第9話|奪われた名前
熊谷が柊の机に、新たな資料を並べた。
熊谷が持ってきた資料には、結衣が制作したことを示す証拠が残っていた。
一つずつたどっていくと、完成した作品はその後――川島麻衣の名前でコンテストへ出品され、受賞していた。
さらに熊谷は、久世グループへ入社してからの麻衣の実績も調べていた。
二十六歳で主任になるきっかけとなった複数の作品。
その中にも、結衣が制作したことを示す記録が残っていた。
「社長。少なくとも三作品については、結衣様が実質的な制作者と考えて間違いありません」
柊は資料を見つめたまま、表情を変えない。
だが、その目だけが冷たくなっていた。
「……何年続けていた」
「大学時代からです」
長い間。
結衣は、自分の才能を麻衣に利用され続けていた。
◇
柊はすぐに麻衣の処分を決めなかった。
まず、結衣を社長室へ呼んだ。
「失礼いたします」
部屋へ入った結衣は、机の上に置かれた一枚のデザインを見て足を止めた。
「……どうして、これを?」
大学時代、自分が作った作品だった。
柊が短く答える。
「くまに調べさせた」
結衣は何も言えなかった。
忘れたつもりだった。
けれど、本当は一度も忘れたことなどない。
何日もかけて考えた。
何度も描き直した。
初めて大きなコンテストへ出そうと思った作品。
そして――奪われた作品。
柊が尋ねる。
「川島を辞めさせたいか」
結衣は驚いて顔を上げた。
「いいえ」
すぐに首を振る。
「私は……麻衣さんをクビにしたいわけではありません」
「なら、どうしたい」
結衣はしばらく黙った。
少し前の自分なら、
「もういいです」
そう答えていたかもしれない。
でも、今は違う。
結衣は顔を上げた。
「私の作品を、私の名前に戻してほしいです」
柊は結衣を見つめた。
そして短く答える。
「分かった」
◇
翌日。
デザイン部の緊急会議が開かれた。
出席者は柊、熊谷、デザイン部長、結衣、そして麻衣。
何も知らされていない麻衣は、少し不機嫌そうに席へ着いた。
「急に何でしょうか」
柊は答えず、一枚のデザインを机に置いた。
「川島。これは誰が作った」
麻衣は一瞬も迷わなかった。
「私です」
柊が別の作品を出す。
「これは?」
「そちらも私です」
三枚目。
大学時代の受賞作品だった。
麻衣の表情が、ほんのわずかに変わる。
「これは?」
「もちろん私です。大学時代に賞をいただきました」
柊が熊谷を見る。
熊谷は用意していた資料を順番に並べた。
制作途中のラフ。
作成日時。
修正履歴。
結衣が保存していた元データ。
麻衣の顔から、少しずつ血の気が引いていく。
「これは……」
「説明しろ」
柊の声は静かだった。
麻衣は結衣を見た。
「結衣さんが、私の制作を手伝っただけです!」
結衣の肩がわずかに揺れる。
だが、柊は声を荒らげない。
「なら説明しろ」
「え?」
柊が作品の一部を指す。
「この形を選んだ理由は?」
麻衣は慌てて答えた。
「全体のバランスを考えて……」
「では、この色を使った意図は?」
「それは……」
言葉が止まる。
「感覚的なもので……」
柊は何も言わず、結衣を見る。
「糸瀬」
「はい」
「お前なら説明できるか」
結衣は一瞬ためらった。
けれど、深く息を吸う。
「はい」
資料を見ながら、ゆっくり話し始めた。
「最初はもっと直線的な形でした。でも、この企画は幅広い年代の方に使っていただくことを想定していたので、硬く見えすぎないよう曲線を増やしました」
柊は黙って聞く。
「この色を使ったのは、落ち着いた印象を残しながら、全体が重くなりすぎないようにするためです」
さらに、結衣は最初の案から現在の形へ変えた理由まで説明した。
その内容は、残された制作記録と完全に一致していた。
会議室が静まり返る。
誰も何も言えない。
麻衣だけが、顔をこわばらせていた。
◇
「でも私は正社員です!」
追い詰められた麻衣が突然声を上げた。
そして結衣を指す。
「この子はアルバイトでしょう!」
柊の目が冷たくなる。
「それが何だ」
麻衣が言葉に詰まる。
「雇用形態で作者が変わるのか?」
「……」
答えられない。
柊は手元の正式な調査結果を閉じた。
「川島麻衣」
麻衣の身体がこわばる。
「本日付で主任職を解く」
「待ってください!」
麻衣が立ち上がった。
「私は二十六歳で主任になったんですよ!」
「その主任になるための評価に、他人の作品が含まれていた」
「でも――」
「以上だ」
柊はそれ以上、感情を混ぜなかった。
麻衣名義で発表されている作品については、会社として改めて調査を行う。
本来の制作者が確認できた作品は、記録も評価も訂正する。
それが決定された。
ただし、この時点で麻衣を解雇はしない。
主任から外し、平社員として残す。
柊は、結衣のためだからという理由だけで処分を決めなかった。
会社として必要な手続きを取り、証拠に基づいて判断した。
それでも麻衣にとっては十分だった。
主任という肩書。
自分の実績だと誇っていた作品。
周囲からの評価。
そのすべてが崩れていった。
◇
会議が終わったあと。
廊下で、麻衣が結衣を呼び止めた。
「……満足?」
結衣が振り返る。
麻衣の顔には悔しさがにじんでいた。
「私は麻衣さんの地位が欲しかったわけじゃありません」
「じゃあ何よ!」
以前なら、結衣は目をそらしていた。
けれど今は違う。
「自分で作ったものを、自分の名前で発表したかっただけです」
麻衣は言い返せなかった。
結衣は小さく頭を下げ、その場を離れた。
誰かを負かしたかったわけではない。
誰かの地位を奪いたかったわけでもない。
ただ――。
自分の人生を、自分の名前で歩きたかった。
けれど麻衣は、そうは受け取らなかった。
主任を失った。
実績を失った。
評価を失った。
そして、そのすべてを――。
結衣に奪われたのだと思い込んだ。
◇
その夜。
麻衣は一人、スマートフォンを握っていた。
しばらく迷ったあと、一人の女性へ電話をかける。
「……二階堂さん。少し、お話があります」
数日後。
ホテルのラウンジ。
麻衣と怜奈が向かい合っていた。
「私、主任を外されました」
怜奈は紅茶を一口飲む。
「そう」
「全部、糸瀬結衣のせいです」
怜奈は静かにカップを置いた。
「偶然ね」
麻衣が顔を上げる。
怜奈は微笑んだ。
「私も、あの子には柊のそばから消えてほしいと思っていたの」
二人の目的が、初めて重なった。
お読みいただきありがとうございます。
柊と結衣のこれからを、引き続き見守っていただけたら嬉しいです。
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