第22話|受け継ぐ指輪
久世家の男には、妻のつわりだけではなく、陣痛や出産の痛みまで伝わる。
その事実を聞かされた柊は、まだ納得しきれていなかった。
「出産するのは結衣だろ」
祖父は遠い目をした。
「わしもそう思っていた」
祖母が楽しそうに笑う。
柊だけは笑えない。
そんな柊に、祖父が少しだけ真面目な顔を向けた。
「笑い話みたいだが、悪いことばかりじゃない」
「何が」
「妻の苦しさが分かる」
本来なら、男には分からない妊娠や出産のつらさ。
久世家の男は、それから逃げられない。
柊は、これまで結衣と同じ吐き気に苦しんできた日々を思い出した。
「だから久世の男は、妻から離れないのか」
祖父が笑う。
「それだけじゃない」
「じゃあ何だ」
祖父は結衣の隣にいる柊を見て、当たり前のように言った。
「惚れた女だからだ」
柊の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
それなら自分にも、よく分かる。
◇
帰る前。
祖母が結衣へ声をかけた。
「結衣さん。少しこちらへいらして」
案内された別室で、祖母は小さな箱を取り出した。
「あなたに渡したいものがあるの」
蓋を開ける。
中には、古いながらも美しい指輪が収められていた。
結衣は息をのむ。
「これは代々、久世家の女性が受け継いできたものなの」
「そんな大切なもの……いただけません」
結衣は慌てて首を振った。
だが祖母は、やさしく結衣の手を取る。
「あなたに持っていてほしいの」
「でも……」
「家柄なんて関係ありません」
結衣が顔を上げる。
ずっと自分が気にしてきたことだった。
「柊が選んだ人なら、それだけで十分です」
祖母は少し笑った。
「それに私は、あなたがどんな人か知っていますから」
あの日。
結衣は最終面接へ向かう途中だった。
急いでいたはずなのに、倒れていた祖母を見捨てなかった。
誰かに見られていたわけでもない。
助ければ何かを得られると知っていたわけでもない。
ただ、人を放っておけなかった。
「柊のお嫁さんがあなたで、本当によかった」
結衣の目に涙が浮かぶ。
「……ありがとうございます」
祖母は微笑みながら、指輪を結衣の手へ乗せた。
その重みは、不思議なほど温かかった。
初めて結衣は思った。
自分も本当に――。
久世家の家族になったのだ、と。
◇
柊の邸宅へ戻ったあとも、結衣は何度も指輪を眺めていた。
そこへ熊谷が仕事の報告にやってくる。
一通り話し終えたあと、何気ない調子で口を開いた。
「そういえば、結衣様からのご返済分ですが――」
結衣がすぐに顔を上げた。
「熊谷さん、あといくら残っていますか?」
熊谷が答えるより先に、柊が言った。
「残ってない」
結衣が固まる。
「……え?」
熊谷が少し困ったように説明した。
「結衣様からお返しいただいた金額は、すべて結衣様名義の口座へ移しております」
結衣はゆっくり柊を見る。
「どういうことですか?」
「そのままの意味だ」
「それじゃ返したことにならないじゃないですか!」
「俺は返してほしいとは言ってない」
結衣の目が大きくなる。
「じゃあ……最初から受け取る気がなかったんですか?」
「ない」
即答だった。
「柊さん!」
「返したいと言うから受け取った。それだけだ」
「でも――」
「お前が自分で稼いだ金だ」
柊は平然と続ける。
「俺が使う理由がない」
結衣は言葉を失った。
母の手術費を借りたとき、
『必ず返します』
そう約束してから、少しずつ返してきた。
大きな仕事で得た報酬も、生活に必要な分だけ残し、返済へ回してきた。
柊はその一円も使っていなかった。
「……ずるいです」
「何が」
「何も言わないところです」
「聞かれなかった」
結衣が熊谷を見る。
熊谷はほんの少し視線をそらした。
「熊谷さんも知ってたんですね」
「申し上げるべきか迷っておりました」
「絶対、柊さん側ですよね」
「私は中立でございます」
「嘘です」
熊谷は穏やかな顔のままだった。
◇
結衣はもう一度、祖母からもらった指輪を見た。
それから柊を見る。
今日一日で、自分がどれほど大切にされているのか、改めて知った気がした。
「……やっと安心しました」
柊が結衣を見る。
「何が」
「ここにいてもいいんだって」
「どこに」
結衣は少し笑う。
「柊さんの隣にです」
柊の眉が寄った。
「今さらか」
「柊さんには分からないんです」
「分からない」
即答だった。
結衣は思わず笑う。
柊はそんな結衣を見ながら、当然のように言った。
「俺は最初から、お前がいるものだと思ってる」
その言葉に、結衣の表情がやわらぐ。
そして、そっと柊の肩にもたれた。
もう。
「久世家にふさわしくない」
そう思わなくていい。
少なくとも今は、心からそう思えた。
◇
その夜。
怜奈のもとへ知らせが入った。
柊が結衣を久世本邸へ連れていった。
怜奈は最初、少し期待した。
ようやく祖父母も気づく。
家柄もない結衣が、久世家の嫁にはふさわしくないと。
ところが――。
結果は正反対だった。
結衣は大歓迎された。
しかも祖母は、代々久世家の女性へ受け継がれてきた指輪まで、結衣へ渡したという。
怜奈の顔から血の気が引いた。
「……あの指輪を?」
自分は幼いころから久世家へ出入りしてきた。
祖母にも気に入られようとしてきた。
いつか自分が柊の妻になるのだと信じていた。
それでも、あの指輪が自分へ渡されることは一度もなかった。
なのに。
結衣には渡した。
怜奈の中に最後まで残っていた希望が、音を立てて崩れた。
◇
翌日。
怜奈は久世本邸を訪れた。
いつもの笑顔を作る。
「久世おばあちゃま、お久しぶりです」
だが祖母の表情は、以前とは違っていた。
「怜奈さん」
「はい」
「結衣さんに、何かしたの?」
怜奈の笑顔が止まる。
柊から、飲み物の件を聞いていたのだ。
「誤解です。私、結衣さんを応援して――」
「もうやめなさい」
祖母の静かな声が、怜奈の言葉を遮った。
「小さいころからあなたを知っているからこそ言います」
「……」
「柊は結衣さんを選びました。二人の邪魔をしてはいけません」
怜奈の顔から笑みが消えていく。
「……おばあちゃままで、あの女の味方をするんですか?」
祖母の表情が変わった。
「あの女?」
怜奈はハッとした。
だが、もう遅い。
「今日はお帰りなさい」
「でも――」
「怜奈さん」
それ以上を許さない、静かな声だった。
怜奈は唇をかみ、立ち上がった。
久世家の門を出たあと。
車の中で、怜奈は強く拳を握る。
柊も。
祖父母も。
自分が欲しかったものすべてが、結衣のものになった。
そう思い込んだ。
そして――。
とうとう一つの考えに行き着く。
結衣さえ、いなくなればいい。




