↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
久世家の男は生涯一人の女性しか愛さない  作者: てんこ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
19/28

第19話|夫婦になる日

母への結婚の挨拶を済ませた翌日。

柊は宣言どおり、結衣を連れて婚姻届を提出しに来ていた。


結衣は手元の書類を何度も見直す。


「柊さん、本当に今日出すんですね……」


「昨日言った」

「そうですけど」


「何か問題があるのか」

「心の準備というものが……」


柊の眉がわずかに寄る。


どうやら本当に、何を準備する必要があるのか分からないらしい。


結衣は小さくため息をついた。

それでも、もう迷いはなかった。


必要な手続きを終え、窓口を離れる。

たった一枚の紙。

それだけなのに――。


糸瀬結衣から、久世結衣になった。


その事実が、不思議なくらい胸に重かった。

そして少しだけ、嬉しかった。


隣を見ると、柊はどこか満足そうな顔をしている。

そこへ熊谷がやってくる。


「社長。本日は随分ご機嫌でございますね」


「いつも通りだ」

「左様でございますか」


結衣は思わず吹き出した。


「絶対、いつも通りじゃないですよね?」


熊谷は穏やかに答える。


「私からは何とも」


「くま」

「失礼いたしました」


こうして二人は、正式に夫婦になった。


ただし、会社への公表はまだ少し先にすることにした。

今は何より、結衣の体調を優先する。


静かな新婚生活が始まった。


◇


妊娠が分かってから、結衣のつわりは少しずつ強くなっていた。


朝は特につらい。


コーヒーの香りだけで気分が悪くなる日もある。

食べられるものも、その日によって違った。


そして――。

柊も同じだった。


社長室。


「くま……」

「はい」


「レモン」


熊谷は慣れた手つきで透明のタッパーを差し出す。


柊は一切れ取って口にする。

さらに一切れ。

もう一切れ。


「社長。召し上がりすぎでは」

「これしか食える気がしない」


ちょうどそのとき、結衣が資料を届けに来た。


「失礼します」


机の上のタッパーを見て、思わず笑う。


「今日もレモンですか?」


柊が不機嫌そうに結衣を見る。


「お前のせいだ」

「私のせいにしないでください」


熊谷が淡々と口を挟む。


「原因は結衣様ではなく、久世家の体質かと」


「くま」

「失礼いたしました」


結衣はとうとう声を上げて笑った。


「でも、柊さんまで同じなのって不思議ですね」

「俺が聞きたい」


そう言いながら、柊はまたレモンへ手を伸ばした。



数日後。


社長室では、柊が書類に目を通していた。


熊谷が、いつものタッパーを机の上へ置く。


柊が手を伸ばしかけて、止まった。


「くま」

「はい」


「これは何だ」


いつものレモンの隣に、なぜか仕切りを挟んで梅干しが並んでいる。


「梅干しでございます」

「見れば分かる」


熊谷は平然と答えた。


「そろそろレモンにも飽きるころかと思いまして、ご用意いたしました」


柊はしばらく梅干しを見つめたあと、一つ口へ入れる。


「……悪くない」

「それは何よりです」


もう一つ手を伸ばしてから、柊が熊谷を見る。


「くま」

「はい」


「お前、妙に詳しいな」

「何がでしょう」



熊谷は黙って柊を見る。



「……お前、妊娠したことあるのか」


「ございません」


即答だった。


◇


もちろん、つわりがあるのは柊だけではない。

結衣にも、だるさや吐き気が続いていた。


それでも体調が落ち着いている時間には、仕事を続けていた。


正社員になったばかりだから。


それだけではない。

結衣自身、デザインの仕事が好きだった。


ある日。

柊がデザイン部へ行くと、結衣がいつものようにパソコンへ向かっていた。


「結衣」

「はい?」


「気持ち悪くないのか」


結衣は画面から顔を上げる。


「気持ち悪いですよ」


柊の眉が寄る。


「なら、なぜ仕事してる」


結衣は不思議そうに答えた。


「仕事だからです」


結衣はしばらく何も言わなかった。



自分はついさっきまで社長室で、


「くま、レモン」


と言っていた。



同じような吐き気を抱えながら、結衣は普通に仕事をしている。



その夜。


自宅のソファで、結衣はいつの間にか眠ってしまっていた。

柊は隣に座り、まだほとんど目立たないお腹を見る。


ここに二人いる。


今も、結衣の身体の中で育っている。

自分も吐き気やだるさを感じているからこそ、少しだけ分かる。

これが毎日続いているのだ。


「……こんなの毎日か」


結衣がうっすら目を開けた。


「何がですか?」


「お前、よく仕事できるな」

「柊さんだって働いてるじゃないですか」


柊は真顔で答える。


「俺の腹では二人育ってない」


結衣が笑った。


「確かにそうですね」


柊は少し黙る。



それから、珍しく素直に言った。


「結衣。すごいな」


結衣の笑顔が止まる。


「……急にどうしたんですか」

「思っただけだ」


結衣は少し照れながら、柊の肩へ頭を預けた。


◇


結衣の妊娠が分かって以来、柊は出張をできるだけ入れなくなった。

結衣が麻衣に突き飛ばされたとき、自分にも同じ痛みが走った。


離れていても分かる。

だからこそ、遠くへ行く気にはなれなかった。



熊谷が翌週の予定を読み上げる。


「午前は役員会議、午後は取引先との打ち合わせ。翌日は――」


柊が途中で聞く。


「出張は」

「ございません」


「今後も極力入れるな」

「承知しております」


熊谷は理由を聞かない。

十分分かっていた。

結衣のそばから離れたくないのだ。


しかも今の熊谷は、秘書、仕事の補佐、つわり対策係、久世家の体質相談役まで兼任している。

柊がタッパーを見る。


「くま」

「はい」


「減ってる」

「社長がお召し上がりになったからでございます」


柊は黙った。

熊谷も平然としていた。


◇


一方。

怜奈は焦っていた。

匿名メッセージを送っても、結衣は柊から離れなかった。

それどころか――。


二人は入籍した。


久世家の祖父母へ正式に紹介されるより先に。

誰の許可も得ず。

柊は、自分で結衣を妻にした。


そこで怜奈はようやく理解した。


柊は最初から、誰かに認めてもらって結衣を選ぶつもりなどなかった。

自分で選び、自分で決めたのだ。


さらに悪いことに、柊は結衣からほとんど離れない。


会社では柊。

柊が忙しければ熊谷。

自宅には使用人や看護師までいる。


「……邪魔ね」


結衣が一人になる時間が、ほとんどない。


怜奈は結衣の予定を確認していく。

そして。

ある予定で指を止めた。


新作デザイン発表会。


会場は久世グループ本社ではなく、外部のイベントホール。

スタッフは朝から準備。


結衣も参加する。

招待者名簿に、柊の名前はない。

熊谷も通常なら柊と会社にいる。


ほんの短い時間でも。

結衣が一人になる可能性がある。


怜奈は予定表を見つめ、静かに笑った。


「ここなら……」


◇


そのころ。

社長室では、柊がレモンをかじりながら翌週の予定表を見ていた。

突然、一つの文字で目が止まる。


「くま」

「はい」


「結衣の新作発表会はいつだ」

「来週火曜日でございます」


「俺の予定は」

「通常業務でございますが……」


熊谷が一瞬、言葉を止める。



「社長はご招待されておりません」


柊は予定表を閉じた。



「俺も行く」


熊谷が一瞬黙った。



「ご招待されておりませんが」


「関係ない」

「……承知いたしました」


熊谷は静かに予定表を書き換えた。


怜奈はまだ知らない。

自分が唯一見つけたと思った隙へ――。

柊も向かおうとしていることを。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。