおや、まあまあ」
矢面に立たされたサラを、入鹿だけが同情の目で見つめている。
サラはしれっと視線を外し、ベッドの縁に顎を乗せた。
「それにしても、チェンさんも相変わらず容赦ないっすね。相手は一国の姫君っすよ?」
カルテに書き込みを続けるチェンに、浦島は苦笑いをした。
「関係ないね」
チェンは顔をあげない。返答は素早く、冷たかった。
「王族であろうとホームレスであろうと、ただの患者だ」
チェンはふん、と短く鼻を鳴らして話を切った。
「浦島くん」
入鹿がたしなめるように笑う。
「一国の姫……?」
蛍の呼吸が一瞬、止まる。
聞き間違いではない。彼らは、蛍を“姫”と呼んだ。
そして、“王族”と。
「君はすっかり有名人だよ。長兄が謀反を起こし、次兄は生死もわからない。国を追われた悲劇の姫君と」
蛍の体が凍りつく。
「……悲劇の、姫君」
その呼び名だけで、足首を掴まれたように身動きが止まった。
背中のベッド柵がひやりと冷たい。
「あなた達は一体……」
シーツを握りしめる。
蛍の声が消える。
入鹿は、相変わらず柔らかく笑っていた。
蛍はシーツを握る指に、じわりと汗が滲むのを感じた。




