第26話|もうすぐ家族四人
怜奈の事件から、数か月が過ぎた。
結衣のお腹は、見違えるほど大きくなっていた。
二つの小さな命は、何事もなかったかのように元気に育っている。
あれほど二人を苦しめたつわりも、妊娠五か月を過ぎるころにはようやく落ち着き、柊も以前のように食事ができるようになっている。
ある日の午後。
社長室で仕事をしていた柊の前に、熊谷がいつものタッパーを置いた。
柊が怪訝な顔をする。
「くま」
「はい」
「まだレモンを持ってるのか」
「いいえ」
熊谷が蓋を開ける。
中に入っていたのは、小さく切ったリンゴとバナナだった。
「……なんだ、それは」
「結衣様のお腹も随分大きくなりましたので」
「それがどうした」
「これから一度にたくさん召し上がれなくなることもあるかと。少量でも口にできるものをご用意いたしました」
柊がタッパーを見る。
「結衣のためか」
「もちろんでございます」
熊谷は少し間を置いた。
「社長にも必要になる可能性がございますので」
柊の眉間にしわが寄る。
「俺は妊娠してない」
「存じております」
ちょうど社長室へ来ていた結衣が吹き出した。
「熊谷さん、もう柊さんのこと分かりすぎですね」
「長いお付き合いでございますので」
「くま」
「失礼いたしました」
つわりが終わり、ようやく普通の生活に戻れる。
二人とも、そう思っていた。
ところが数日後――。
熊谷の予想は、見事に当たった。
◇
夕食を終えたあと、結衣はソファに座り、胸元を押さえた。
大きくなったお腹に胃が圧迫され、最近は一度にたくさん食べられない。
少し食べただけで胃が重くなり、夜になると胸やけすることも増えていた。
「……うっ」
結衣が顔をしかめる。
その隣で、柊もほぼ同時に胸元を押さえた。
「……またか」
結衣が柊を見る。
「柊さんも?」
「ああ。大丈夫か?」
「ちょっと胸やけが……」
柊の眉間にしわが寄る。
「俺もだ」
結衣は思わず笑った。
「本当に何でも一緒ですね」
「笑い事じゃない」
「病院に連絡するか」
「胸やけくらいでしなくて大丈夫です」
結衣が苦笑した、そのときだった。
仕事の報告に来た熊谷が現れた。
二人を見比べて、一言。
「始まりましたか」
柊が睨む。
「くま。お前、分かってたな」
「念のため、リンゴとバナナをご用意しております」
「いらん」
「では、結衣様に」
「私は少し食べたいです」
熊谷が結衣へタッパーを差し出す。
結衣がリンゴを一つ口へ入れる。
翔はその様子をじっと見ていた。
数秒後。
「……俺にもよこせ」
結衣がまた笑った。
◇
柊の邸宅には、すでに双子を迎える準備が整っていた。
結衣が子ども部屋へ入る。
ベビーベッドが二つ。
小さな洋服に、おむつ、タオル。
必要なものが、きれいに並べられている。
ただし――明らかに多い。
結衣はしばらく部屋を見回した。
「柊さん」
「なんだ」
「これ、全部誰が買ったんですか?」
「俺だ」
「こんなに?」
柊は当然のように答える。
「二人いる」
「二人でも多すぎます!」
同じような服が色違いで何着もある。
タオルも山ほど積まれている。
「赤ちゃんって、こんなに服いらないですよ」
「汚すだろ」
「だからって、これは多すぎます」
「足りないよりいい」
結衣は呆れながら、小さな服を一着手に取った。
手のひらに乗りそうなほど小さい。
「……本当に、こんなに小さいんですね」
もうすぐ、この服を着る子どもが二人もやってくる。
そう思っただけで、結衣の表情が柔らかくなった。
「もうすぐですね」
「ああ」
結衣がお腹を撫でる。
そのとき――。
ぴくっ。
「あっ」
柊がすぐに近づく。
「動いたのか」
「はい。ここ」
柊が手を当てる。
今度は反対側が動いた。
柊の目がわずかに大きくなる。
「……二人とも元気だな」
「最近すごいんですよ。夜中でも動きます」
「誰に似たんだ」
結衣が柊を見る。
「柊さんじゃないですか?」
「そうだな」
「否定しないんですね」
「俺の子だからな」
「私の子でもあります」
「知ってる」
結衣は呆れながらも笑った。
◇
結衣はすでに産休に入っていた。
双子ということもあり、身体への負担は大きい。
仕事を休む必要があることは、結衣自身も理解している。
それでも、何もしない生活にはなかなか慣れなかった。
ある日、柊が帰宅すると、リビングで結衣がスケッチブックを広げていた。
「結衣」
結衣の手がぴたりと止まる。
「……趣味です」
柊がスケッチブックをのぞく。
「会社の新作に見えるが」
「たまたまです」
「データにするつもりか」
結衣が目をそらした。
「……体調がよかったら」
柊がため息をつく。
「座って描いてるだけですよ」
「描くなとは言ってない」
結衣が顔を上げる。
「え?」
「仕事にするなと言ってる」
柊はスケッチブックを結衣へ返した。
「描きたいなら描け。ただし、疲れたらやめろ」
「……いいんですか?」
「好きなんだろ」
結衣は少し驚いてから、笑った。
「はい」
柊は知っている。
結衣にとって、デザインは生活のためだけの仕事ではない。
誰にも評価されなくても、子どものころから描いてきた。
好きだから描く。
それまで取り上げるつもりはなかった。
◇
その夜。
ベッドに入っても、結衣はなかなか眠れなかった。
何度も寝返りを打とうとするが、大きなお腹ではそれも簡単ではない。
柊が目を開ける。
「苦しいのか」
「違います」
「なら、どうした」
結衣は少し迷った。
「……怖いんです」
柊が結衣を見る。
「出産が?」
「はい」
初めての出産。
しかも双子。
楽しみだけではなかった。
二人とも無事に生まれてくれるのか。
自分はちゃんと産めるのか。
考え始めると、眠れなくなる。
「私、ちゃんと二人を産めるかな……」
柊は結衣の手に自分の手を重ねた。
「大丈夫だ」
「簡単に言わないでください」
「簡単には言ってない」
柊は大きなお腹へ、そっと手を置く。
「俺も一緒だ」
結衣が柊を見る。
久世本邸で聞いた、あの話を思い出した。
つわりだけではない。
久世家の男には、妻の陣痛も出産の痛みも伝わる。
結衣が少し笑う。
「本当に一緒に痛いんですもんね」
柊の顔が曇った。
「……それは言うな」
「柊さんも怖いんですか?」
「怖くない」
「嘘」
「怖くない」
「じゃあ、なんでそんな顔してるんですか?」
柊はしばらく黙った。
「……少しだけだ」
結衣が笑う。
今度は結衣から柊の手を握った。
「じゃあ、一緒に頑張りましょうね」
「ああ」
二人の重ねた手の下で、小さくお腹が動いた。
◇
予定日が近づいた、ある日の深夜。
眠っていた結衣が、ふと目を覚ました。
「……っ」
お腹が痛い。
けれど、これまでも張ることはあった。
時計を見る。
しばらくすると、痛みは消えた。
「……気のせいかな」
再び目を閉じる。
数分後。
また――。
「……っ」
今度は、さっきより強い。
その瞬間。
隣で眠っていた柊の眉間にも、深いしわが寄った。
「…………っ」
結衣が振り向く。
「柊さん?」
柊が目を開ける。
「結衣……」
二人が顔を見合わせた。
そして、もう一度。
「痛っ……!」
「……っ!」
ほぼ同時だった。
柊が起き上がる。
「くまに連絡する」
「こんな時間に!?」
「陣痛なら時間は関係ない」
「でも熊谷さん、寝てますよ」
「起きる」
なぜか断言する。
柊がスマートフォンを取った。
そのとき、結衣が息をのむ。
「柊さん……」
「どうした」
結衣はお腹へ手を当てた。
先ほどとは違う痛み。
身体の奥から押し寄せてくる感覚に、表情が変わる。
「……来たかもしれません」
柊の顔が固まった。
数秒後。
電話の向こうから、深夜とは思えないほどいつも通りの声が聞こえる。
『はい、熊谷です』
柊は短く告げた。
「くま。始まった」
一瞬の沈黙。
『承知いたしました。すぐに参ります』
電話が切れる。
柊と結衣が顔を見合わせた。
怖い。
それでも、それ以上に――。
もうすぐ会える。
十五年前に出会った二人が、夫婦になり。
今度は、家族四人になる。
結衣は柊の手を握る。
柊も強く握り返した。
もうすぐ――。
二人の子どもたちに会える。




