第8話|俺と付き合え
夜の社長室。
柊は窓の外を見たまま、低い声で尋ねた。
「どうすれば、あいつは俺を選ぶ」
熊谷は一瞬だけ困った顔をした。
「社長。お気持ちは結衣様にお伝えになったのですか?」
柊が黙る。
熊谷は察した。
「……まだなのですね」
十五年間探してきた。
ようやく見つけた。
誰よりも大切にしたい。
二度と失いたくない。
だが、それを結衣本人には一度も伝えていない。
熊谷は淡々と言った。
「社長。結衣様はエスパーではございません」
柊がゆっくり振り返る。
「……くま。最近、俺に遠慮がないな」
「昔からでございます」
「……くま」
「はい」
熊谷は平然としている。
柊はしばらく黙ったあと、椅子へ座った。
確かに、伝えなければ分からない。
結衣が自分を選ぶのを待つだけでは駄目だ。
今度は、自分の口で言う。
◇
そのころ。
怜奈は結衣の存在が気になって仕方がなかった。
会社を訪れた怜奈は、廊下で結衣を見つけると笑顔で声をかけた。
「結衣さん」
「二階堂さん」
結衣は足を止める。
「この前はごめんなさいね」
「え?」
「久世おじいちゃまが、昔から勝手に柊との結婚を期待しているの」
怜奈は困ったように微笑んだ。
「私と柊は幼なじみだから、仕方ないところもあるんだけど」
「いえ……」
結衣は何と答えればいいのか分からない。
怜奈は責めるような口調ではなかった。
むしろ優しい。
だからこそ、その言葉は結衣の胸に入り込んだ。
「でも、久世家の結婚って、柊一人の問題じゃないでしょう?」
結衣の表情がわずかに変わる。
久世家。
久世グループ。
跡取り。
家柄。
自分とは、あまりにも遠い世界だ。
「柊も最後には、久世家にふさわしい方を選ぶと思うわ」
怜奈はそれだけ言うと、にこりと笑った。
「それじゃあ、また」
結衣は頭を下げる。
「失礼します」
怜奈が去ったあとも、結衣はしばらく動けなかった。
あなたでは無理。
怜奈は一度もそう言っていない。
それでも、結衣には十分だった。
やっぱり、自分は柊を好きになってはいけない。
◇
その日の夕方。
結衣は社長室へ呼ばれた。
「失礼いたします」
部屋に入ると、いつもいる熊谷の姿がない。
柊と二人きりだった。
「そこに立ってろ」
「はい」
結衣は緊張したまま柊を見る。
何を言われるのだろう。
柊は少しの間、結衣を見つめていた。
そして、いきなり言った。
「結衣。俺と付き合え」
結衣が固まる。
「……え?」
「聞こえなかったのか」
「聞こえましたけど……」
「なら返事をしろ」
あまりにも突然だった。
告白というより、仕事の指示に近い。
結衣は目を瞬かせた。
「どうして……私なんですか?」
柊は答えようとして、口を閉じた。
十五年前から。
その言葉が出かかった。
だが、今それを言うべきではない。
昔の少女だったから選ばれた。
結衣がそう思ってしまうかもしれない。
違う。
柊が好きなのは、今の結衣だ。
母を支えながら働く結衣。
理不尽な目に遭っても、人を恨まずに生きてきた結衣。
デザインを諦めなかった結衣。
再会してから知った、そのすべてだ。
柊は短く答えた。
「お前だからだ」
「……」
結衣には余計に分からなかった。
◇
しばらく沈黙が続いた。
やがて結衣は深く頭を下げた。
「……ごめんなさい」
今度は柊が黙る。
断られることを、ほとんど考えていなかった。
「理由を言え」
結衣は顔を上げられない。
「私は、まだアルバイトです」
「それが?」
「社長は久世グループの社長です。私とは……住む世界が違います」
「前にも聞いた」
「それだけじゃありません」
結衣は手を握った。
「母の手術費までお借りしています」
「返してるだろ」
「でも、もし私が社長とお付き合いしたら……お金目当てだと思われます」
柊の眉が寄る。
「誰に」
「周りの人にです」
柊にはどうでもいい。
だが、結衣には違うのだろう。
「それに……」
結衣の脳裏に、先ほどの怜奈の言葉が浮かんだ。
「いつか社長が、本当に久世家にふさわしい人と結婚するときが来たら……」
声が小さくなる。
「私は、きっと困ります」
柊の目が細くなった。
「俺がほかの女と結婚すると思ってるのか」
結衣は答えられなかった。
柊にとって、そんな未来は最初から存在しない。
だが、結衣にはそれが分からない。
◇
柊は無理に説得しなかった。
「分かった」
結衣が少し驚く。
諦めてくれた。
そう思った。
だが――。
「待つ」
「え?」
「お前が俺を信じるまで待つ」
「社長……」
「ただし、諦めたとは思うな」
結衣は何も言えない。
「怜奈のことも忘れろ」
結衣が顔を上げる。
「俺があいつと結婚することはない」
迷いのない声だった。
胸が熱くなる。
嬉しい。
本当は言いたい。
私も好きです、と。
けれど、まだ怖かった。
結衣は小さく頭を下げる。
「……失礼いたします」
柊は追わなかった。
今度は、結衣自身が選ぶまで待つ。
◇
その夜。
結衣は手術後も入院を続ける母を訪ねた。
母は娘の顔を見るなり笑った。
「結衣。何かあった?」
「何もないよ」
「嘘。好きな人でもできた?」
結衣は黙った。
それだけで十分だった。
母は静かに娘を見る。
「お母さんのために、自分の幸せを諦めるのだけはやめてね」
結衣の目に涙が浮かぶ。
「……うん」
同じころ。
社長室では、熊谷が新たな資料を柊の前へ置いていた。
「社長。大学時代の件ですが、ようやく確認が取れました」
「何が出た」
「結衣様が制作したことを示す、当時のラフと制作データです」
柊の目が変わる。
そこには――。
川島麻衣の名前で受賞した作品へつながる、結衣自身の制作記録が残されていた。




