第13歯 本当の居場所は“向き合うこと”の中にしか生まれない
「浮いてる……」
眼下に広がる町の下に雲が流れ、さらにその下に街が広がる。
蛍は思わず、窓ガラスから2歩下がった。
「当然でしょう」
維千は一歩前に出た。
「アバットメントは、浮遊都市ですから」
蛍の肩から、力が抜ける。
息が落ちる。
ようやく、居場所があった気がした。
「じゃあ、雲の下は?」
「オーラル。あなたを拾った国ですよ。そんなことより」
維千は両腕に下げた紙袋を覗き込んだ。
蛍がぎくりと身構える。
維千が手に取ったぬいぐるみに、霜がつく。
「……荒いのは人使いだけで結構」
蛍はぬいぐるみを乱暴に奪った。
「しょうがないじゃない!全部無くしたんだから!」
維千は顔色を変えない。ただひと言だけ。
「酒、一升分」
「それこそ、無駄遣いよ!」
「酒は心を満たします」
「あなた、心なんて……」
蛍は出かかった言葉を飲み込んだ。
「……ぬいぐるみだって同じよ」
維千は答えない。
正午を告げる鐘が響く。
高らかな音が鳴るたびに、蛍の胸は重くなった。
目が合わせられない。
「いじわるしないことですよ」
穏やかな声が、維千の肩に手を伸ばす。
「ご冗談を」
維千はひらりと交わし、その手首を握った。
「いじめっ子はあなたでしょう」
維千が白けた口調で言う。
最後の鐘が余韻を残して消える。
視線の先で、入鹿が困った風に笑っていた。
⭐︎
「何故、あなたがここに?」
施設内のカフェに場所を移して、維千はティーカップに目を向けたまま訊ねた。
「サラが服を買わないんで、代わりに買いに来たんですよ」
紙袋から取り出した服を広げ、入鹿はホクホク顔になった。
「ない」
維千の酷評に、蛍も頷いてしまった。
左胸にキャラクターのワンポイントがついた、プルオーバー。
「今時のおしゃれはわからなくて……浦島くんを参考にしたのですが」
入鹿は名残惜しそうに言うと、服を畳んだ。
「手本が悪い」
維千がティーカップを置く音に、蛍の心臓が凍りつく。
入鹿は笑顔を崩さない。
「維千より参考になりますよ」
蛍の手からフォークが滑り落ちる。
維千は答えない。
「それに。サラが垢抜けたら、モデルみたいで目立つでしょう?」
入鹿は抹茶ラテを啜った。
「それは遠回しに、浦島くんのことを芋臭いって言ってますよ」
維千が紅茶にミルクを落とす。
甘色の目がもやとなって広がる白をじっと観察している。
蛍は沈黙に耐えきれず、口を開いた。
「どうして、そこまでするの?」
空気が止まった。
「……あの人」
赤い瞳が蛍の頭を通り過ぎた。
「サラさんに頼まられたの?」
入鹿がカップをテーブルに置く。
湯気がなびく。
「蛍ちゃん」
入鹿は姿勢を正し、蛍に向き直った。
「サラはとっても不器用さんなだけで……根は優しい子です。仲良くしてくださいね」
入鹿は、蛍の手を両手で包むようにしてそっと握った。
その姿はまるで……
「お母さん…」
安心したはずなのに、どこか息が詰まる。
——居場所が、奪われる。
蛍は引こうとした手で、しかし、入鹿の手を握り返した。
維千はティーカップに口をつけたまま、ぶふっと吹き出した。
むせ込む維千の背を入鹿が撫でてやる。
「おやおや、笑いすぎですよ」
イルカに怒っている様子はなかった。
「失礼だったかしら」
蛍は何だか申し訳なくなって、肩を丸めて縮こまった。
「あなたは見ていて、飽きないですね」
維千が笑顔になる。
蛍の背筋を悪寒が走る。
入口の人集りが色めき立った。
「あれらとは違う」
維千は人集ひとだかりを、煩わしそうに一瞥いちべつした。
しかし、パッと極上の笑顔を作ると色めき立つ人々にひらひらと手を振った。
「……よく群がる。擬似餌に」
維千の手元で、紅茶が凍る。
蛍は息を止めた。
「維千。おいたが過ぎるぞ」
入鹿が声を低くする。
吐息は白く染まった。
「信じられない。維千さんは元々、「平和維持」軍の隊長なのよね?」
蛍はストローに口をつける。
強く吸っても、飲み物は上がってこない。
蓋を開けると、中身は凍っていた。
蛍の身体もその場に凍りつく。
「その話、誰から聞きました?」
余程触れられたくない話だったのか、維千は満面の笑みを浮かべている。
「ほう?黙秘ですか」
維千は右手にテニスボールほどの氷晶を作って、妖しく微笑んだ。
氷晶の中心には「蛍」の名が刻まれている。
……どうして。
「いけません」
イルカがピシャリと咎めると、維千は氷晶を溶かし、つまらなそうに肩をすくめた。
「どうせ、またキールでしょう?あいつは…」
維千は紅茶にスプーンを突き立てた。
溶けた紅茶が波打つ。
「まあまあ。維千さん、大目に見て。彼女はあなたのことが大好きなんです」
維千にパンをかじらせて、イルカはにっこり微笑んだ。
「ふうん…大好き…」
維千は冷たくなった紅茶を見つめて、イルカの言葉を繰り返した。
「維千さん、もしかしてまだ?」
維千がうっと硬直して、半眼にした目をゆっくり逸らす。イルカはやれやれとため息をついた。
「いくらあなたでも、さすがに気づいているでしょう?ちゃんと向き合わないと」
「わかっています」
「わかっていません」
維千とイルカが睨みあって、カフェの室温がぐっと下がる。
「“大好き”というのは——」
イルカは一瞬、言葉を探す。
「……その人の隣にいる自分を、好きになることですよ」
「……よく喋る」
維千が冷笑を浮かべる。
入鹿は深く息を吸った。
「維千さん。あなたは結んだ縁に責任がある。どうかお忘れなく」
維千は苦笑して、紅茶を一気に飲み干した。
それ以上は、何も答えなかった。




