第10話|私も、好きです
麻衣の盗作が明らかになってから数日。
大学時代の受賞作品を含め、麻衣名義で発表されていたデザインについて調査が続いていた。
結衣の作品だと確認できたものは、順次、本来の制作者名へ訂正されることになった。
その日、結衣は社長室を訪れた。
「失礼いたします」
柊が資料から顔を上げる。
「どうした」
結衣は少し緊張しながら、柊の前に立った。
「社長。本当にありがとうございました」
「何がだ」
「麻衣さんのことです。大学時代のことまで調べてくださって……」
柊は手にしていた資料を机へ置いた。
「俺は何もしていない」
「でも――」
「取り返したのはお前だ」
結衣が驚いて顔を上げる。
「俺は証拠を揃えただけだ。どうしたいかを決めたのはお前だろう」
結衣は何も言えなくなった。
柊は自分を、かわいそうだから助けたのではない。
勝手に麻衣を排除し、自分を守ったわけでもない。
どうしたいのか。
柊は結衣自身に選ばせてくれた。
一人のデザイナーとして。
一人の人間として。
「……はい」
結衣は小さく笑った。
その笑顔を見た柊の表情も、ほんの少しだけ柔らかくなった。
◇
その後も、結衣が参加する大型プロジェクトは順調に進んでいた。
打ち合わせで提案した案が採用され、取引先からも指名が入るようになる。
「次の企画も、ぜひ糸瀬さんにお願いしたい」
そんな声まで聞かれるようになった。
ある日、結衣はデザイン部長に呼ばれた。
「糸瀬さん。少しいいかな」
「はい」
何か失敗しただろうか。
緊張している結衣へ、部長は思いがけないことを告げた。
「正社員として働く気はないか」
「……え?」
一瞬、意味が分からなかった。
「正社員……ですか?」
「ああ。これまでの実績も十分だ。取引先からの評価も高い。デザイン部として、正式に採用したい」
ずっと欲しかったものだった。
毎月決まった収入。
安定した生活。
何より、デザイナーとして働ける場所。
母にも安心してもらえる。
それなのに、結衣の頭に一つの疑問が浮かんだ。
「……社長のご意向ですか?」
部長は首を振った。
「いや。デザイン部から正式に上げた話だよ」
「本当ですか?」
「むしろ社長からは、実績だけで判断するように言われている」
結衣の目に涙が浮かんだ。
特別扱いではない。
柊の恋愛感情とも関係ない。
自分が作ったものを見て、会社が必要としてくれた。
「よろしくお願いします」
結衣は深く頭を下げた。
◇
その日の帰り、結衣は母の病室へ向かった。
「お母さん」
「おかえり。今日は早かったのね」
「聞いてほしいことがあるの」
結衣は母のベッドの横へ座った。
「私、正社員になれることになったよ」
母の顔がぱっと明るくなる。
「本当に?」
「うん。デザイン部で」
「よかったじゃない!」
母は自分のことのように喜んだ。
「ずっと頑張ってきたものね」
その言葉に、結衣は目を潤ませた。
「……うん」
母はそんな娘を見つめていたが、やがて意味ありげに笑う。
「でも……仕事だけじゃなさそうね」
「え?」
「最近、結衣、前よりいい顔してるもの」
「そうかな?」
「そうよ」
結衣の頭に浮かんだのは――柊だった。
慌てて目をそらす。
母は何も言わず、楽しそうに笑っていた。
◇
病院からの帰り道。
結衣は一人、柊から告白された日のことを思い出していた。
『お前が俺を信じるまで待つ』
あれから柊は、本当に待ってくれている。
返事を迫ることもない。
正社員の話にも口を出さなかった。
母の手術費も、結衣が返したいと言えば、その意思を尊重してくれた。
麻衣の問題でも、勝手に決着をつけなかった。
『お前はどうしたい』
いつも最後に決めるのは、結衣自身だった。
結衣は足を止める。
自分は何が怖かったのだろう。
柊が本気ではないこと?
違う。
本当は逆だった。
柊を信じてしまうことが怖かった。
幸せになってしまうことが怖かった。
そして、その幸せを失うことが何より怖かった。
九歳で父を失った。
家を失った。
母まで失うかもしれない恐怖を味わった。
大切なものは、いつかなくなる。
なら最初から手に入れなければ、傷つかずに済む。
ずっと、そうやって自分を守ってきた。
でも――。
結衣は小さく息を吐いた。
「……好きなんだ」
口にしてみると、不思議なくらい素直に認められた。
◇
その夜。
柊は一人、社長室で仕事をしていた。
ノックの音が響く。
「入れ」
扉を開けたのは結衣だった。
柊が顔を上げる。
「どうした」
「少し、お時間いただけますか?」
「ああ」
柊はすぐに資料を閉じた。
結衣は何度も口を開こうとする。
だが、声が出ない。
柊は急かさなかった。
やがて結衣が尋ねる。
「この前のお返事……まだ待っていただいていますか?」
「待ってる」
即答だった。
「いつまでですか?」
「一生でも」
結衣は思わず笑った。
「一生待ったら、お付き合いできませんよ」
柊の口元がわずかに緩む。
その顔を見て、結衣は決心した。
「私も……社長が好きです」
柊が動かない。
あまりに反応がないので、結衣が不安になる。
「……社長?」
「もう一度言え」
「嫌です」
「なぜだ」
「恥ずかしいからです」
柊の表情が、完全に緩んだ。
結衣が初めて見る顔だった。
◇
柊がゆっくり結衣へ近づいた。
だが、すぐには触れない。
「抱きしめてもいいか」
結衣は目を瞬かせた。
あれほど強引そうに見える人が、そんなことを聞くとは思っていなかった。
「……はい」
次の瞬間。
柊の腕が結衣を包んだ。
十五年前。
九歳だった少女は、突然いなくなった。
そして今。
二十四歳になった結衣が、自分の意思でここにいる。
柊の腕に思わず力が入る。
「社長……苦しいです」
「我慢しろ」
「嫌です」
即答され、柊は少しだけ腕を緩めた。
結衣が胸元で笑う。
「それと」
「はい?」
「社長はやめろ」
結衣が顔を上げる。
「じゃあ……なんて呼ぶんですか?」
「柊」
結衣の顔が一気に赤くなった。
「無理です」
「なぜだ」
「急には無理です!」
柊は明らかに不満そうだった。
それでも、結衣を離そうとはしなかった。
◇
翌朝。
結衣が出社すると、デスクの上に小さな紙袋が置かれていた。
中に入っていたのは、以前、結衣が好きだと話した焼き菓子。
カードもない。
名前もない。
けれど、誰からなのかはすぐに分かった。
結衣の口元に笑みがこぼれる。
そのころ、社長室では――。
「社長」
「なんだ」
「結衣様とお付き合いなさることになったので?」
柊は平然と答えた。
「そうだ」
熊谷が穏やかに笑う。
「ようございました」
ところが次の瞬間。
柊は真顔で尋ねた。
「くま。恋人とは、毎日どのくらい会うものだ?」
熊谷が黙った。
「……社長。まさか毎日お会いになるおつもりで?」
「駄目なのか?」
熊谷は静かに柊を見た。
どうやら自分の仕事は、これからさらに増えるらしい。




