第3歯 正義は綺麗なものではない
声の主は逆光の中、へんちくりんなポーズで颯爽と現れた。
袖丈の長い詰め襟を羽織り、額に鉢巻きをした青年。
彼はまんまるに赤い頬をさらに赤らめ、短いちょんまげを子犬のしっぽのように揺らした。
『アア?アア?』
怪物は無数の首を一斉に傾げた。
カラカラと骨がぶつかる音がする。
青年は名を呼ばれた犬のように、キラキラと目を輝かせた。
「ワフフ……どうやらまた、ヒーローオーラを隠しきれなかったみたいっすね。バレちゃあ、しょうがないっす」
「いや、誰よ」
蛍は半眼になった。
「浦島桃太郎、ここに見参っす!」
自己陶酔する浦島に、思わず息が漏れる。
風が通り抜ける。
怪物の顎が不気味に鳴った。
黒い巨体が、浦島へ飛びかかる。
その瞬間――
影が落ちた。
空気が止まる。
鈍い衝撃音。
怪物の巨体が、地面に叩きつけられた。
『ガアアアアア!!!』
悲鳴が地面を揺らし、腐臭が立ち込める。
蛍は袖で鼻を覆い、目だけは人影に向けた。
「褐色の肌に、真紅の瞳…?」
その少年は龍の尾のような三つ編みを揺らし、片足で怪物の首を踏み抜いていた。耳元で小ぶりのピアスが光る。
「殺す?」
少年が浦島を振り向く。蛍の肺が縮む。
「待て、待て、待てーっす!」
浦島は給水塔から飛び降りると、少年の前に躍り出た。
「サラくん!これは人間っすよ」
浦島が怪物をバシバシと叩く。
黒い粘液が飛び散り、指に絡みついた。
「……彼は憑物だ」
サラは視線すら動かさない。
「人間は殺さないっす。そんなのは、ヒーローじゃない」
「憑物は救えない」
踏みつけられた首が、ぐにゃりと潰れる。
「助けたら、助かるかもしれないじゃないっすか」
「彼はもう、人を食ってる」
浦島は一瞬だけ言葉を失い、すぐに首を振った。
「……まだ生きてるんす。終わってない」
その声は、どこか縋るようだった。
サラは答えない。
ただ、踏みつける力だけが強くなる。骨が軋む音が、地面を通して伝わる。
「見えてない」
ぐしゃり、と音がした。
踏みつけられた顔のひとつが、内側から裂けて笑った。
『ア……ガ……タス……ケ……』
血の泡が弾けた。
浦島の口が、わずかに開いたまま閉じない。
――誰も、答えなかった。
空気が張り詰める。
サラは血のように赤い目で、蛍の肩に何かを捉えた。
「近寄らないで」
蛍が一歩下がろうとした、その時。
サラは蛍の顎を指でそっと持ち上げ、額に近づけた。
痺れる。
蛍の身体が、なぜか動かない。
ぱくっ――
空気が、ひとひら削れた。
何かを口にする仕草。
蛍の胸の奥で、何かが引き剥がされる。
サラを見上げる。
――一瞬、笑った。
浦島の目が大きく見開かれる。
「なっ?!」
「サラくん、何を食べたんすか?」
サラは黙秘し、足元もおぼつかない。
空になった身体の芯を悪寒が通り抜けて、蛍はたまらずに外套を引き寄せた。
(あれ?体が軽い)
胸の奥に沈んでいた“何か”が、まるごと消えている。
なのに、心の底がざらついた。
サラが口に手をやり、ぐったりと壁にもたれかかる。
呼吸が浅い。わずかに肩が震えている。
浦島はブンブンとサラを揺さぶった。
「は、き、だ、せっすー!」
サラの後頭部が壁にぶつかる。
口の端に、黒いものが一瞬、滲んだ。
「あの…大丈夫…ですか?」
蛍が声をかけるが、サラは微動だにせず、重い口をやっと開いた。
「……吠えてから攻撃。非効率」
「吐き出すのは、本音じゃないっす!」
サラが呆れた様子で肩をすくめると、浦島はうぐっと言葉を詰まらせた。
「正義のヒーローは、姑息こそくな戦い方はしないんすよ!」
サラが眉根をわずかに寄せる。浦島はフンッと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
蛍は呆然とする。まるで素っ気ない猫とやかましい犬の掛け合いを見ているようだ。
「まあまあ」
ふいに穏やかな声が、ふんわりと舞い降りる。
涙珠のような髪飾りを光らせて、その青年はニコッと微笑んだ。
和の羽織に包まれたその姿に、蛍は思わず手を合わせた。
浦島がサラをビシッと指差す。
「入鹿さん!コイツ、殴っていいっすか?」
「……できるなら」
サラが浦島を一瞥する。その涼しげな顔に、浦島がギリギリと歯軋はぎしりをした。入鹿が「まあまあ」と静かに制すが、怒りは収まらない。
「くっそ!自分は絶対!こいつを!仲間とは認めないっすから!」
「そもそも仲間じゃない」
青年は視線だけでサラを咎めたが、彼は気にせず蛍をまじまじと観察していた。
「おやおや。ヒーローは寛大に」
「フンッ」
浦島が被り物の少年を担ぎ上げ、肩が腹に食い込む。少年はうっと声を漏らした。
「姫魅くん、回収っす。さ、帰るっすよ」
浦島がくるっと踵を返す。
サラは蛍の胸元の首飾りを見つけてわずかに目を見開く。
視線が、刃物のように細くなる。
風が吹き抜けた。
「入鹿。この子……残り火」
サラが低く呟く。 浦島の顔から笑みが消えた。
浦島が被り物の少年を落とす。少年は再び、うっと声を漏らした。
サラが首飾りに触れる。
それは、艶かしく光った。
次の瞬間、サラの身体がわずかに傾いた。
頬に汗が伝う。
入鹿は微笑みながら、そっと見守る。
「何…?」
呆然とする蛍に、入鹿が微笑む。髪飾りが静かに揺れる。
風が止む。
その声は命令でも懇願でもない。ただ、逃げ道のない重みがあった。
「いっしょに来ていただけますか?」
入鹿の目が、わずかに見開かれた。
——見定められた、と蛍は思った。
――生きろ。
兄の言葉が脳裏を過ぎる。
(……戻る場所なんてない)
蛍は首飾りを握りしめ――
わずかに力を緩めた。
それでも、指は首飾りから離れなかった。
――蛍はただ小さく、頷いた。




