第6話|母の手術
手術を引き受けてくれる医師は見つかった。
しかし、結衣の前には新たな問題があった。
治療費だった。
「お願いします。手術を受けさせてください」
結衣は迷わなかった。
しかし、すぐに現実的な問題が突きつけられた。
高度な治療に加え、手術後には長期の入院やリハビリも必要になる。
費用は、結衣が簡単に用意できる金額ではなかった。
帰宅すると、通帳を開いた。
何度計算しても足りない。
病院にも支払い方法を相談した。
それでも、どうにもならない金額が残った。
「結衣」
病室で母が静かに言った。
「もう十分よ。無理しなくていいの」
「何言ってるの」
「あなたはずっと頑張ってくれたもの」
結衣は首を振った。
九歳で父を失った。
今、自分に残っている家族は母だけだ。
「お母さんまで諦めるなんて、できないよ」
「でも……」
「絶対に何とかするから」
そう言ったものの、方法は見つからなかった。
◇
翌日。
出社した結衣は、社長室へ呼ばれた。
「失礼いたします」
「入れ」
柊の前には、結衣の母に関する資料が置かれていた。
「手術を受けさせろ」
あまりに突然で、結衣は目を瞬いた。
「……え?」
「受けられるんだろ」
「はい。でも、お金が……」
「俺が出す」
結衣はすぐに首を振った。
「そんな大金、いただけません」
「やるとは言ってない」
「え?」
柊は結衣を見る。
「貸す。返したければ返せばいい」
結衣は言葉を失った。
それでも簡単にはうなずけない。
「いつ返せるか分かりません」
「……」
「何年かかるかも分かりません。それでも――」
「金の話はあとだ」
柊の声が少し低くなる。
「今は母親の命だろう」
結衣は黙った。
その通りだった。
返せるかどうかを考えている間にも、母の病気は待ってくれない。
ここで意地を張って、手術を諦めたら。
きっと一生後悔する。
結衣は膝の上で両手を強く握った。
そして、深く頭を下げる。
「……必ず返します」
「好きにしろ」
柊はそれ以上何も言わなかった。
結衣にとって、この金額がどれほど重いものか分かっている。
だから「返さなくていい」とも言わなかった。
◇
手術当日。
結衣は朝から病院にいた。
手術室へ入っていく母を見送り、それから何時間も待合室で過ごした。
時計を見る。
十分しか経っていない。
また時計を見る。
それでも時間はほとんど進んでいなかった。
落ち着かず立ち上がったとき、廊下の向こうから背の高い男性が歩いてきた。
「……社長?」
柊だった。
「どうだ」
「まだ終わってません」
「そうか」
柊は結衣の隣に座った。
結衣は驚いたまま、その横顔を見る。
「会社は大丈夫なんですか?」
「くまがいる」
「でも、社長ですよね?」
「だから?」
結衣は返す言葉を失った。
柊は大丈夫だとも、心配するなとも言わなかった。
ただ隣にいた。
ときどき時計を確認するだけで、何も聞かない。
それが結衣にはありがたかった。
無理に励まされたら、張り詰めていたものが切れてしまいそうだった。
さらに時間が過ぎた。
手術室の扉が開き、担当医が姿を現す。
結衣は勢いよく立ち上がった。
「先生……」
医師がマスクを外し、微笑んだ。
「手術は無事に終わりました」
「……本当ですか?」
「はい。予定していた処置はすべてできました」
結衣の身体から一気に力が抜けた。
「……よかった……」
涙があふれた。
その場に崩れそうになった身体を、柊の腕が支える。
「しっかりしろ」
「すみません……」
「謝るな」
結衣は泣きながら何度もうなずいた。
母はすぐに元の生活へ戻れるわけではない。
入院も経過観察もリハビリも続く。
それでも。
母を失わずにすんだ。
その事実だけで十分だった。
◇
数日後。
母の容体が安定したのを確認し、結衣は仕事へ戻った。
デザイン部長に呼ばれ、渡された資料を見て目を疑う。
大きなプロジェクトのデザイナー候補に、結衣の名前があった。
「私が……ですか?」
「そうだ。選考結果だ」
嬉しい。
だが、結衣の頭に真っ先に浮かんだのは柊だった。
その日の午後、結衣は社長室を訪れた。
「これ……社長が私のために?」
柊の眉間にしわが寄る。
「違う」
一枚の資料を差し出された。
結衣が確認すると、候補作品の選考結果だった。
審査時には名前も立場も伏せられている。
その中で、結衣の作品が最高評価を獲得していた。
「俺が決めたんじゃない」
「でも……」
「お前のデザインに金を払う価値があると、会社が判断した」
結衣は資料を見つめた。
母が病気だからではない。
社長に助けてもらったからでもない。
自分が作ったデザインを見て、選んでもらえた。
結衣はゆっくり顔を上げた。
「……やります」
その声には、以前にはなかった力があった。
◇
プロジェクトが進み、結衣には通常の給与とは別に特別報酬が支払われた。
百万円。
振り込まれた金額を確認した結衣は、生活に必要な分だけを残し、その多くを柊への最初の返済に回そうとした。
それを知った柊は呆れた顔をした。
「全部返す必要はない」
「返すって約束しました」
「生活費はどうする」
「それは別に残します」
「母親にも金がかかるだろ」
「それも計算しました」
柊は黙った。
この顔をした結衣が譲らないことは、もう分かり始めている。
「……好きにしろ」
結衣が小さく笑う。
「ありがとうございます」
その笑顔を見ながら、柊は思った。
昔から変わらない。
人に頼ることが苦手で、何でも自分で背負おうとする。
だが、結衣の中にも変化が生まれていた。
怖いと思っていた社長。
自分の才能を認めてくれた人。
母を救うため、何も求めず力を貸してくれた人。
いつの間にか、結衣は柊の姿を目で追うようになっていた。
◇
その夜。
結衣は母の病室を訪れた。
手術前に比べ、母の顔色はずっとよくなっている。
「最近、結衣、何かいいことあった?」
「え?」
「顔が違うもの」
「そんなことないよ」
母は娘の顔を眺めて、楽しそうに笑った。
「好きな人でもできた?」
「えっ?」
その瞬間。
頭に浮かんだのは――久世柊だった。
「違うよ!」
思った以上に大きな声が出た。
母がますます笑う。
「そう?」
「そうだよ」
結衣は慌てて否定した。
けれど、その夜。
自分の部屋へ戻ってからも。
病院で何も言わず隣に座ってくれた柊の横顔が、何度も頭に浮かんだ。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
楽しんでいただけましたら、ブックマーク・評価をいただけると励みになります。




