第20話|怜奈の罠
新作デザイン発表会の日。
結衣にとって、今日は特別な日だった。
大学時代から、自分の作品を何度も麻衣に奪われてきた。
久世グループへ入ってからも、結衣が作ったデザインが麻衣の名前で評価された。
けれど今日は違う。
結婚して戸籍上は「久世結衣」になったものの、デザイナーとしてはこれまで通り――。
糸瀬結衣。
その名前が、会場の大きなパネルに表示されている。
結衣はそれを見上げただけで、胸がいっぱいになった。
「結衣」
聞き慣れた声に振り返る。
「柊さん?」
そこには柊がいた。
しかも隣には熊谷までいる。
「どうして来たんですか?」
「見に来た」
「お仕事は?」
「終わらせた」
結衣は怪しむように熊谷を見る。
熊谷が少し声を落とす。
「通常の倍ほどの速度で」
「くま」
「失礼いたしました」
結衣は思わず笑った。
本当に来てくれた。
そのことが、何より嬉しかった。
◇
発表会が始まる。
結衣は壇上に立った。
緊張はしていた。
それでも、自分で作ったものなら何を聞かれても答えられる。
コンセプト。
素材を選んだ理由。
色や形に込めた意味。
試作の段階で何を変えたのか。
すべて、自分の言葉で説明した。
発表が終わる。
一瞬の静寂。
そのあと、大きな拍手が起きた。
「とてもいいですね」
「次の企画も糸瀬さんにお願いしたい」
「あとで直接お話しできますか?」
次々に声をかけられる。
結衣は何度も頭を下げた。
「ありがとうございます」
胸が熱かった。
以前は、自分が作ったものなのに、別の人の名前で賞を取った。
自分の作品なのに、自分の名前を呼んでもらえなかった。
でも今は違う。
「糸瀬さん」
そう呼ばれるたびに、少しずつ実感が湧いてくる。
これは自分の仕事だ。
自分の名前で認めてもらえたんだ。
少し離れた場所で見ていた熊谷が言った。
「素晴らしい評価でございますね」
柊は当然のように答える。
「結衣だからな」
熊谷の口元が少し緩んだ。
「左様でございますね」
◇
発表会が終わったあと。
柊は取引先の役員に呼び止められた。
「久世社長、少しよろしいですか」
結衣から少し離れる。
熊谷も、当然のように柊の近くへついていった。
ほんの数分。
怜奈が待っていたのは、その瞬間だった。
「結衣さん」
結衣が振り返る。
「怜奈さん……」
以前の匿名メッセージのこともあり、結衣の表情は少し硬くなる。
だが怜奈はいつも通り、上品に微笑んだ。
「今日は本当におめでとう。素敵だったわ」
「ありがとうございます」
「自分の名前で評価されるって、嬉しいものよね」
「……はい」
怜奈は結衣のお腹へ一瞬視線を落とした。
「つわり、大変なんでしょう?」
結衣は少し警戒しながら答える。
「最近は少し慣れてきました」
「そう。でも無理はしないほうがいいわ」
怜奈は紙袋から一本の飲み物を取り出した。
「これ、妊娠中でも飲みやすいって聞いたの」
「え?」
「よかったら」
結衣が受け取ろうと手を伸ばした。
その瞬間。
「結衣様」
熊谷の声がした。
振り返ると、いつの間にかすぐ後ろに立っている。
「そちらは私がお預かりいたします」
怜奈の笑顔が、ほんの一瞬止まった。
「ただの飲み物よ?」
熊谷は穏やかに微笑む。
「結衣さんへの贈り物なのだけれど」
「結衣様のお身体に入るものにつきましては、念のため確認させていただいております」
言葉は丁寧だ。
だが、一歩も引く気はない。
結衣は少し驚きながら二人を見ていた。
◇
そこへ柊が戻ってきた。
「何をしている」
結衣が事情を説明する。
「怜奈さんが、私に飲み物を持ってきてくださって……」
怜奈が苦笑した。
「大げさなのよ。結衣さんの身体を気遣って持ってきただけなのに」
柊は熊谷が持っている飲み物を見る。
そして怜奈へ視線を移した。
「安全なんだな」
「もちろんよ」
柊は少し考えるように黙った。
そして、飲み物を怜奈の前へ置く。
「なら、お前が飲め」
怜奈の表情が止まった。
「……どうして私が?」
「安全なんだろう」
「結衣さんのために用意したものよ」
「同じものを用意して、お前が先に飲め」
怜奈は答えない。
ほんの数秒。
その沈黙だけで、柊には十分だった。
目が冷たくなる。
「くま」
「はい」
「預かれ。結衣には触れさせるな」
「承知いたしました」
熊谷はすぐに飲み物を保全する。
怜奈は無理に笑った。
「本当に失礼ね」
「そうか」
柊は謝らない。
怜奈はそれ以上何も言わず、その場を離れた。
だが――。
その笑顔はもう、以前のものではなかった。
◇
後日。
熊谷が社長室へ入ってきた。
いつもの穏やかな表情が消えている。
「社長。例の飲み物について結果が出ました」
柊が顔を上げる。
熊谷は検査結果を机へ置いた。
「妊娠中の方が摂取した場合、母体および胎児に重大な危険を及ぼす可能性のある成分が確認されたとのことです」
柊の表情が消えた。
「結衣が飲んでいたら?」
熊谷は少し間を置く。
「結衣様にも、お腹のお子様方にも、深刻な影響が出た可能性があります」
社長室が静まり返る。
柊は怒鳴らない。
だからこそ、熊谷にはその怒りの大きさが分かった。
「警察には」
「相談できるよう、現物と検査資料は保全しております」
ただし。
現時点では、怜奈自身が中身を変えたと断定できる証拠まではない。
柊は静かに立ち上がった。
「怜奈を呼べ」
◇
怜奈は最後まで認めなかった。
「私は知らないわ。用意したものを渡しただけよ」
柊は冷たい目で見る。
「二度と結衣に近づくな」
怜奈の顔が歪んだ。
その場にいた結衣へ視線を向ける。
「……あなたに何があるの?」
結衣が黙る。
「家柄もない。財産もない。久世家にふさわしくもない」
「怜奈」
柊の低い声が響く。
だが怜奈は止まらなかった。
「柊があなたを妻にしたのだって、そのお腹に久世家の子どもがいるからじゃない」
結衣の表情がわずかに曇る。
怜奈はそれを見逃さなかった。
「お腹の子がいなくなっても、柊はあなたを選ぶかしら?」
その瞬間。
「選ぶ」
迷いのない声だった。
怜奈が振り返る。
柊は結衣の前へ立つ。
「子どもができる前から、俺は結衣に結婚を申し込んでいる」
「でも――」
「俺が選んだのは結衣だ」
柊はまっすぐ怜奈を見る。
「最初から、お前じゃない」
怜奈の顔から、完全に笑みが消えた。




