第15歯 欲望は純化すると“排他”になる
月下に凛と咲く、花のようだ。
虫を誘惑する甘い芳香。
見てはいけない、と脳が告げる。
首筋を汗が伝う。
それでも、キールは目が離せなかった。
「維千さん……?」
キールの爪先から、靴が滑り落ちる。
硬い音が床を打つ。
女は静かに微笑んだ。
紺碧の髪、天色の目。
——似ている。
「維千?」
女は腰まである髪をかきあげた。
「誰だい」
雪色の肌に、暖色の照明が血色を与える。
彼女はキールを見下ろした。
「きれいだねえ」
女はキールの隣に腰掛けた。
椅子が軋む。
キールは浦島に体を寄せた。
皮膚の下で虫が這う感覚。額に汗が滲む。
「あんた、恋してるのかい」
時が止まる。
吸った息が吐けない。
女の目は、肩越しに何かを見ていた。
「何すか、あんた」
浦島がキールの前に立つ。
喉仏が上下した。
——動けなかった。
「邪魔だよ、不細工」
浦島のこめかみが動く。口は開かない。
女の指先が、キールに伸びた。
「泣いているのかい?」
頬に氷が触れた気がした。
死人のような体温が伝わる。冷たさがじわじわと沁みていく。
酔いが覚めた。
「……泣けないよ」
キールは奥歯を噛み締めた。
目の奥は熱いのに、乾いている。
「そうだねえ。それじゃあ、つまらない」
女が片手を挙げる。
——いつの間にか。
目の前に、ウィスキーが置かれていた。
「恋をして、泣けないほどに悲しんで……あんたは「それ」をどうしたい?」
グラスの中で、溶けた氷がひとつ鳴った。
浦島がキールを横目で見る。指先が震える。
キールは爪を噛んだ。
女は目を細めた。
「独占したい?」
「違う」
「尽くしたい?」
「違う」
「尽くされたい?」
「……違う」
爪の割れる音。
ネイルが剥がれる。
浦島がキールの肩に触れた。
「……覗きたい」
キールの声が揺れる。
グラスが、歪んだ景色を映す。
「彼が見ている世界を……」
一拍。
女の高笑いが鼓膜を突いた。
皮膚が痺れる。
浦島はカウンターに金を叩きつけた。
「出るっすよ!」
浦島が出口に向かう。
床を踏む感覚はない。
込めた力が、芯から吸われていく気がした。
浦島がキールの腕を掴む。
するりと抜けた。
「キール!」
浦島が語気を強くする。
キールは立たない。
「……この人、わかってる」
「んなわけ、ないっしょ!」
浦島は腕をだらりと下げる。
時計が低く鳴る。
「……帰って」
「は?」
「帰って!」
キールは視線を外した。
その視線を女は舐めるように辿る。
「お酒が、まずくなるから」
浦島が拳を握る。
爪が食い込む。
「勝手にしろっす!」
乱暴に店を出る。
ドアベルが騒ぐ。
浦島は一度だけ、振り返った。
「呑め」
女がキールの唇に、唇を重ねる。
喉の奥に、何かが落ちてきた。
飲み込んだ覚えはない。
だが、確かに“入ってきた”。
「あんた、何やってん……」
浦島の身体が硬直する。
声が、誰のものかわからなくなる。
キールは白目のない目で、浦島を見た。
「……もう、いらない」
キールの口が歪んだ。
——視界が、ひとつ多い。
甘い、腐敗臭がした。




