第2歯 強いから選択するのではなく、選択が人を強くする
蛍が顔を上げると、目の前にいたのは見知らぬふたりの男だった。
「あ?なんだ、ガキ」
低く唸る声。短髪の男が蛍を見下ろす。
その後ろで、長髪の男がタバコに火をつける。
「ほっとけよ、やっちゃん」
長髪男は、小刻みに足を揺すった。
ふたりの作業着には乾いた泥がこびりつき、袖口は擦り切れていた。
「ごめんなさい……人違いだわ」
確かに目の端はしで涼風の姿を見た気がした。しかし、目つき以外には何の共通点もない。
「涼風お兄様は……もっと重厚な雰囲気をまとっているわ。お父様譲の目つきは、“目でクマを殺せる”なんて噂うわさが立つくらい……」
蛍は両手で顔を覆い、肩をぐっと落として落胆した。
「ぜんっぜん、似てない。こんな貧弱じゃ、ネズミも殺せやしないわ」
「貧弱…だと?」
短髪男が一歩、距離を詰める。
「もう一回言ってみろ」
短髪男の目が笑わなくなる。
「ええ。腕なんか、まるでもやしのようだわ」
蛍の礼儀正しい口調が、路地裏の空気から浮いていた。
「どうせ、俺はパンピだよ。てめぇ、魔法使い様か?」
短髪男のこめかみに血管が浮き出る。
「やめとけよ、やっちゃん」
長髪男は前に踏み出し、短髪男の肩を押さえた。加えていたタバコが、千切れ落ちた。
「侮辱だわ。私は、魔法使いなんかじゃない」
蛍の喉が締まり、声に痛みを伴う。
鋭い眼差しに、短髪男は半歩後退した。
「だったら、口の聞き方。気ぃつけろ!」
「あなた、言葉がわかる生き物には――」
一瞬だけ、喉が詰まる。
「とても見えないわ」
蛍は勝ち誇った笑みを浮かべ、短髪男の手を払いのけた。
外套の裾を摘んでお辞儀する。その声は凛と響く。
だが、首飾りを握る指先だけが、わずかに白くなっていた。
「てめえ、笑ってんじゃーー」
男の視界が、ぐにゃりと歪んだ。
蛍の笑みだけが、やけに大きく見える。
皮膚の奥で、何かが膨れ上がる。
――次の瞬間。
男の耳から、顔が溢れ出した。
歪んだ黒い顔が首を伸ばし、駆け寄った長髪男の頭部を喰いちぎった。
首から下は、糸がきれたように崩れ落ちた。
『アガガ……アガ……』
短髪男の体は萎れ、頭部が風船のように膨れ上がる。
頭皮が弾け飛び、無数の顔を纏った球体が現れる。
それはもう、人間ではなかった。
『ドウセ……ドウ、ウセ……』
低い咆哮が、腹の奥を揺らした。
皮膚の内側が、じわりと粟立つ。
――笑い声だけが、残った。
蛍は頬に飛んだ、生温かいものを拭った。
手の甲についた、赤を見つめる。
それは、血だった。
「……何?」
理解するより先に、体が止まった。
――あの時と、同じだ。
兄の腹から、血が溢れていた。
「感情に呑まれちゃダメだ!」
歌うような美声が、路地裏に響いた。
振り向くと、そこに立っていたのは、中折れ帽をかぶった熊とも犬ともつかぬ着ぐるみを――何故なぜか、頭部だけ装った少年が、仁王立ちしていた。
『ナンダ?オオマエ、ナンダ?』
怪物の顔のひとつひとつが首を傾げ、少年の頭の先から爪先までをねっとりと見つめる。
その視線は華奢な白い腕に止まった。
『モヤシダ……オマエナンカ、モヤシダ……』
怪物の口元が歪な弧を描く。
生臭い吐息が、蛍の髪をさらう。
『ダハハハハハ!!!モヤシダ!!モヤシダ!!』
蛍は息を詰めた。
少年の舌をぺろりと出したかわいらしい頭部から、ただならぬ気配が漂う。
「もやしって…」
少年の喉が鳴る。
鼓膜に鋭い痛みが走る。
「もやしって言うな!」
少年が怒り任せに叫ぶ。
少年の声が、空気ごと叩きつけてきた。
胸が潰れる。息が止まる。
次の瞬間、周囲の窓ガラスがまとめて弾けた。
キィン、と耳鳴りが残る。
誰も、すぐには動けなかった。
『マホウツカイ!ダ!マホウツカアアアアアイ!!!』
怪物は急速に回転すると、少年目掛けて飛び出した。
右手から、強く引かれた。
蛍の体が半歩、路地の内側へずれる。
その直後――
黒い塊が、さっきまで立っていた場所を抉った。
背後で、街路樹が折れ、民家の壁に叩きつけられる音が弾けた。
遠くで悲鳴が上がる。
「今の、声……?」
窓ガラスの破片が光に散る――その冷たさに、ほんの一瞬、背筋がぞくりとした。
「悪いけど、あとは任せるわ。魔法使いさん」
蛍は足早に言い切る。笑顔は向けるが、目線は逸らした。
「魔法使いに、関わるつもりはないの」
蛍は足を止め、少年を振り向いた。
返事がない。
「どうしよう……ネルに殺される」
少年は立ったまま、動かない。
白い腕に震えが伝わる。
首飾りの冷たさが、蛍を現実に引き止める。
(震えているのは、私も同じだ)
蛍は少年を見た。握られた腕を振り解き、少年の細い腕を握りなおす。
「ほら、ボーっとしてない!」
蛍の脳内で、もうひとりの自分が叫ぶ。
(助けたんじゃない。お兄様に合わせる顔がなくなるのよ!)
胸元の首飾りが重く揺れる。
蛍は奥歯を噛み締めた。
喉に絞るような痛みが走る。
その間に、少年の青白い首筋が目に入った。
独り言をつぶやく声が遠ざかる。
「魔法でなかったことに…できないよね。今頃きっと、ネルは荒ぶる闘牛のごとく僕を探して……」
「さっさと動く!」
蛍は少年の手を取り、右手で角を曲がった。塀沿いを駆け抜ける。
無我夢中で走った。
⭐︎
空は重く翳る。
蛍は少年の手を握り、迷路のような路地を走った。
乾いた喉を押さえ、ふと後ろを振り返る。
「も…う、追ってこない……わよね」
蛍が少年の袖を引くと、彼もゆるやかに足を止めた。
「これで……貸し借りは、なしよ」
ゼェゼェと息を切らせながら、蛍が顔を上げる。
少年は微動だにしない。
「あんた……凄いわね。息、ひとつ乱れてないじゃない」
――ドサッ。
言い終わらないうちに、少年は前に倒れた。
「えッ…」
蛍の思考が止まる。
「ちょっと……!しっかりなさい!?」
数秒呆然と立ち尽くした蛍は、我に返ると少年に駆け寄り、頭の被り物を外した。
「嘘…」
蛍は息を呑んだ。
「……被り物、ないほうが絶対いい」
現れたのは、人形のように整った黒髪の美少年だった。
「大……丈夫?」
呼吸の合間に溢れた言葉。
「あなたがね?!」
蛍の声が裏返り、少年の口角がわずかに持ち上がる。
「髪…」
「え、な、何!?」
「髪が…ボサボサ…」
少年は声にならない声で口をパクパクさせ、ついに意識を完全に失った。
その手は蛍の外套の裾を握ったままだ。
「余計なお世話よ!」
轟音が迫る。
背後で怪物が唸る。
蛍は少年の腕を肩に回し、立ち上がろうとした。
だが膝が崩れ、ふたりまとめて地面に落ちた。
(……ごめんなさい、お兄様)
蛍は少年に覆いかぶさったまま、自分の無力を感じた。徐々に近付く声に、目をぎゅっと閉じ覚悟を決める。
ふいに頭上から、柔らかくも力強い声が響いた。
「見つけたっす!」
声は、上からだった。
蛍が見上げる。
古びた給水塔の上――
逆光の中に、そいつは立っていた。




