第11話|恋愛初心者の社長
結衣と正式に付き合い始めた翌朝。
柊は出社してすぐ、熊谷を呼んだ。
「くま」
「はい」
「恋人とは、毎日会うものなのか」
熊谷は一瞬だけ黙った。
「人によるかと存じます」
「毎日会ってはいけないのか」
「いけなくはございませんが、結衣様にもご都合がございます」
柊は明らかに不満そうだった。
「電話は?」
「適度になさってはいかがでしょう」
「適度とは何分だ」
今度は熊谷が少し長く黙った。
「社長。結衣様のお気持ちを直接お聞きになるのが一番では?」
柊は真剣な顔で机の上のメモへ手を伸ばした。
熊谷が珍しく目を瞬かせる。
「何をなさっているのですか」
「忘れないようにしている」
「……左様でございますか」
企業買収でも巨額の投資でも迷わない男が、恋愛となると何一つ分からない。
熊谷は笑いそうになるのをこらえ、静かに視線をそらした。
◇
会社へ行けば、柊はいつもの久世社長に戻った。
午前中の会議では、提出された資料を見て眉をひそめる。
「この数字で俺を納得させられると思ったのか」
「申し訳ありません」
「根拠を出せ。やり直しだ」
会議室の空気が凍る。
社員たちが恐れる姿は、以前と何も変わらない。
ところが会議後。
廊下の向こうから結衣が歩いてくると、柊の表情がほんの少し緩んだ。
「お疲れさまです」
結衣は周囲を気にしながら頭を下げる。
二人はまだ、社内で交際を公表していない。
そのまま通り過ぎようとした結衣を、柊が呼び止めた。
「結衣」
結衣の肩がぴくりと動く。
「……はい」
「昼は食べたか」
「食べました」
「何を」
「おにぎりです」
柊の眉間にしわが寄る。
「それだけか」
「二つ食べました」
「数の問題じゃない」
結衣は思わず周囲を見る。
社員たちが、見ていないふりをしながら明らかにこちらを気にしている。
「社長……皆さん見ています」
結衣が小声で言う。
「だから何だ」
「だから何だ、じゃありません」
顔を赤くして去っていく結衣を、柊は不思議そうに見送った。
その日から社内では、
最近、社長は糸瀬さんにだけ少し違う。
そんな噂が静かに広がり始めた。
◇
休日。
二人は初めて会社の外で会うことになった。
柊が用意したのは、一流の高級レストランだった。
案内された席へ座った結衣は、渡されたメニューを見て固まった。
柊が気づく。
「食べたいものがないのか」
「そうじゃなくて……」
「なら何だ」
結衣はメニューを少し柊のほうへ向ける。
「高いです」
「?」
本気で意味が分かっていない顔だった。
「値段を見て食べるものを決めるのか?」
「普通は見ます!」
結衣は思わず声を上げた。
周囲の客を気にして、慌てて声を落とす。
「こんな素敵なお店、緊張して味が分からなくなりそうです」
「何が食べたい」
「もっと普通のお店がいいです」
柊は少し考えたあと、あっさり席を立った。
結局二人が向かったのは、結衣が以前から好きだった小さな洋食店だった。
柊には明らかに場違いに見える。
それでも本人はまったく気にしていない。
結衣は運ばれてきた料理を前に、ようやく表情を緩めた。
「柊さんも、こういうお店で食べるんですね」
柊が顔を上げる。
「俺を何だと思ってる」
「毎日フランス料理とか……」
「そんなわけあるか」
結衣が声を上げて笑った。
柊はその笑顔を見つめる。
豪華な料理も、高価な店も、自分にとっては大した意味を持たない。
それより。
結衣が目の前で楽しそうに笑っている。
そのほうが、ずっといい。
◇
店を出たところで、突然声をかけられた。
「結衣!」
結衣が振り返る。
「あっ! 久しぶり!」
大学時代の男性同級生だった。
「元気だった?」
「うん。結衣も変わってないな」
二人は久しぶりの再会に笑う。
柊は横で黙っていた。
「今度、大学の仲間で集まろうよ」
「いいね。みんなにも会いたい」
その瞬間。
「結衣」
低い声が割って入った。
結衣が振り返る。
「はい?」
柊は男性を見る。
「紹介しろ」
「えっと……」
結衣は一瞬迷った。
会社ではまだ交際を公表していない。
「こちら、会社の……」
続きを柊が言った。
「恋人だ」
結衣の顔が一気に赤くなる。
男性も驚いたようだった。
「あ、そうなんですね。失礼しました」
「失礼じゃないです!」
結衣が慌てる。
男性が去ったあと、結衣は柊を見上げた。
「いきなり言わなくても……」
「なぜ隠す」
「隠してません」
「あいつはお前が好きだったのか」
「知りませんよ」
「連絡先は?」
「持ってますけど……」
柊の機嫌が目に見えて悪くなる。
結衣はしばらくその顔を見ていた。
そして、ようやく気づく。
「もしかして、嫉妬してます?」
「してない」
即答だった。
結衣は思わず笑う。
「絶対してます」
「してない」
「顔に出てますよ」
柊は黙った。
怖い社長。
何でも持っていて、何にも動じない人。
その人が、自分のことでこんなにも分かりやすく不機嫌になっている。
結衣には、それが少し嬉しかった。
◇
帰り道。
柊はまだどこか不機嫌だった。
結衣は隣を歩きながら、少し迷う。
そして、そっと柊の手を握った。
柊の足が止まった。
「……何?」
「別に」
今度は柊が握り返す。
ぎゅっと強く。
「痛いです」
すぐに力が緩んだ。
結衣は笑いながら、また歩き出す。
しばらくして。
小さな声で呼んだ。
「……柊さん」
柊が再び足を止める。
「もう一度」
「嫌です」
「結衣」
「もう言いません」
「なぜだ」
「恥ずかしいからです」
そう言いながら、結衣は笑っていた。
柊もほんの少しだけ笑う。
結衣にとって初めて。
久世グループの社長ではなく。
一人の男性、柊として隣を歩いた一日だった。
◇
結衣の家の前。
「今日はありがとうございました」
結衣が手を離し、帰ろうとする。
「結衣」
呼び止められて振り返った。
柊がそっと、結衣の頬へ手を触れる。
空気が変わった。
結衣の胸が大きく鳴る。
柊は何も言わず、結衣の目を見る。
逃げない。
嫌がってもいない。
それを確かめるように、ゆっくり顔を近づけた。
そして――。
二人は初めてキスをした。
短く触れただけなのに、結衣の顔は真っ赤になった。
唇が離れても、柊はそのまま結衣を抱きしめる。
「……帰したくない」
耳元で聞こえた声に、結衣の心臓が大きく跳ねた。
けれど。
結衣は何も言わず、しばらく柊の腕の中にいた。




