第23話|幸せになる勇気
久世本邸を訪れてから数日後。
結衣は柊と一緒に、母のもとを訪れていた。
難しい手術を乗り越えた母は、定期的な通院こそ必要なものの、日常生活には困らないほどまで回復している。
「もう、お手伝いの人は必要ないわよ」
母が笑いながら言った。
結衣はすぐに首を振る。
「まだ駄目。無理してまた具合が悪くなったらどうするの」
「結衣のほうが妊婦なんだから、自分の心配をしなさい」
「私は大丈夫だよ」
そこへ柊が口を挟む。
「そのとおりです」
結衣が勢いよく振り返った。
「柊さんは、どっちの味方なんですか?」
「正しいほうだ」
「もう!」
母が声を上げて笑った。
その笑い声を聞きながら、結衣もつられて笑う。
病気が分かったころには、こんな日が来るとは思えなかった。
母が笑っている。
自分のお腹には二つの命がある。
隣には柊がいる。
結衣はようやく、失うことではなく――。
これから先のことを考えられるようになっていた。
◇
母が暮らしているのは、退院後の療養のために柊が用意した家だった。
病院からも近い、庭のある平屋。
柊は以前、
「小さな家だ」
と言っていた。
だが結衣から見れば、十分すぎるほど立派な家だ。
体調が安定するまでは、家事を手伝う人も通っている。
お茶を飲んでいた母が、少し改まった顔で柊を見た。
「柊さん。この家なんですけど……」
「はい」
「そろそろ出ようと思っているんです」
「お母さん!」
結衣が驚いて声を上げる。
母は困ったように笑った。
「もう一人で生活できるもの。いつまでも甘えていられないわ」
柊は少し考えた。
「では、そのまま住んでください」
母と結衣が同時に柊を見る。
「……はい?」
「無理に出る必要はありません」
母はさらに困った顔になる。
「でも、こんな家の家賃は私には払えません」
「必要ありません」
「それでは私が困ります」
柊の眉が寄った。
「なぜですか」
本気で分からないらしい。
結衣は思わずため息をつく。
「柊さん。お母さんは、ただで住まわせてもらうのが嫌なんです」
「なぜだ」
「そういうものなんです!」
そこへ熊谷が静かに口を挟んだ。
「では、無理のない範囲で家賃をいただくというのはいかがでしょう」
母は少し考えたあと、ようやくうなずいた。
「それならお願いします」
「承知いたしました」
柊だけが納得していない。
「……面倒だな」
結衣がすぐに睨む。
「柊さん」
「何だ」
「今、面倒って言いましたよね」
「言った」
「もう少し人の気持ちを考えてください!」
母と熊谷が、ほぼ同時に笑った。
◇
その夜。
結衣は自宅のソファに座り、少しふくらみ始めたお腹をゆっくり撫でていた。
柊が隣へ座る。
「何してる」
「赤ちゃんたちに話しかけてました」
柊も結衣のお腹を見る。
「何を話す」
「今日はおばあちゃんが元気だったよ、とか」
「分かるのか」
「分からなくてもいいんです」
結衣は笑った。
「名前も考えないといけませんね」
柊が急に真剣な顔になる。
「二つか」
「双子ですから」
柊は黙り込んだ。
結衣がその顔を見て笑う。
「会社の新規事業じゃないんですから、そんな難しい顔しなくても」
「一生使うものだろ」
「そうですけど」
柊がお腹へそっと手を置いた。
その瞬間――。
ぴくっ。
大きな手の下で、小さな動きがあった。
柊の目がわずかに見開く。
「……動いた」
「え?」
結衣も慌ててお腹へ手を当てる。
今度は反対側で、小さく動いた。
「柊さん、分かりました?」
「……ああ」
柊は手を離さない。
じっと、お腹を見つめている。
結衣が笑う。
「ずっと触ってるつもりですか?」
「悪いか」
「悪くないですけど」
どうやら、もう一度動くのを待っているらしい。
結衣は笑いながら、その大きな手に自分の手を重ねた。
◇
しばらくして。
結衣がぽつりと言った。
「私、ずっと怖かったんです」
柊が結衣を見る。
「何が」
「幸せになることが」
父を突然失った。
家も失った。
母と二人で必死に暮らした。
大学では、自分の作品を奪われた。
ようやく就職が見えてきたころには、母が病気になった。
何かいいことがあると、そのあとには悪いことが起きる。
いつの間にか、結衣はそう思うようになっていた。
「柊さんと出会ってからも、いつか全部なくなるって思ってました」
柊は何も言わずに聞いている。
「だから、最初から手に入れなければいいって……そう思ってたのかもしれません」
結衣は、自分のお腹に置かれた柊の手を見る。
「でも……今は少し違います」
「どう違う」
結衣は柊を見た。
「幸せになってもいいのかなって、思えるようになりました」
柊はしばらく結衣を見つめた。
そして、その身体をそっと抱き寄せる。
「少しじゃ困る」
「え?」
「ずっとそう思ってろ」
結衣は柊の胸元で笑った。
「命令ですか?」
「ああ」
「それなら……頑張ります」
「頑張るものじゃない」
「どっちなんですか」
結衣の笑い声が、静かな部屋に広がった。
◇
そのころ。
怜奈は一人、暗い部屋にいた。
柊には拒絶された。
久世家の祖母からも、
『二人の邪魔をしてはいけません』
とはっきり言われた。
飲み物の件以来、柊の警戒はさらに強くなっている。
会社には熊谷。
自宅には使用人と看護師。
外出すれば運転手。
何より柊自身が、ほとんど結衣から離れない。
近づけない。
何をしても邪魔される。
怜奈はスマートフォンを手に取った。
しばらく画面を見つめたあと、ある人物へ連絡する。
「お願いしたいことがあるの」
相手が何かを尋ねた。
怜奈は黙る。
そして静かに言った。
「あの女を、柊の前から消してほしい」
もう、柊を取り戻したいだけではなかった。
結衣そのものが――。
怜奈にとって、憎しみの対象になっていた。
◇
数日後。
結衣のスマートフォンに、母から届いたように見えるメッセージが入った。
少し体調が悪いの。来てもらえる?
結衣の表情が変わる。
「お母さん……」
今日は柊が重要な会議に入っている。
熊谷も同席しているはずだ。
連絡しようか迷った。
だが、メッセージには「少し体調が悪い」としか書かれていない。
会議を止めるほどではないかもしれない。
結衣は運転手に頼み、母の家へ向かった。
車が到着する。
結衣が玄関へ向かうと――。
中から母が元気そうに出てきた。
「結衣? どうしたの?」
結衣の足が止まる。
「……体調、悪いんじゃないの?」
母が不思議そうな顔をした。
「何のこと?」
背筋が冷たくなる。
結衣はスマートフォンを見る。
確かに、母から届いたと思ったメッセージが残っている。
「お母さん、これ……」
その瞬間。
少し離れた場所に停まっていた黒い車のドアが開いた。
結衣は反射的にお腹をかばう。
同じころ。
久世グループ本社。
会議中だった柊が、突然資料から顔を上げた。
痛みはない。
それなのに――。
胸の奥がざわつく。
嫌な予感が消えない。
「くま」
熊谷が柊を見る。
「はい」
柊は立ち上がった。
「結衣は今、どこにいる」




