第5話|怖い社長の素顔
柊は祖父・竜之介から久世本邸へ呼び出された。
「久しぶりに一緒に食事でもしよう」
珍しい誘いだとは思った。
だが、食事の間へ入った瞬間、柊は足を止めた。
そこに祖父の姿はない。
代わりに座っていたのは、二階堂怜奈だった。
「柊、遅かったわね」
怜奈が笑顔で振り返る。
柊は部屋を見回した。
「……じいさんの仕業か」
「せっかくだから、お食事くらいいいでしょう?」
怜奈は向かいの席を示した。
だが、柊は座ろうともしない。
「悪いが帰る」
「柊!」
怜奈が思わず立ち上がる。
「せっかく用意していただいたのよ?」
「頼んでない」
それだけ言うと、柊は背を向けた。
「待って」
怜奈の声にも振り返らず、そのまま屋敷を出ていく。
これまでなら、怜奈も気にしなかった。
柊が女性に興味を示さないことは、昔から知っている。
誰に対しても同じだった。
だが今は違う。
怜奈は見てしまった。
結衣が社長室を出ていったあと、柊がいつまでも扉を見つめていたことを。
これまで柊の中には存在しなかった女性がいる。
そう思った瞬間、怜奈の胸の奥に初めて明確な嫉妬が生まれた。
◇
食事を断った柊は、そのまま会社へ戻った。
夜も遅く、ほとんどの部署はすでに消灯している。
しかし、デザイン部だけに明かりが残っていた。
柊が足を向けると、一人の女性がパソコンに向かっている。
結衣だった。
「こんな時間まで何をしている」
「ひゃっ……!」
結衣が肩を跳ねさせて振り返る。
「社、社長!?」
「驚きすぎだ」
「すみません。誰もいないと思っていて……」
結衣は慌てて立ち上がった。
柊が時計を見る。
「何時だと思ってる」
「もう少しで終わります」
「そういう話じゃない」
結衣は困ったように笑った。
「今日、母の病院へ行くために早退させていただいたので。
その分だけでも終わらせておこうと思って」
柊の眉が寄る。
「早退を認めたのは会社だ。取り戻す必要はない」
「でも、ほかの方に迷惑をかけていますから」
結衣はそう言って、また笑った。
その表情を見ながら、柊は十五年前を思い出していた。
結衣は昔からそうだった。
自分のことより、誰かのことを気にする。
ただ――。
今の結衣には、九歳のころにはなかった疲れが見える。
「今日はもう帰れ」
「あと少しだけですから」
「駄目だ」
「でも――」
結衣が立ち上がった、そのときだった。
身体がぐらりと揺れる。
柊はとっさに腕を伸ばした。
「大丈夫か」
「あ……」
結衣の身体が柊の腕に支えられる。
「だ、大丈夫です」
「大丈夫な顔じゃない」
柊は結衣を椅子へ座らせた。
「夕食は」
結衣が黙る。
「食べてないのか」
「朝は食べました」
「昼は」
「少し……」
柊の眉間のしわがさらに深くなる。
しばらくすると、社内に残っていたスタッフが簡単な食事を運んできた。
結衣は目を丸くした。
「社長にこんなことまでしていただくなんて……」
「食え」
「……はい」
言い方だけ聞けば、命令そのものだ。
結衣は箸を持ちながら、思わず笑った。
「何がおかしい」
「すみません」
それでも笑いが残っている。
「社長って、もっと怖い方だと思っていました」
柊が結衣を見る。
「今も怖がってるだろ」
「……少しだけ」
「……」
柊の眉間にしわが寄る。
それを見て、結衣がまた笑った。
柊はその笑顔から目を離せなかった。
十五年前。
何度も自分を笑わせた少女と同じ笑顔。
だが、今目の前にいるのは九歳の少女ではない。
二十四歳の、結衣だ。
柊に見つめられていることに気づき、結衣の頬が赤くなる。
「……あの、社長?」
結衣は視線をそらした。
胸が妙に落ち着かない。
初めてだった。
久世柊を「怖い社長」ではなく、一人の男性として意識した瞬間だった。
◇
食事をしながら、自然と家族の話になった。
「家族はお母様だけなのか」
「はい。父は私が九歳のときに亡くなりました」
柊の手が止まった。
「兄弟は?」
「いません。一人っ子です」
結衣はそう答えてから、ふと思い出したように笑った。
「でも、小さいころはお兄ちゃんがいたら、こんな感じなのかなって思った人がいました」
柊がゆっくり顔を上げる。
「……どんな人だ」
「父が亡くなる少し前に、近くの別荘に来ていたお兄ちゃんです。
ほんの短い間しか会えなかったんですけど」
「覚えているのか」
「はい。全部は覚えてないんですけど……ちょっと怖いお兄ちゃんだったことは覚えてます」
「……怖かったのか」
「はい」
迷いのない返事だった。
柊の眉間にしわが寄る。
結衣は気づかず、懐かしそうに続けた。
「最初は全然しゃべってくれなくて。
でも、だんだん笑ってくれるようになったんです」
柊は黙って聞いていた。
「別れるとき、『また来る』って約束してくれて」
結衣の表情が少し曇る。
「でも、そのあと父が亡くなって、急に引っ越してしまったから……」
「……」
「きっと戻ってきても、私はいなかったでしょうね」
その言葉に、柊の胸が詰まった。
結衣は忘れていなかった。
自分を。
十五年前の約束を。
「結衣。俺は――」
その瞬間。
結衣のスマートフォンが鳴った。
「すみません」
画面を見た結衣の顔色が変わる。
「病院……」
通話に出た結衣は、すぐに立ち上がった。
「え……お母さんが?」
手が震えている。
通話が終わると、結衣の顔から血の気が引いていた。
「お母さん……」
柊も立ち上がる。
「行くぞ」
「え?」
「送る」
「でも、社長にそんな――」
「今は遠慮している場合じゃない」
反論を許さない声だった。
◇
柊の車は、すぐに病院へ向かった。
到着すると、結衣は何度も頭を下げた。
「本当にありがとうございます」
「早く行け」
「はい」
結衣は病院の中へ駆け込んでいった。
柊はその後ろ姿が見えなくなるまで見つめた。
やがてスマートフォンを取り出す。
「くま」
『はい』
「結衣の母親の病気を詳しく調べろ」
『承知いたしました』
柊は病院を見上げる。
「この病気を治せる医師がいるなら探せ。国内外を問わない」
電話の向こうで、熊谷がほんの一瞬黙った。
『承知いたしました』
◇
数日後。
母の病室にいた結衣は、担当医から呼ばれた。
「糸瀬さん。お母様の手術についてですが……」
結衣の身体がこわばる。
これまで何度も聞かされていた。
病変の場所が難しく、手術は非常に危険だと。
だが、医師の口から出た言葉は予想外のものだった。
「この手術を引き受けてくださる先生が見つかりました」
結衣が息をのむ。
「……本当ですか?」
「はい」
一瞬、希望が見えた。
しかし、医師の表情は晴れない。
「ただ――」
結衣の胸がざわつく。
「治療には、かなり高額な費用がかかります」
結衣の笑顔が消えた。
母を助けられるかもしれない。
なのに。
今の自分には、そのお金がない。




