第7話|好きになってはいけない
それから少し経ったころ。
結衣は大きなデザインプロジェクトのメンバーとして、本社での打ち合わせに参加する機会が増えていた。
自分の意見を求められる。
自分の名前で仕事ができる。
少し前までは考えられなかった毎日だった。
ある日、会議を終えた結衣が資料を抱えて廊下を歩いていると、少し先から聞き覚えのある声がした。
柊と、祖父・竜之介だった。
立ち聞きするつもりはなかった。
そのまま通り過ぎようとしたとき――。
「怜奈ちゃんとの縁談を、そろそろ正式に進めたらどうだ」
結衣の足が止まった。
二階堂怜奈。
華やかで上品で、家柄もいい。
しかも柊とは幼いころからの付き合いだ。
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
結衣はその先を聞かず、足早にその場を離れた。
だから知らなかった。
直後、柊が即答したことを。
「断る」
「まだ何も言ってないぞ」
「怜奈と結婚しろという話なら、何度聞いても同じだ」
竜之介が呆れた顔をする。
「じゃあ、誰ならいいんだ」
柊は一瞬黙った。
頭に浮かんだのは、一人だけだった。
「じいさんには関係ない」
一方、結衣は廊下を歩きながら、自分に言い聞かせていた。
やっぱり、そうだよね。
社長と二階堂怜奈。
誰が見ても釣り合っている。
自分が社長を好きになったこと自体、間違いだったんだ。
◇
翌日から、結衣の態度は明らかに変わった。
これまで自分で社長室へ届けていた資料を、ほかの社員に頼むようになった。
廊下で柊と会っても、
「お疲れさまです」
頭を下げ、すぐに立ち去る。
仕事以外の話はしない。
当然、柊が気づかないはずがなかった。
「くま」
「はい」
「結衣が俺を避けている」
熊谷は平然と答えた。
「そのようですね」
「なぜだ」
「私にお聞きになりましても」
柊の眉間にしわが寄る。
「何か知ってるのか」
「さて」
熊谷は書類を整える。
何となく理由は察していた。
しかし、そこまで秘書が説明することではない。
それくらいご自分でお尋ねください。
表情には出さないが、態度はそう言っていた。
柊は不機嫌そうに黙る。
いくつもの企業を動かす男が、一人の女性に避けられた理由だけは分からない。
◇
そんなある日。
柊がデザイン部を通りかかると、結衣の笑い声が聞こえた。
足が止まる。
結衣が同じプロジェクトの若い男性社員と話していた。
楽しそうに笑っている。
最近、自分にはあんな顔を見せない。
「ここの調整、糸瀬さんの案のほうがいいと思うよ」
「本当ですか? ありがとうございます」
男性社員が、結衣の肩に何かついていることに気づいた。
「あ、糸瀬さん。肩に――」
手を伸ばす。
その瞬間。
「糸瀬」
低い声が響いた。
二人が同時に振り返る。
「社長!」
柊は結衣ではなく、男性社員を見た。
「仕事は終わったのか」
「い、いえ」
「なら戻れ」
「はい!」
男性社員は慌てて自分の席へ戻った。
結衣は何が起きたのか分からない。
「社長、何かご用でしょうか」
「……別にない」
「え?」
柊はそのまま立ち去った。
結衣は首をかしげる。
少し離れた場所にいた熊谷だけが、すべてを理解していた。
完全に嫉妬している。
◇
その日の午後。
結衣は社長室へ呼ばれた。
「失礼いたします」
扉を閉めると、柊がすぐに尋ねた。
「なぜ俺を避ける」
結衣の肩が揺れた。
「避けていません」
「嘘をつけ」
「……」
「理由は」
逃がしてくれそうにない。
結衣はしばらく黙ったあと、小さな声で言った。
「……ご結婚、おめでとうございます」
柊が固まった。
「誰が?」
結衣は戸惑いながら答える。
「社長が……二階堂さんと」
「誰がそんなことを言った」
「先日、廊下で偶然……会長とお話しされているのが聞こえてしまって」
柊は眉間を押さえた。
「最後まで聞かなかったのか」
「え?」
「断った」
結衣が顔を上げる。
「俺は怜奈と結婚しない」
「……そうなんですか?」
「ああ」
胸の奥に、ほっとした気持ちが広がった。
結衣はそれを悟られたくなくて、慌てて言った。
「でも、二階堂さんなら久世家にもふさわしいですし……」
柊の機嫌がさらに悪くなる。
「なぜお前が俺の結婚相手を決める」
「す、すみません」
結衣はうつむいた。
柊はそんな結衣を見ながら、ふと気づいた。
縁談の話を聞いた。
その翌日から、自分を避け始めた。
なら――。
柊が立ち上がる。
結衣へ一歩近づいた。
「俺が怜奈と結婚すると思って、嫌だったのか」
「……!」
結衣の顔に動揺が走る。
「違います」
「なら俺を見ろ」
結衣は顔を上げられない。
「結衣」
初めてだった。
仕事でもないのに、社長から名前を呼ばれた。
命令するときの声とは違う。
低く、優しい声。
それだけで胸が苦しくなった。
「……困るんです」
「何が」
「社長が優しくすると、困ります」
柊は黙った。
結衣は握った手に力を込める。
「私は社長とは住む世界が違います」
久世グループの社長。
日本屈指の財閥、久世家の跡取り。
それに比べ、自分はアルバイトからようやく仕事を認められ始めたばかり。
父を亡くし、母と二人で生きることだけに必死だった。
並んでいい人ではない。
「だから……これ以上、優しくしないでください」
結衣は深く頭を下げる。
「失礼します」
柊は追わなかった。
閉じた扉を見つめる。
ただ、一つだけ分かった。
何とも思っていない男が誰と結婚しようと、避ける必要などない。
結衣も自分を、何とも思っていないわけではない。
◇
夜。
熊谷が社長室の机にコーヒーを置いた。
「くま」
「はい」
柊は窓の外を見たまま言った。
「俺は、結衣が欲しい」
熊谷の手が一瞬止まる。
「存じております」
十五年間探した。
ようやく見つけた。
もう二度と失いたくない。
だが、結衣が望まなければ意味がない。
「どうすれば、あいつは俺を選ぶ」
熊谷は珍しく、少しだけ困った顔をした。
企業経営なら迷うことなく決断できる久世柊にも。
恋愛だけは、まるで分からなかった。




