Side2:第三十五章
二人は同じ電車に乗り、10分位揺られて、穣の最寄駅で降りた。継子の家からは、まるで反対方向である。二人は、そのまま穣の帰途を歩いた。
穣が、はじめて継子を自宅に招き入れたのは、中間考査の答案返却の日であった。その日、二人は勉強会のために、いつもの喫茶店に来ていた。席についてノートを開くや否や、穣は
「毎度毎度、こうして喫茶店に入っていてはずいぶん金が嵩む。人の目が多すぎて集中も殺がれる。今日を最後に、明日からは場を変えるべきだ」
と言った。尤もなことで、継子はすぐに首肯したが、当の喫茶店で大声で話せる話ではなかったので、すこし声をひそめて尋ねた。
「でも、どこに?」
「それだ。第二校舎には図書館がなく、自習室もない。空き教室で勉強などしていては、俺はともかく、お前の風聞が悪いだろう。しかし、話せなくては魔法は教えられない。公共の図書館じゃだめだ。そこでだ。我が家にしないか?」
「冬河君のうち?」
「ああ。ここから電車で10分位で、往復300円の切符代だけで済む」
「私はなんにも文句ないけど、大丈夫?おうちの方は」
「基本的に家には母さんしかいないから、特に気を遣わずとも大丈夫だ。足労をさせるが、俺がお前の家に行くわけにはいかないからな」
そういう会話がなされてから、もう一ヶ月が過ぎようとしている。継子は、第一校舎の図書館を使うことの出来た競技会期間を除いて、ほとんど毎日、穣の家で勉強していた。このことを深春が知っていたならば、彼女の囃し立てはしぶとさを増していたであろう。
「ただいま」
「おじゃまします」
穣の後につづいて、継子が入る。
「いらっしゃい、継子ちゃん」
芽衣の声が出迎えた。穣はそのまま部屋に入ったが、継子は声のした、居間のほうへ向かった。居間では、芽衣がお茶と菓子の支度をしていた。
「いつもいつも、すみません」
お盆にコップを二つ並べている芽衣に、継子はぺこりと頭を下げて言った。
「あらあら。いいのよ、そんな。こっちこそ、いつも穣と仲良くしてくれて、お礼を言いたいくらいなんだから」
芽衣の笑貌がほんとうに嬉しそうであったので、おもわず継子の方も微笑んだ。来る度に思うが、芽衣と穣とは、外見は親子らしく似ているけども、性格が驚くほどに似ていない。赤心、というものを殆ど表に出さず、理論と分析によってコミュニケーションしようとする穣と違い、芽衣はまったく陰影と打算とを感じさせない。それは、浅薄さの伴う無邪気ではなく、巧詐の虚しさを知っている、包容力を感じさせるやさしさである。かなりの頻度で訪れる継子を、いつでも喜んで迎え、礼さえ口にする。尋常の人でないことくらい、継子にでもわかった。穣に聞けば芽衣は、中退したけれども、最難関の大学に現役で合格したのだという。学力は遺伝する、などということを、平凡な両親を持つ継子は信じたくなかったが、この親子を見ていると非常な説得力を持って感じられてしまう。わからないのは、この母親を持ちながら、どうしてあの様な穣が生まれたのか、ということである。しかし、その謎はどうにも触れ難かった。なぜならば、その謎と正対してみると、まず穣の父親の影響を考えなくてはならず、そうすると、玄関に張ってある、苗字が二つ書かれた表札がたちはだかるのであった。
穣の家に来る様になったために、継子はずいぶんと穣のことを知った。穣に、父親が二人いることも、本人から聞いた。しかし、あくまでそれらの情報は穣から受け取る情報であり、継子から掘り進めて得たものはひとつもなかった。まだ穣とは、知り合って2ヶ月ほどしか経っていないのである。好奇心を向けられる先には、かなりの制限がある。いつか聞こう、ということすら、継子は思わなかった。継子は、持ち前の慎重さで、謎を謎のままとして、受け入れてしまうことを選んでいた。そもそも、穣の方も、継子へ多くの謎を抱えているはずで、謎を失くしていくことが、親しくすることと同義ではない。親しい間柄というのは、謎のない関係ではなく、謎を気にしない関係のことをいうのであろう。
「じゃあ、継子ちゃん。お茶とお菓子、持っていってくれる?」
「はい。ご馳走様です」
「ふふふ。ほんとうに、穣はよくできた娘をつかまえてくるものね。幸ちゃんも良い娘だったし、男の子の友達が少ないのがちょっぴり心配だけど」
そう言うと、芽衣は何か意味ありげに目配せして、お盆を渡した。継子は、その目配せには答えず、ただちょっとはにかんでみせて、穣の部屋へいった。
魔法は、魔法陣によって起こされるものであるから、魔法を学ぶとはそのまま、魔法陣の書き方を学ぶことになる。魔法陣は、魔法文字の羅列によって構成されているから、学ぶべきは文字と、文法と、イメージである。文字の暗記はひとりでできるから、穣は二人の時は、いつも文法かイメージの仕方を教えていた。
今日は、穣は2つ以上の文を繋ぐための文法を教えていた。異なる事象同士を結びつけるため、語形にかなり複雑な変化を伴うので、A組ではこれは一年次の最後に教える。当然、入れ替え試験に出題されることも十分予想される範囲であった。
継子は、噛り付くように、穣の講釈を聞き、例題をこなした。そのうちに、あっという間に2時間以上の時間が経った。時計が19時をまわった。部屋の扉がノックされた。穣は、グラバー教諭に影響されたのか、ノックに返事をしなかった。かまわず、ガチャリとノブがひねられた。
「入るよー」
扉が開いて、エプロン姿の芽衣が入ってきた。
「晩御飯できたから、そろそろにしなさい。継子ちゃん、食べていくわよね?」
「あ、はい。いただきます」
「麻婆豆腐なんだけど、辛いの、大丈夫?」
「はい、好物です」
勉強終わりに、継子が冬河家の晩餐に同卓するのも、もう通例になっていた。はじめは、辞退して帰ることもあったが、今では継子も、すんなり芽衣の料理に舌鼓を打つ。扉が閉じると、パタパタと片づけが始まった。手ぶらで部屋を出る穣の後ろを、鞄を持った継子が従いて出た。食卓に着くと、いただきます、と手を合わせて以降、穣も芽衣も喋らなくなる。継子がはじめて晩御飯を囲んだ時、これにかなりおどろかされた。空気が悪くなったのかと思い、無理に気を使って沢山喋ってしまい、食べ終わった後で穣に、いつもそうなのだと聞かされた。今では、もうすっかり慣れて、芽衣の料理のひとつひとつを、しっかり味わう余裕を持っている。
食べ終わると、継子は食器の片付けまでを済ませてから、鞄を手に取った。
「また来てね。もう、明日にでも」
「多分来るさ。まだ、大きなものがひとつ、片付ききらなかったから」
玄関から、穣の声が答えた。食後、芽衣と継子とが片付けをするのに加わらず、自室へ引っ込んでしまっていたのに、いつの間に玄関へ出ていたのである。
「お言葉に甘えっぱなしで、すみません。また、来ます」
頭を下げて、継子も玄関へ行った。靴を履いた穣が、表で扉を半開きにして待っている。いつでも、穣は継子に先行する。継子は、あわてて靴を履いて、
「さようなら」
と玄関前の廊下で手を振っていた芽衣に挨拶をして、外へ出た。
「お前が来る様になってから、母さんが変に生き生きしだした」
駅へ向かう道で、穣は継子に話しかけた。
「何かと、多くの心配をかけていたから、前が沈んでいただけなのかもしれない。親不孝しかしてこなかった俺としては、母さんの代わりに礼を言いたいくらいだ」
「さっき、お母さんにもお礼を言われそうになっちゃった。勉強を教えてもらって、ご飯を頂いてるのに、お礼まで言われるわけにはいかないよ」
「母さんは、娘ができたみたいで嬉しい、と言っていた。それはつまり、お前の人格を気に入ったということで、充分にお前自身の功績と言えるはずだ。母さんは優しいが、厚意に『甘える』なんて態度を赦すような節度は持っていないから」
穣は、よく継子を褒める。勉強の際は厳しい言葉が多いが、継子という人間を否定的に言ったことがない。それも、珍しいことだと、継子は芽衣に言われた。継子はそれを、穣の人格の高潔さに結びつけた。穣が、弱った犬を棒で叩く様な残酷さと無縁の人であるためだと信じた。勿論、穣は無益な残酷をしないが、弱った犬を棄ておく様な非情さを秘めていることを継子は知らない。継子が、自分の資質によって、穣や芽衣からの厚意を『勝ち取った』のだと想到できない。
「空を見ろ、下田」
突然、穣は上空を指差して言った。
「見たか?」
「うん。けど、なに?」
「人は、夜空を見上げる時、星や月を見る。しかし、それらは夜空という幕の、ほんの一部、糸屑みたいなものだ。ちょっと、彩のある糸屑だ。お前は、糸屑に気を取られていやしなかったか?」
言われて継子は、一等星ばかりを見ていた自分に気がついた。
「広く見ろ、下田。糸屑を幕ではないとは言わないが、糸屑のみを見て幕を測るのは愚かだ。魔法も、人生も」
(続く)




