第21話|久世家の嫁
怜奈の一件から数日後。
朝食の席で、柊はいつものように熊谷からつわり対策タッパーを受け取っていた。
隣では結衣も、小さく切ったレモンを口にしている。
二人そろって同じものを食べる光景にも、柊の邸宅で働く使用人たちはすっかり慣れていた。
そんな中。
柊が突然言った。
「結衣。今日、じいさんたちのところへ行くぞ」
結衣の手が止まる。
「……今日?」
「ああ」
「今日って、今日ですか?」
「ほかに何がある」
「どうして昨日言ってくれなかったんですか!」
柊は平然としている。
「眠れなくなるだろ」
結衣は反論しかけて、口を閉じた。
たぶん本当に眠れないだろう。
入籍してからも、まだ一度も会っていない柊の祖父母。
しかも、久世家の当主夫妻だ。
「急すぎます……」
「大丈夫だ」
「柊さんにとっては、ですよね」
結衣の緊張は、一気に頂点へ達していた。
◇
車が巨大な門をくぐった。
結衣は窓の外を見たまま固まっている。
門から屋敷までが遠い。
ようやく見えてきた本邸を目にした瞬間、結衣は言葉を失った。
柊の邸宅へ移ったときも、十分驚いた。
使用人がいる。
料理人がいる。
妊娠が分かってからは専属の看護師までついた。
もう多少のことでは驚かないと思っていた。
――甘かった。
「柊さん」
「なんだ」
「柊さんのお家が、普通に見えます」
「普通だろ」
「普通じゃありません!」
前の席にいる熊谷の肩が、ほんの少し揺れた。
結衣はもう一度本邸を見る。
「……帰りたい…」
「駄目だ」
「まだ何も言ってません」
「今、帰りたいと言った」
「そうですけど……」
結衣の指先は冷たくなっていた。
その手を、柊が握る。
「大丈夫だ」
「柊さんはそうでしょうけど……」
柊はまっすぐ結衣を見る。
「俺の妻だ。堂々としてろ」
その一言に、結衣は少しだけ背中を押された。
「……はい」
小さくうなずいた。
◇
客間へ通されても、結衣の緊張は解けなかった。
背筋を伸ばし、膝の上で両手を握る。
「力を抜け」
「無理です」
「顔が固い」
「柊さんのせいです」
やがて扉が開いた。
祖父と祖母が入ってくる。
結衣は慌てて立ち上がった。
「初めまして。結衣と申します」
深く頭を下げる。
そして顔を上げた瞬間――。
結衣が固まった。
祖母も、結衣を見つめたまま動かない。
数秒の沈黙。
「……あなた!」
「あの時のおばあさん!」
柊と祖父が同時に二人を見る。
「知っているのか?」
祖母が結衣へ近づいた。
「やっぱり、あなたなのね!」
結衣も驚いたままうなずく。
大学四年の就職活動中。
最終面接へ向かう途中で、道端に倒れていた老婦人を助けた。
救急車が到着するまで付き添い、その結果、面接には間に合わなかった。
その女性が――。
柊の祖母だった。
柊が結衣を見る。
「そんな話、聞いてないぞ」
「言ってませんから」
「なぜだ」
「わざわざ話すことじゃないと思って……」
二人の会話を聞いていた祖母が、ふと何かを思い出したように結衣を見た。
あの日、結衣は何度も時計を気にしていた。
救急車が到着してからも、祖母が無事に運ばれるのを見届けるまで、その場を離れようとはしなかった。
祖母の表情が変わった。
「あなた、あの日……何か大事な用事があったんじゃないの?」
結衣は一瞬、言葉に詰まった。
そのとき、柊が何かを思い出したように結衣を見る。
「待て。ばあさんが倒れたのって……」
「会社の面接の日だったのか?」
祖母が驚いて結衣を見る。
「あなた、あの日……面接だったの?」
結衣は困ったように笑う。
「はい」
◇
祖母は結衣の手を握った。
「私のせいで、大事な面接に遅れたのね」
「違います」
結衣はすぐに首を振った。
「あのとき見て見ぬふりをしていたら、そのほうがずっと後悔していました」
祖母は何も言えなくなった。
祖父も黙って結衣を見ている。
やがて柊へ視線を向けた。
「お前が十五年も探していた理由が、少し分かった気がするな」
結衣が驚く。
「ご存じだったんですか?」
祖父は笑った。
「こいつが十五のころから、何度あの土地へ行ったと思っている」
柊が眉をひそめる。
「余計なことを言うな」
祖母が楽しそうに笑う。
その視線が、結衣のお腹へ向いた。
「それで……双子なのね?」
「はい」
「まあ……!」
祖母の顔が一気にほころぶ。
祖父も嬉しそうにしている。
結衣は戸惑った。
ずっと怖かった。
反対されたらどうしよう。
久世家にふさわしくないと言われたらどうしよう。
そんなことばかり考えていた。
けれど祖母は、結衣の手を握ったまま言った。
「柊のお嫁さんがあなたで、本当によかった」
結衣の目に涙が浮かんだ。
「……ありがとうございます」
祖父もうなずく。
「家柄なんぞより、柊が自分で選んだことのほうが大事だ」
結衣はそっと柊を見る。
柊は何も言わない。
けれど、その手が結衣の手をしっかり握り直した。
ずっと心の中にあった大きな不安が、少しずつほどけていった。
◇
しばらくすると、結衣の緊張もようやくほぐれてきた。
そこで祖父が柊を見る。
「柊」
「なに?」
「熊谷から、どこまで聞いている?」
柊の眉が動く。
「何の話だ」
「久世家の男の体質だ」
結衣が柊を見る。
「体質?」
柊は嫌な予感がした。
「つわりのことなら聞いた」
祖父が熊谷を見る。
熊谷は何も言わない。
「それだけか?」
「ああ」
祖父と祖母が顔を見合わせる。
なぜか祖母が笑いをこらえていた。
柊の眉間にしわが寄る。
「まだ何かあるのか」
祖父はゆっくり湯呑みを置いた。
「ある」
祖父は結衣へ向き直った。
「結衣さん。久世家が代々一人っ子なのは聞いているかね?」
「はい。少しだけ……」
柊も祖父を見る。
「それが何だ」
祖父は遠い目をした。
「わしも若いころは、二人くらい欲しいと思っていた」
祖母が笑う。
「私は三人でもよかったんですよ」
祖父は即答した。
「無理だ」
柊が眉をひそめる。
「何が」
祖父は柊をまっすぐ見る。
「陣痛だ」
沈黙。
「…………何?」
「久世家の男には、妻の陣痛も来る」
柊の顔が固まった。
結衣も目を丸くする。
祖父はさらに続けた。
「出産の痛みもな」
長い沈黙が落ちた。
柊は祖父を見つめたまま動かない。
「……どの程度だ」
祖父の顔から、さっきまでの笑みが消えた。
「知りたいか?」
「うん」
祖父はしばらく黙った。
そして、遠い昔を思い出すように口を開く。
「腹の中から、内臓をまとめてねじり上げられるような痛みだった」
柊の眉がぴくりと動いた。
「……それが、どのくらい続く」
「わしに聞くな」
「なぜだ」
「思い出したくない」
祖母が楽しそうに笑う。
「あなた、私より大騒ぎしていましたものね」
「仕方ないだろう!」
祖父が珍しく声を上げた。
「本当に死ぬかと思ったんだぞ!」
結衣は笑っていいのか分からず、必死に口元を押さえる。
柊は笑っていない。
むしろ、明らかに顔色が悪くなっていた。
そのとき、熊谷が静かに口を開く。
「私も、以前久世家にお仕えしていた方から伺ったことがございます」
柊が嫌な予感のする顔で熊谷を見る。
「……何を」
「陣痛の痛みは、全部の指を切断されるほどとも聞きました」
「…………」
結衣が熊谷を見る。
祖父まで黙った。
柊はゆっくり息を吐く。
「くま」
「はい」
「それは今、俺に必要な情報か?」
「お尋ねになりましたので」
「俺はお前には聞いてない」
「失礼いたしました」
熊谷は何事もなかったように頭を下げた。
柊はしばらく黙っていたが、ふと何かに気づいたように熊谷を見る。
「待て」
「はい」
「お前、最初から知ってたな」
熊谷がわずかに視線をそらす。
「先輩方から、少々」
「つわりだけじゃなく?」
「陣痛についても、少々」
「出産も?」
「……少々」
柊の目が据わる。
「なぜ言わなかった」
「お尋ねになりませんでしたので」
「くま!」
祖父が声を上げて笑う。
祖母もとうとう笑い始めた。
結衣まで我慢できずに吹き出す。
柊だけが笑っていない。
祖父がそんな柊の肩を軽く叩いた。
「まあ安心しろ」
柊が祖父を見る。
「何を安心するんだ」
「死にはせん」
「気は失うかもしれんが・・・」
「何の安心にもならない」
祖父はまだ笑っている。
「それに今回は一度で二人だ。効率がいい」
「そういう問題じゃない!」
結衣がとうとう声を上げて笑った。
「柊さん、顔色悪いですよ」
「悪くない」
「悪いです」
「結衣」
「はい?」
柊は結衣のお腹を見る。
そこには二人いる。
しばらく考えてから、恐る恐る祖父を見る。
「……双子なら、痛みも二倍なのか?」
一瞬、部屋が静まり返った。
祖父が首をかしげる。
「それは、わしにも分からん」
「分からないなら余計なことを言うな!」
再び笑い声が広がった。
ただ一人――。
柊だけは、大きくなり始めた結衣のお腹を見つめながら、まったく笑っていなかった。
さっきまであれほど緊張していたのが嘘のようだった。
久世家は怖い場所ではなかった。
少なくとも――。
自分を拒む家ではなかった。
結衣はお腹へそっと手を当てた。
ここにいる二人と一緒に、この家の家族になる。
そう思うと、今度は少しだけ楽しみになった。
お読みいただきありがとうございます。
楽しんでいただけましたら、ブックマーク・評価で応援していただけると嬉しいです。




