第4話|私の名前で
翌日。
結衣は、机の上に置いた企画書を何度も見返していた。
久世社長からの直接指示。
自分の名前で、デザインを一本提出すること。
嬉しくないはずがない。
ずっと望んでいたことだった。
けれど、それ以上に怖かった。
大学時代から、自分の作品を表に出そうとするたび、麻衣に潰されてきた。
「糸瀬さん」
声に振り向くと、麻衣が立っていた。
「社長にちょっと気に入られたからって、勘違いしないほうがいいわよ」
「そんなことありません」
「アルバイトが社内コンペに参加するなんて、普通じゃないの。覚えておきなさい」
結衣は何も言い返さなかった。
胸の奥がざわつく。
また何かされるのではないか。
そんな不安が消えない。
だから今回は、ラフも制作途中のデータも誰にも見せなかった。
仕事が終われば母の病院へ向かい、帰宅してからパソコンに向かう。
眠い。
疲れている。
それでも手を止めなかった。
何度も作り直し、ようやく納得できる形になったとき、窓の外は明るくなり始めていた。
提出画面を開く。
制作者名。
結衣はゆっくり入力した。
糸瀬 結衣
その四文字を、しばらく見つめる。
誰かの名前ではない。
久しぶりに、自分の名前で世に出すデザインだった。
◇
数日後。
社内企画会議には、複数のデザイン案が並べられていた。
ただし、そこに制作者の名前はない。
所属部署も、役職も、雇用形態もすべて伏せられている。
柊の指示だった。
結衣の案が選ばれたとしても、特別扱いだとは言わせない。
評価されるのは、デザインだけ。
「私はこの案が一番いいと思います」
一人の役員が資料を示した。
別の担当者もうなずく。
「機能性が高いですね。それでいて無難にまとまりすぎていない」
「今回のコンセプトにも合っています」
次々と評価が集まる。
柊は黙って聞いていた。
やがて最終評価がまとまった。
最高点を獲得したのは、一つのデザインだった。
担当者が制作者名の入った資料を開く。
「制作者は――糸瀬結衣さんです」
会議室がざわついた。
「糸瀬?」
「デザイン部の?」
「アルバイトの方ですよね」
麻衣の顔がこわばる。
柊は何も言わない。
ただ資料を閉じた。
その口元が、ほんのわずかに緩んだことに気づいた者はいなかった。
結衣は、自分の力だけで最高評価を勝ち取った。
◇
午後。
結衣は再び社長室へ呼ばれた。
前回ほどではない。
それでも扉の前に立つと緊張する。
「糸瀬結衣です。失礼いたします」
「入れ」
中には柊と熊谷がいた。
「座れ」
「はい」
結衣は背筋を伸ばして椅子へ腰かけた。
柊が資料を置く。
「最高評価だった」
「……ありがとうございます」
「俺に礼を言う必要はない」
結衣が顔を上げる。
柊は続けた。
「評価したのは俺一人じゃない」
それを聞いて、結衣の胸が熱くなった。
特別扱いではない。
自分のデザインを見てもらえた。
柊が尋ねる。
「なぜ今まで、自分の名前で作品を出さなかった」
結衣は視線を落とした。
大学時代のことをすべて話す勇気は、まだなかった。
「私には……それだけの実力がないと思っていました」
「誰が決めた」
あまりに早い返事に、結衣は顔を上げる。
「え?」
柊はまっすぐ結衣を見た。
「自分の才能を、他人に決めさせるな」
結衣は何も言えなかった。
怖い人だと思っていた。
何を考えているのか分からない。
近づくだけで緊張する社長。
けれど、この人が初めてだった。
肩書きでも、家柄でもなく。
自分が作ったものを、そのまま見てくれた人。
「……ありがとうございます」
結衣が笑った。
柊の胸に、十五年前の光景が重なる。
麦わら帽子をかぶり、何の遠慮もなく笑っていた少女。
「……変わらないな」
「何がですか?」
柊は一瞬黙った。
「何でもない」
「……?」
結衣は不思議そうに首をかしげた。
◇
その日、久世グループ本社を一人の女性が訪れた。
二階堂怜奈。
二階堂家の令嬢で、柊とは幼いころから家族ぐるみの付き合いがある。
華やかな容姿と上品な立ち居振る舞いで、社内にも彼女を知る者は多かった。
「柊、久しぶり」
「何の用だ」
「相変わらずね。近くまで来たから寄っただけよ」
怜奈は慣れた様子でソファへ座った。
そこへ、結衣が資料を届けに来た。
「失礼いたします」
怜奈が結衣を見る。
「あら。あなたが糸瀬結衣さん?」
「はい」
「今日のデザイン、とても素敵だったわ」
「ありがとうございます」
「私もデザインに関わっているの。いつかお話しできたら嬉しいわ」
「はい。ぜひ」
結衣は素直に笑った。
きれいで、感じのいい人。
それが怜奈への第一印象だった。
「失礼いたします」
結衣が部屋を出る。
扉が閉まったあとも、柊の視線はそこへ向いたままだった。
怜奈はそれを見逃さなかった。
「柊」
「なんだ」
「あの子のこと……気に入ってるの?」
柊が怜奈を見る。
「お前には関係ない」
「そう」
怜奈は笑った。
だが、バッグを持つ指先にはわずかに力が入っていた。
◇
その夜。
怜奈は久世本邸を訪れていた。
幼いころから出入りしているので、祖父母とも顔なじみだ。
「怜奈ちゃんみたいな子が柊の嫁になってくれれば、安心なんだがな」
祖父・竜之介が笑う。
怜奈も上品に微笑んだ。
「柊には、もっと素敵な方がお似合いですよ」
「あなたなら私は大歓迎よ」
千鶴の言葉に、怜奈の笑みが深くなる。
三十歳になっても結婚どころか、女性に興味を示す気配すらなかった柊。
祖父にとっては、それが悩みだった。
「このままじゃ、ひ孫の顔を見る前に死んじまうぞ」
千鶴が呆れた顔をする。
◇
数日後。
久世本邸
夕食の時間、 なぜか機嫌のいい竜之介。
千鶴がその顔を見て眉をひそめる。
「あなた……まさか、また余計なことを考えているんじゃないでしょうね」
「何のことだ」
竜之介は平然と箸を取った。
しばらくして、千鶴がぽつりと言う。
「でも柊も、いつかは結婚するんですものね」
その言葉に、竜之介の箸が止まった。
「……そうなれば、あいつも知ることになるな」
「あなた」
「久世の男に生まれた以上、仕方あるまい」
千鶴は小さくため息をついた。
「今から教えてあげたら?」
「嫌だ。わしだって知らなかった」
「それ、理由になってませんよ」
二人の会話を、柊は知らない。
自分にもいずれ訪れる、久世家の男だけが背負うものを――。
そして祖父が、自分に黙って別の人物を食事へ招いていることも。
だが――。
竜之介の思惑は見事に外れる。
そして、その失敗が皮肉にも、十五年間止まっていた柊の時間を動かすことになる。




