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第14歯 守ることは、同時に切り捨てることでもある

 まだ馴染まない部屋に帰ると、蛍は紙袋の中身を広げた。

 その最中だった。

「もーっ!帰ったなら、言ってよ」

 キールが勢いよく駆け込んでくる。仁王立ちのまま鼻息を荒くした。

 蛍の手が止まる。

 しかし返事は別の場所から落ちた。

「何故?」

 維千が雑巾を硬く絞り、顔をあげる。

 刃物のような視線に、キールは一歩怯んだ。

「……私、寮母だよ?」

 キールが喉から絞り出す。

「ここは蛍ちゃんの家です」

 維千が淡々と切り捨てる。

「部外者は出て行って」

「俺は彼女の世話係です」

 キールの息が詰まる。

 彼女は言葉を探して、消え入る声で呟いた。


「……私の世話係だった」

 

 その言葉だけが、部屋に落ちた。

 誰も拾わない。

 音が、残らなかった。


 蛍の喉が渇く。

 何を言えばいいのか、わからない。

 何かを踏みつけたまま、立っている気がした。


「それ、私の仕事!」

 キールが維千の雑巾を横取りする。

 蛍の足はキールの方を向いていた。


 ——それでも、動けなかった。


「……ままごとだ」

 維千が吐息に混ぜて、ぼやく。

「大概にしろ」

 笑顔の維千が、声を低める。

 キールの瞳が涙で光る。

「……ままごとじゃない」

 蛍の背中に冷たい汗が流れた。

「私は、憧れを追ってるの!」

「それは、蛍ちゃんに必要ですか?」

 静寂に包まれ、ガサガサと紙の擦れる音が大きくなる。

「……あなたは、誰にでも優しい」

 キールは唇を噛んだ。

「名前、呼んでよ」

 維千が一度だけ、瞬く。

「何故?」

 蛍は紙袋の中から小さな小袋を取り出した。

 居心地の悪さが、気持ちを急かした。

「あの!」

 小袋をキールに差し出す。

「これ、お土産です」

 蛍から受け取った小袋を、キールはすぐにポケットにしまった。

「……ありがとう」

 キールがぎこちなく笑う。

「維千さんからです」

 蛍の言葉に、キールが固まる。

「維千さんから?」

 キールはすぐさま小袋を開けた。

 手のひらに転がしたキーホルダーを見て、キールの顔が引き攣る。

「うっわ…ぶっさいく」

 その瞬間、バケツの水が凍る。

 維千が、笑っている。

「か、かわいい!味があるね!アハハ…」

 乾いた笑いは静かに沈んだ。

「いらないなら、蛍ちゃんに渡してください。買わされたものですから」

「え?」

 蛍が一歩引く。

「……遠慮しておくわ」

 蛍は提案こそしたが、維千がまさか、そんな不細工を選ぶとは思っていなかった。

 唾を飲み込む音が耳元で鳴る。

 維千は何事もなかったかのように、掃除を再開した。

「そんな嫌々渡すお土産がある?」

 キールは口を尖らせ、立ち尽くした。

 維千が手を止める。

「あなたは、落とすでしょう?」

 蛍が慌てて付け加える。

「あの……選んだのは、維千さんです」

 キーホルダーを手で包み、キールは弱々しく微笑んだ。

「うん、かわいいよ」

 キールが一拍遅れて、笑った。

「……ほんと、あの人っぽい」

 キーホルダーを握る指先が白くなった。

  蛍は胸の奥がざわつくのを感じた。


 ——この位置、本当は私じゃない。


 キールの小さな声は、維千の背中に届く前に霧散した。


⭐︎


 タンッと鋭い音がした。

 乱暴に置かれたジョッキの中で、ミルクが跳ねる。

「冷凍人間にも程があるっての!」

 キールは袖で口を拭った。

「あの人、ああ見えて面倒見いいっすよ」

 浦島はお手拭きで、溢れたミルクを拭いた。

「じゃあ、私は雑に扱われてる」

 つま先に引っ掛けたヒールを揺らし、キールはカウンターに突っ伏した。

「……懐かしいね」

 カウンターの最奥は維千の特等席。

 その席に、浦島がいる。

「あーあ。なんで……そこにいるのが、浦島なの」

 ため息に乗った言葉は、浦島の心を抉った。

「自分は、ほら。温かいっすよ?」

 浦島が拳で胸を叩く。

「暑苦しいだけじゃない」

 キールはミルクを飲み干すと、片手を上げた。

「マスター、キール」

 店主が一瞬だけ目を細めた。

 目尻の皺が深くなる。

「お、珍しいっすね」

 店主が置いたグラスを、浦島が覗き込む。

 甘酸っぱい香りが鼻先をくすぐった。


「もう何年も迎えに来ない……」


 指先が、無意識にカウンターを叩いていた。


 一定のリズムで、何度も。


「……初めて握ったとき、死人かと思ったよ」

「夏は、あの冷たさが楽なんすよね」

「あの人は、最初からああだったのに……私、馬鹿みたい」

「維千さんは、“まだ同じところにいる”だけっすよ」


 キールの指の動きが止まる。


「人間辞めたら、私も愛してもらえるかな?」


 グラスの中で、氷が小さく鳴った。


 誰も、すぐには答えなかった。


 浦島は口を開きかけて、閉じる。


 音が消える。


「……それ、違うっすよ」


 ふいに、店のベルが鳴った。


 冷たい風が吹き込む。


 キールは振り返った。


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